第6話 氷の音

 車の窓にぶつかって息絶えた蜻蛉を見ていた。透明なガラスは、行き先を迷わせる。せっかくこんなに秋の終わりまで飛んでいたのに、最後はけっこう呆気ないものだったんだね。

 違うね。 

 冷たい風が冷やした蜻蛉の体は、もう最後の力が残ってなかったんだよ。

 凪は曇り色の空を見上げると、ぼんやりとした太陽を見つけた。


「ここ、田嶋さんの家でしょう?」

 車を停めた場所は田嶋のアパートの前だった。

「温泉って言ってたのに。」

 凪は騙されたと思って、携帯を出した。

「何やってるの?」

「家までの道を探してるの。」

 凪はそう言うと、携帯がなった。

 電話の相手は脩だった。

 凪は携帯を鞄にしまうと、道もわからずに走り出した。

「松岡さん、寒いから入って。もう少しだけ話しがしたかったんだ。騙したりしてごめん。帰りはちゃんと送って行くから。」

 田嶋が追いかけてきた。足を止めた凪は、鞄の中から何か聞こえてきたので、携帯を取り出した。出なかったはずの着信なのに、どこか押してしまっていたのか、携帯は通話の状態になっていて、脩が何かを話している。恐る恐るその声を耳にあてると、

「松岡、誰といるんだ?」

 脩がそう言った。

「関係ないでしょう。」

 凪は電話を切った。

 脩に冷たい言い方をした事が、凪は苦しかった。この前、あのまま脩の気持ちに答えてしまえば、素っ気ない態度をとられる事もなかったかな。

 それとも、脩が幸せを手に入れるために、同じような境遇の自分を、踏み台になっていただけなのだろうか。


 不思議そうに見ている田嶋の方を向くと、凪は頭を下げた。

「駅前まで送ってください。あとは自分で帰りますから。」

 田嶋はなかなか顔を上げない凪に近づいた。

「松岡さん、そんなに辛い事言うなよ。」 

 そう言って凪の肩を抱くと、凪を玄関まで連れて行った。

「上がって。」

 なかなか靴を脱がない凪の手を引くと、凪は仕方なく靴を脱いだ。バラバラになった靴のつま先が許せなくて、凪は玄関に戻った。靴を揃えるのを待っている田嶋の方を向こうとしたが、田嶋の家に入る事を受け入れているような自分の行動と、ひどく冷たい態度をとった自分が許せなくなり、凪はその場に座り込んだ。

「松岡さん、温まっていきなよ。」

 田嶋は凪の手を握った。

「こんな冷たい手で赤ちゃんを触ったら、みんなびっくりして起きてしまうよ。」

 田嶋はそう言うと、凪を抱きしめた。

「田嶋さん、なんでだろう。どうしてか上手くいかないの。」

 凪はそう言って自分の顔を覗いている田嶋の目を見つめた。

「辛いことでもあった?」

 田嶋は凪を部屋の中まで連れて行くと、こたつに案内した。

「もう少ししたら、暖かくなるから。」

 田嶋は凪の上着を脱がせようとした。凪は自分で上着を脱ぐと、すぐ横に置いた。

 田嶋は凪の上着をハンガーに掛けると、凪の隣りに座り、こたつに足を入れた。

「下の名前、凪っていうんだっけ?」

「そう。」

「名前とは違って、ずいぶん荒れているんだね。」  

 田嶋はそう言って凪の髪を撫でた。

「田嶋さんは、なんて名前なの?」

「俺は渉。」

「穏やかな名前だね。」

 凪はそう言って田嶋を見た。

「いつも横顔ばっかり見てると、そうやって正面を向いてくれた時、やっぱり俺の事好きなのかなって、勘違いするよ。」

 田嶋の言葉に凪は少し笑った。

「好きな人って、横顔しか思い出せないかもね。」

 凪が言った。

「松岡さんはどんな人が好きなの?」

 少し考えた凪は、

「よくわからない。」

 そう言って俯いた。

 田嶋は凪の背中に手をやると、

「温まっておいで。このままなら凍ってしまうよ。」

 そう言って、凪の肩を寄せた。

「背中は体の中で一番冷たい場所なんだし、冷たくて当たり前。」

 凪が言うと、

「自分でどれくらい冷たいかわかってる?」

 田嶋は凪の顔を見ながら言った。

「そんなに?」

「そうだよ。すごく冷たい。松岡さん、こっち。」

 田嶋は凪をキッチンに案内した。

「松岡さんのために、特別だよ。」

 凪にたくさんの柚子を渡すと、

「温まっておいで。これを湯船に浮かべて入るといいから。」

 そう言って浴室に凪を連れて行った。

「こんなにいいの?」

 凪は田嶋に言った。

「いいよ。ばあちゃんが送ってきたんだ。着替えとバスタオル、ここに置いておくから。」

 凪は柚子を抱えて浴室に入ると、湯船にボトボトと柚子の実を入れた。手に持っている時は、なんとなくくすんで見えていた黄色は、お湯に浮かぶと、はっきりとした黄色に変わった。凪はそのひとつを手に取ると、いつも吹雪の中、冷たい体で町の中を回っている父の事を思い、少し涙が出てきた。

 ただ黙々と生きている事が、どうしてこんなにも辛いのだろう。

 浴室から出てきた凪は、柚子をひとつ手に持っていた。


「田嶋さん、これひとつください。」 

 

 そう言って立っている凪が、田嶋は愛おしかった。

 このまま凪を抱きしめてしまえば、雪の様に溶けてなくなってしまいそうで、暖まったはずの体なのに、本当は冷たい風に吹かれていてほしいと願った。

「いいよ。たくさんあるから、家に持って帰りなよ。」

 田嶋は凪が手に持っている柚子とドライヤーを取り替えた。

「せっかく温まったんだから、早く乾かさないと。」

 田嶋はそう言うと凪に背を向けて浴室へ行った。

 自分が出てきた時には、凪は溶けてなくなっているのかもしれないと思うと、気持ちが焦った。

 凪の体を知ってる柚子の実は、ゆらゆらと揺れるお湯に浸かっている。


 凪は髪を乾かすと、こたつの中に入っていた。

「松岡さん。」

 浴室から戻ってきた田嶋は凪の背中を抱きしめた。

 溶けないで残っていた凪の体は、温かいはずなのに、冷たく感じた。

「背中の荷物、少し降ろしてあげようか。」

「何?」 

 凪はそう言って照れくさそうに笑った。  

 田嶋は凪から離れ、凪の背中に静かに手をあてた。

「ちょっと真っ直ぐ座って。」

「こう?」

 背筋を伸ばした指に力を込めて肩甲骨のあたりを押すと、

「痛っ、」  

 凪が言った。

「力を抜かないと、ほぐれないよ。本当は寝てもらった方がいいんだけど。」

「田嶋さんはそんな事もするんですか?」 

 凪は田嶋の方を振り返った。

「そりゃするさ。体の突っ張りを取るか取らないかで、動きが変わってくるからね。そっか、松岡さんとは仕事で会うことはほとんどないからね。」

 田嶋は凪の背中を触り続けている。

「私の背中も突っ張っているの?」

「そうだね、けっこう突っ張ってるよ。だけど松岡さんは、そうやってバランスをとっているんだろうね。少しだけ軽くしてあげるから、横になって。」

 田嶋はクッションを凪に渡すと、床に凪をうつ伏せにした。背中の緊張をほぐしていると、凪はウトウト眠り始めた。

「松岡さん、このまま泊まっていくかい?」

 凪は慌てて起き上がると、こたつに上がっていた柚子を手に取った。

「せっかく温まったんだから、このまま寝なよ。」

「田嶋さん、ありがとう。だけど、そういうわけにはいないよ。」

 凪はそう言っているが、少し迷っている様に感じた。田嶋は凪をベッドへ連れて行った。

「本当は最初から、ここに連れてこようと思ってた。」

 田嶋はそう言って凪の唇に近づいた。

「好きだよ。」

 凪は体がかたまり、田嶋に気持ちを伝える事ができなかった。ずっと背負っていた何かが、こたつの近くに転がっている。

 膨らんだ脩の頬が浮かんできて、田嶋の頬を見た。

「松岡さん、目、閉じなよ。」

 凪は首を振った。 

「ずっと見られたらけっこう恥ずかしいよ。」

 田嶋はそう言うと電気を消した。


 真夜中。

 体が痛くて、何度も寝返りを打っている凪に気がついた田嶋は、凪の背中を包んだ。

「大丈夫?」

 田嶋は凪に聞いた。背中越しに頷いた凪を自分の方に向かせると、

「付き合おうか。」

 田嶋はそう言って凪にキスをした。

 

 体も心も痛むのは、脩の事を想いながら田嶋を受け入れた罰だろう。

 きっと田嶋がいなければ、自分は大人にはなれなかった。いつか交わると思っていた平行線の様な脩との関係は、いつの間にか違う方向に離れていった。

 凪はこたつの上からこちらを見ている柚子に目をやると、田嶋の手を強く握った。

「それが返事?」

 田嶋はそう言って、もう一度凪にキスをした。

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