第9話 失くした手袋
親子連れがごった返す待ち合い室で、1人の男の子が中年の女性の袖を掴んでいる。小学校の低学年くらいなのだろうか、賢そうな顔をしているけれど、女性の横でずっと耳を触っていた。
診察室に呼ばれて入っていく女性の横顔を見て、
「お母さん?」
凪は女性にむかってそう呼んだ。
耳を塞いでいた男の子と一緒にいた中年の女性は、凪を捨てていった母の
凪が立ち尽くしていると、もう1人の看護師が呼びにきた。
「松岡さん、処置室で患者が待っているよ。」
「あっ、すみません。」
凪は仕事へ戻った。
お昼休み。
母の事が気になり、さっきの男の子のカルテを開いた。
「松岡さんも、凪だったっけ。」
心理士の足立が言った。
「そうですけど…。」
「渉とは上手くいってるの?今度結婚するんだろう。」
「うん、まあ。」
凪は男の子の事が気になり、カルテに目を落とした。
「この凪くんは、言葉が出ないんだ。」
足立はそう言ってカルテの表紙を見せた。
「小学2年生。聾学校へ通ってる。」
足立がそう言った。
「耳を触っていたのは?」
「たぶん、中耳炎なんだろうね。」
凪は両親の名前を見た。
「凪くんのお父さんは7年前に亡くなっている。本当のお母さんは、凪くんを産んですぐに亡くなったそうだよ。今のお母さんは、凪くんがお父さんの同級生らしいよ。途方に暮れているお父さんから話しを聞いて、凪達のお母さんになってくれたんだね。今のお母さんは、自分の家庭を捨てたっていうから、その事はけして褒められるものではないけれど、この人のおかげで、凪くんは穏やかに暮らしていける。」
凪は母が旧姓のままである事に気がついた。
「結局昔の家族の事、捨てられないんだろうな。凪くんは自分と名前が違う事をきちんと説明しているみたいだし、2人の間にはそんな事なんてどうでもいいのかもね。絆って、そういうもんなんだろう。」
足立はそう言ってカルテを閉じた。
「お昼にしようか。午後からも休む暇なんてないよ。ここいらの小学校でも、インフルエンザが出てきたらからね。」
夕方。
凪は母の住所を調べて、近くまで来ていた。
比較的新しい1戸建ての公営住宅の窓には、明かりがついていた。凪はそれを確認すると、車に戻ろうと運転席に手を掛けた。
「凪、やっぱり来たのね。上がって。」
母は凪を家にあげた。
男の子は新聞を読んでいた。
「凪よ。同じ名前。」
母がそう言った。
「お母さん、なんで話してくれなかったの?」
凪は母に言った。
「お茶、飲むでしょう。今、温かいの入れるから。」
母は話しを逸らした。
「お茶なんていらないよ。なんで!」
凪が母の肩を掴むと、男の子は急いで走ってきて凪の手を止めた。
「凪、こっち。」
母は男の子に微笑むと、凪を食卓テーブルに呼んだ。
「何でもわかってるのよ。」
母は紅茶を準備した。
「だって言葉は?」
「わかっているかもしれないし、わからなくてもいいと思っているかもしれないし…。」
凪は新聞をマジックで塗りつぶし始めた男の子を見た。
「彼がああやって塗りつぶしているのは、どうしてなのか私にはわからないの。」
母は凪に紅茶の入ったカップを出した。ゆらゆらと湯気が立つ薄い茶色を凪は黙って見つめていた。
「もう一度会えるなんて、思っても見なかった。凪、お父さん、元気にしてる?」
母がそう言った。
「結とは時々話しをしてたの。お母さん、凪にひどい事したね。」
母は熱いはずのカップを両手で包んだ。
「みんな元気にしてるから…。」
凪はそう言うと、男の子の方を見た。
「この子のお父さんとは、高校の同級生。ずっと好きだったけど、キレイな彼女がいたからね。凪くんは、その彼女と結婚して、やっとできた子供だったらしいの。」
「凪くんお母さんも、同級生なの?」
「そう。クラスは違うけど、知ってる人。」
「お父さんの事は、もう好きじゃないの?」
「大好きだよ。だけど、違うの。」
「勝手だね。子供の事を言い訳にしてるけど、大人は自由に道を選んでる。」
「そうだね、本当に。」
「お母さん、もう行くね。」
凪は玄関に向かう途中に、男の子の頭をなでると、
「じゃあね。」
小さな声で男の子に言った。
凪は母が選んだ道の理由が、少しわかった気がする。だけど、自分は母の様な生き方はしたくない。
帰り道。
アスファルトの床が、深々と足を冷やす11月のバスターミナル。
凪はそこから見えるナナカマドの実を眺めた。
消してしまおうとすればするほど、思い出は真っ赤に色付いていく。
21時の最終のバスを見送ると、凪は席を立った。
冷たい冬の風は、頬を突き刺すようにあたってくる。マフラーに深く顔を沈めると、駐車場に停めてあった車へと急いだ。
待っていても無駄だ時間だとわかっていた。
それでももう一度、話しがしたかった。
頑張ってみると言ったくせに、本当はもう頑張れない。
家に着くと、渉が夕飯を作って待っていた。
「遅かったね。電話したのに。」
渉はそう言った。
「ごめん。」
凪は手袋を取ると、ソファに座る渉の横に立った。
「どうした?」
渉が立って凪の顔を覗いた。
「なんでもない。」
凪は上着を掛けに部屋に向かった。
「凪。」
「ん?」
「そんなに悩む事?」
渉は凪に聞いた。
「悩むよ。田嶋さんと違って、私の家は壊れてしまったんだから。」
凪はさっき見た母の痩せた手や、何も話さない父の背中や、何もかも知っている結が無理に作っていた笑顔が浮かんできて、聞こえるはずのない早織が自分をからかう声が聞こえていた。母がわからないと言ったあの子が、黒く塗り潰していた新聞を思い出し、凪は急に立っているのが辛くなると、耳を塞いでしゃがみこんだ。
「もしかして、また持ってきたの?」
渉は凪を抱きしめた。
「凪が捨てられないものがあるなら、そのまま持っていればいいよ。急いだりして、悪かったな。」
渉はそう言って凪の手を握った。
「そういえば、今年に入って何回目だよ。また違う手袋を買ったのか。」
渉がそう言った。
「片方だけ落としたら、もう片方は使えないからね。」
凪は渉を見て笑った。
「だったら最初から2つ、同じ物を買えばいいだろう。今度の休みに、買いに行こうか。」
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