第8話 冬の月

 昨夜遅くに降った雪が、道に残り砂埃にまみれて黒くなっている。雪の後に少し降り出した冷たい雨は、雪が解けるほどの暖かさは持ち合わせていなかった。


 田嶋との関係が1年近く経った頃。

 広田が手術室に移動になった。

 凪以来久しぶりに入った新人が、母親から預かっていた母乳を、別の子に与えるミスが起こしてしまう。  

 何度も不妊治療をし、40を過ぎてやっと授かった我が子は、心臓に病気を持って生まれてきた。  

 母親が涙と共に絞り出したであろう数ccの母乳は、別の子の胃袋を満たした。両親の怒りは計り知れず、それ以来、父親は看護師達をずっと責め続け、母親は自宅で塞ぎ込んでいるようだった。

 本当ならば、誰からも祝福される子供の誕生が、NICUにやってくるというだけで、母親を孤独の暗い海へと誘い出す事になる。そして、いつ昇るかわからない太陽の光りを、地平線の向こうを祈るように待つしかない。

 大人ならば、すぐにでも別の病院へ転院する事もできるだろうが、そう簡単にはいかない小児医療の事情の中、親もスタッフも、誰もが苦しい状況になっていた。

 新人の看護師はそれ以来、仕事には来ていない。イライラしている主任達は、現場のスタッフにきつく当たるようになり、師長は何度も広田をNICUに戻すよう、看護部長と掛け合っている様だった。

 何も知らずスヤスヤ眠っている赤ちゃんを見ていると、大人のやりとりを知ってか知らないのか、日々成長し、外の世界で生きるための準備が整い始めていた。時々、お腹の虫が彼をくすぐっているのか、楽しそうに笑っている。

 面会を待っている小さな背中は、母の帰りを待っていた父の背中とよく似ていた。


「看護師さんは、独身なんだろう?子供なんてもちろんいないだろうし。」

 赤ちゃんを見ていた父親が凪に言った。

「母親になるのって理屈じゃないんだ。この子の母親は、お母さんという入り口で、ずっと迷っている。」

 父親はそう言った。

「そうですか…。」

 凪は小さな声で父親に言った。

「妊娠と子供の誕生って、本当は繋がってなんかいないのかもな。違う線がまた始まるんだよ。」

 凪は黙って父親の話しを聞いていた。

「昨日、彼女は入院したんだ。1人にしておけない状態だからね。看護師達は1回の食事を運び間違っただけって思うかもしれないけど、精一杯食事を作った彼女は自分を責め続けてる。なんでだろうな。彼女は何も悪くないのに。」

「ごめんなさい。何度謝っても済む話しじゃないのはわかっています。」

 凪は父親に頭を下げた。

「君に言ってもどうしようもないけど、ここにいると、どうしてこんなに辛くても生きなくてはならないのか、よくわからなくなるよ。」

 父親は保育器の赤ちゃん達を見渡した。

「子供を産んだ後の女性って、弱く見えている様で、ガラスの檻の近くで吠えている猛獣の様に感じる時もあるよ。家族という獲物を、食い殺そうとしている猛獣にね。」 

 男性は立ち上がった。

「お母さんは、大丈夫ですか?」

 凪は男性に聞いた。

「看護師さんはこの子達のために働いているんだろう。母親の事や家族の事情なんて関係ないんだよ。いいから早く退院させてくれよ。もう二度と間違いを起こさずにね。」


 夕方、洗濯物を畳んでいた凪は、何度も目をこすっていた。渉は凪の隣りに座ると、一緒に洗濯物を畳み始めた。

「疲れたのか?」

 渉は凪の顔を覗いた。

「ううん。大丈夫。」

 凪は残っていた洗濯物を自分の方に寄せた。

「そんなに多くないから、私がやるよ。」

 渉は眠そうな凪の頭をなでると、

「凪。違う職場で働いてみないか。」  

 そう言った。

「今の職場でも、私はいいよ。」

 凪は最後の洗車物を畳み終えた。

「同じ職場なら、お互いやりづらいだろう。」

 渉はそう言うと、凪の持っている洗濯物を手に取った。

「私と田嶋さんは、仕事中もほとんど会う事なんてないじゃない。」

「凪とは会う事はなくっても、俺はいろいろ聞かれるんだよ。今、NICUは大変なんだろう。」

「それは…、」

「やっぱり広田がいないとダメなんだろうな。みんな、そう言ってるよ。」

 凪は黙って下をむいた。

「凪が悪いわけじゃないんだ。その中の1人として見られる事が、なんだか悔しくってね。」

 いろんな思いが、凪の頭の中を行ったり来たりしている。言葉が見つからない凪の気持ちを気遣って、

「逃げ道は作ってあるんだ。それが約束だろう。知り合いに頼んで別の病院を紹介しもらったから。」

 渉はそう言って凪を抱き寄せた。

「田嶋さん、私が逃げたいのは、そういう道じゃないよ。」

「わかってる。だけど、もう頑張ろうとするな。」


 田嶋の説得で、凪は別の病院へ転職した。小さな小児科のクリニックは、夜勤こそないけれど、毎日毎日待ち合いには親子連れが溢れていた。 

 小児精神を専門とする男先生と、アレルギーを専門とする女先生。夫婦で経営しているクリニックに心理士として働いている足立拓巳あだちたくみは、渉と一緒の大学で、同じサークルに入っていたそうだ。

 開業以来クリニックを支えていたベテランの看護師が、親の介護のため退職したので、足立は渉に声を掛けた。

 静かな職場に慣れていた凪は、子供の泣き声と親が子供を叱る声が絶えない新しい職場の雰囲気がなかなか慣れなかった。

 検査のために暴れる子供を押さえて、腕に付けられた爪が刺さった傷を見て、本当はこんなはずじゃなかったのと、転職した事を後悔した。

 泣き叫ぶ子供に何とか点滴の針を刺すと、下手くそと言って隣りで笑っている母親の香水の匂いに、悔しくて唇を噛んだ。

「松岡さん。」

 心理士の足立が声を掛ける。

「そのうち慣れるよ。みんなそうやって大人になってきたんだから。」

 すやすや眠る赤ちゃんの背中を、そっと触っていた日々が懐かしい。


 凪は雪が降る中、ぼんやりと浮かぶ月を見ていた。

「そろそろ晴れるかも。」

 渉はそう言って凪の肩を抱き寄せた。

「降ったり止んだり、雨になったり。」

 凪は両腕を擦った。

「寒いかい?」

「少し。」

 渉は凪を背中から包んだ。

「病院を辞めてから、凪と一緒にいる時間が増えたね。」

 渉はそう言った。

「そうだね。」

 凪は浮かない顔をしていた。

「結婚しないか。幸せにするよ。」

 渉はそう言って凪を正面に向かせた。返事をしない凪を黙って見つめると、沈黙に耐えきれなくなった渉は、凪に唇を重ねた。何も言わず受け入れた凪の気持ちが、渉はなぜかとても不安になった。 

「何を考えてるの?」

 渉は凪に聞いた。

「忘れた。」

 凪は立ち上がると、ベッドに入った。

「凪?」

「ん?」

「あんまり嬉しいそうじゃないんだな。」  

 渉はそう言って凪の手を握った。

「風邪薬、飲んでくる。」

 凪はキッチンへ向かった。

「大丈夫か?」  

 あとを追いかけてきた渉が、凪の額に手をやると、

「大丈夫。別々に寝ようか、伝染るといけないし。」

 凪が言った。

「そんな事言っても、もう遅いだろう。」

 渉は凪にキスをしようと近づいた。

「寒くなった。」

 凪はベッドに戻った。凪がどことなく自分の話しから避けている様に感じると、渉は凪を抱きしめた。

「幸せにするから。」

 渉がそう言うと、凪は黙って微笑んだ。


 愛情なんてものはない。 

 それはきっと足りない何かを埋めるための言い訳。 

 あれほど仲の良かった両親だって、埋まっていたと思っていたはずのパズルは不完全で、これではどうしようもないと気がつくと、結局ゴミに捨てるしかなくなった。

 このままの関係がいいとは思わないけれど、形の違うものを無理に合わせようとして、結婚というパズルを完成させたと見せかけても、いつは窮屈になるか、隙間が広がっていくか。


「田嶋さん、あのね、」

 凪は服を脱がせようとしている渉の手を止めた。

「凪も田嶋さんになるんだよ。」

 渉はそう言ってキスをした。

 いつも言い出せない言葉が喉に引っ掛かっている。結婚なんてしたくない。だけど本当の気持ちを伝えたりなんかしたら、1人でいる寂しさを押し返せるかどうか、自分でもわからない。

 だから、最初からずっと恋なんて知らないほうが良かったのに。

 凪は無意識に渉の頬を触った。

「どうしたの?」

 驚いた渉は凪に聞いた。 

「何でもない。」

 凪は脩の膨らんだ頬を少し思い出していた。

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