第7話 遠くの雲
背中の半分近くまで伸びていた髪を、顎の位置まで切った。結ばなくてもよくなった自由になった髪と肩の間を、風が何度も通り抜けていく。
「ずいぶん、切ったんだね。」
田嶋は凪の髪を触った。
「俺は長い方が好きだった。」
田嶋はそう言うと、凪の首筋にキスをした。
田嶋の家に通う様になってから、なぜだか寂しさが募っていく。
たとえ今日1日会っていたとしても、また夜勤がくれば、1人で過ごす長い1日がやってくる。自分だけの時間で暮らしていた時は、最低限の睡眠時間と、必要な分だけの食事を摂るだけで良かったのに、やっと会えた短い時間に、詰め込んだ生活をしていると、自分の動かす燃料が足りなくなっている事にも、気が付かなくなっていた。
田嶋が軽くしてくれた背中に背負っていた分と、なかなか短くする勇気がなかった自分の髪の毛の分と、切って軽くなったはずなのに、思いっきり腕を伸ばせる肩は重く、前以上に足元ばかりを見ている気がする。
一度覚えた寂しさは、どんな事があっても消える事はないんだ。それどころか、誰かの隣りにいる時間が増えると、比例して増していく。
凪は飴を口に入れた。自分の膨らんだ頬は、田嶋にはどうやって見えているんだろう。
「飴食べる?」
凪は田嶋にそう聞いた。
「大丈夫。いらないよ。」
凪は田嶋の前に出そうとした飴を袋にしまった。
「今度の休みに泊まりがけで出掛けないか?」
田嶋が言った。
「田嶋さんの勤務とあう休みって、どこかあったかなぁ。」
凪は勤務表を広げた。
「今月はないみたい。」
凪は言った。
「来月、なんとか師長に頼んでよ。」
田嶋は凪の肩に顎を乗せた。
「うん。ちょっと話してみる。」
「凪。」
「ん?」
「やっぱりちょっと、切り過ぎたね。」
田嶋は凪の髪を撫でた。
夏が終わり掛けた9月の末。
凪は夏休みを取った。田嶋も同じく夏休みを取れたので、2人で泊まりがけで出掛けた。
母がいなくなってから、待ち遠しくて眠れなくなる夜なんてなかった。
「お父さん、お弁当作ったから、持っていって。夜のご飯は冷蔵庫に入れてある。」
凪はそう言うと、テレビで流れていた天気予報を見た。
「昼からは雨だな。」
父が言った。
田嶋が車で迎えにきた。
「おはよう。」
「おはよう。昨日、眠れなかったよ。」
そう言った田嶋を見て、凪は微笑んだ。
「凪は準夜だったんだろう。夜中に帰ってきて、ぜんぜん寝てないんじゃないのか?」
「少し横になったから大丈夫。」
「今日はこれから雨だろう。早めに宿に行って、ゆっくりしようか。」
「そうだね。」
「せっかくの休みなのに、雨なんて残念だね。」
「これじゃあ、花火も中止かなぁ。」
「花火、楽しみにしてたのか?」
「うん。しばらく見た事がなかったから。」
「かわりに水族館でも寄ろうか。」
「どうして水族館なの?」
「下から見上げる場所だからね。」
田嶋はそう言って微笑んだ。
平日のせいか観光客はまばらだったけれど、課外授業の小学生の集団がきていた。その列の後ろに加わり、一通り説明を聞くと、ただ泳いでいるだけだと思って魚にも、いろんな理由があるのだと知った。
水族館の中の薄暗い水のトンネルを通ると、ペンギンが頭の上を通っていった。影が動いたと思ってびっくりした凪を、田嶋は笑って手を繋いだ。
「ペンギンって水の中ではすごく速いんだね。」
凪が言った。
「凪は泳げるの?」
「少し。幼稚園の時、プール教室に通っていたから。田嶋さんは?」
「泳げるよ。けっこう速い方だと思うけど。今度プールにでも行こうか。」
「私はいい。」
凪は田嶋にくっついた。
「寒いのか?」
「うん。」
車に戻ると、田嶋は上着を脱いで凪に掛けた。
「大丈夫だから。田嶋さんの方が風邪引くよ。」
凪は上着を返そうとした。
「俺は暑いくらいだよ。」
田嶋が自分のために嘘をついているのがわかった。
「温かいもの、買ってこようか。」
近くのコンビニに車を停めると、
「待ってて。」
凪はコンビニの中へ走っていった。
隣りに停まっていた車の運転席から視線を感じた。脩の様で、その顔ははっきりとは見えない。
女の人がその車の助手席に乗り込むと、男性は凪から視線を逸らした。
今度は凪が隣りの車の様子を見ていたが、どこにでもいそうな彼女と彼氏の様だった。
「隣り、知り合い?」
車に戻ってきた田嶋が凪に聞いた。
「ううん。」
凪はコップを田嶋に渡した。車の中はヒーターが最大にたかれ、暑すぎるくらいになっていた。ちょうど窓がくもってきて、隣りの視線がわからなくなるくらいが、都合が良かった。
宿に着くと、窓の外から見える川を凪は眺めていた。
「お風呂行かないの?」
田嶋が聞いた。
「雨、止まないね。」
凪は窓を見ながら言った。
「下に何かあるの?」
「うん。」
田嶋は凪の横に並ぶと、
「川か。」
そう言った。
「田嶋さんは寒くない?」
「寒くないよ。凪は寒いの?」
田嶋は凪の背中を抱いた。
「大丈夫。」
夕食が終わり、花火が中止になったという話しを聞くと、2人は予定していた時間を持て余した。
「背中押してあげようか。」
凪が言った。
「できるの?」
「いつも田嶋さんにやってもらっているから。」
「じゃあ、やってみてよ。」
凪がうつ伏せになった田嶋の背中を押すと、
「いてて、」
田嶋が言った。
「いっぺんに押すんじゃなくて、少しずつ力を込めて押すんだよ。半分押したら、もうやめて次の場所を押してごらん。」
何度かやっているうちに田嶋は目を閉じていた。
「もう終わり?」
「けっこうやったよ。」
田嶋は凪の手を引っ張ると、自分の胸に顔を寄せた。
「凪に触ってもらえる赤ちゃん達が羨ましいよ。」
田嶋はそう言って凪の手を握った。
「すごく悩んでる。今もずっと迷ってる。」
凪が言った。
「仕事の事か。」
「いろいろ。」
「広田は厳しいだろう。」
「厳しいけど、頼りになる人。」
「あいつが厳しくなったのは、なんでなんだろうな。昔はあんなんじゃなかったのに。」
「特殊な場所なの。病院の中でも、隠されてるみたいな所。」
「辞めたっていいんだぞ。凪を養っていくくらい、俺はできるから。」
「仕事を辞めたら居場所がなくなるよ。どうやって自分の価値を保てばいいの。」
「男はさ、好きな女が周りに認められても、それは嬉しくないんだよ。本音を言うと、自分よりもひとつ後ろにいてもらいたいからね。」
「ショックだなぁ、それって。」
「凪はずっと1人で生きていこうとしてたんだろう。男の力なんて借りずに、自分の力だけで頑張っていこうってさ。」
凪は田嶋の胸に顔をうずめた。
「知ってるよ。辛かった事も我慢してた事もみんな隠して強がって、そうやって生きていくしかなかったんだろう。逃げ道はちゃんと用意しておくから、もう力を抜きなよ。」
田嶋は凪の顔を上げると、唇を重ねた。
「田嶋さん、あのね、」
「電気消すか。」
「うん。」
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