第5話 初雪
昨夜遅くまで降り積った雪は、朝方には止んでいた。少しだけ恥ずかしそうに見せた太陽の光りは、いたずらに吹いた風と共に、赤い実に乗っていた雪を、どこか遠くへ連れて行った。
〝会えない?〟
脩からラインがきた。
〝仕事〟
凪はそう返信をした。
あの日以来、脩は毎日の様にラインをしてくる。誘いを断るのが面倒になると、凪は仕事という2文字で、返信するようになっていた。
好きだという気持ちに甘えると、きっと後から寂しさの氷の海から逃げられなくなる。脩の事は気になってはいたけれど、これ以上彼に近づくと、きっと後悔してしまうから。
自分はもう少し、1人で立っていたい。
「お父さん、今年は雪が多いのかな?」
「今年は多いかもしれないな。山の方はもう雪になっているし、流氷は早くくるかもしれないって言われてるし。」
「そっか。また、大変になるね。」
凪は除雪で真夜中も重機を走らせる父の事を心配していた。
「凪、お父さんの事は心配しなくてもいいから。お前だって仕事が不規則だし、ご飯は適当に食べるから。」
「うん。わかってる。」
「結はお正月に帰ってくるのか?」
「ううん。向こうでバイトがあるんだって。」
「結にも迷惑掛けてるな。」
「今はみんなバイトしてるよ。バイトがいないと世の中も回っていかないんだし。」
「だけど、せめて正月くらいは。」
「私も仕事だし、お父さんも雪が降ったら仕事になるでしょう。誰もいない家に帰ってきても、結だってつまらないだろうし。」
「みんないつの間にか、バラバラになってしまったな。」
父はため息をついた。
「少し、飲む?」
凪は父の前に瓶ビールとコップを2つ出した。
「私も一緒に飲むから。」
父はコップにビールを注いだ。
「結、成人式には帰ってくるみたいよ。」
「そっか。それは良かった。その日に大雪が降ったら、張り切って除雪しないとな。」
夜勤が明けた土曜日。
凪は売店でお菓子を買っていた。昨夜は新しい子がNICUにやってきて、休む暇が少しもなかった。すぐに家に帰って、とにかくダラダラと過ごしたい。眠ろうと思えば冴えてくる目も、動画でも見ながら横になっているうちに、自然と閉じてくるだろう。
「松岡さん。」
凪が振り向くと、田嶋が立っていた。
「珍しいね。売店で見掛けるなんて。」
「帰る前にお菓子でも買っていこうと思って。」
田嶋は凪の持っているお菓子を手にとると、
「奢ってあげるよ。その代わり、ちょっとだけついてきてほしい所があるんだ。」
田嶋は凪に言った。
「今日は帰って眠ります。」
凪は田嶋からお菓子を奪うと、それをレジへ持って行った。
レジの前にいると、凪の横から割り込んだ田嶋は会計を済ませて、お菓子の袋を凪に渡した。
「これで交渉成立だね。12時に松岡さんの家の前で待っているから。」
田嶋はそう言うと売店を出ていった。
静まり返った受付の前を通り、職員玄関まで向かう途中の救急外来の待ち合いには、多くの人が順番を待っていた。
毛布に包まった子供や、車椅子に乗っている老人や、個人情報も何もあったもんじゃない、大きな声で名前が呼ばれ、やるせなさそうに返事をしている。
田嶋になんて断ろう。そう思っていると、
「平岡さーん、平岡脩さーん、どちらですか?」
脩の名前が呼ばれた。
凪は名前を呼んだ看護師の行く先を目で追うと、脩と同じ年頃の女性が横に並んでいた。
「松岡、」
脩と目があった凪は、脩の腫れた右腕を見た。
「誰なの、知り合い?」
ぴったりとついている隣りの女性が脩にそう言うと、
「まあ、いろいろ。」
脩は凪から目を逸らした。
凪は脩の姿を見掛けた事すら迷惑だったのかと思い、黙ってその場を後にした。
脩とはやっぱり住む世界が違うんだ。周りが放っておかない脩と、皆の中に入っていく事ができない自分とは、共通している部分は片親の長子だと言うだけ。 放っている光りの向きは別々の方向を向いている。どこまでも眩しく長く輝いている脩と、足元だけを照らすぼんやりとした自分の光り。脩が自分の事を好きだと勘違いして、少しだけ心が揺らいだ時間が、凪はとてももったいなく感じた。
小さなため息をつくと、玄関のドアを開けた。曇り空なのに目に刺さるような朝の明るさに、今度はひとつ、大きなため息をついた。このため息が地面に落ちる頃には、脩が言った言葉は忘れてしまおう。
駐車場に停めてあった凪の車のフロントガラスは、今日は赤い実の落とし物はなく、キレイだった。
もしかして、凪は田嶋の顔が浮かんでいた。
家についてからシャワーを浴びると、田嶋が買ってくれたお菓子を食べずにベッドに入った。
携帯の目覚しを正午にセットしたのに、目覚しを聞くことなく、眠れずに目覚しを解除した。
携帯を見たが、脩からのラインはなかった。
凪は支度をして玄関を出ると、田嶋がすでに家の前で待っていた。
「今、着いたところ。」
田嶋は嘘をついているのが、凪にはわかった。
「もしかして、車の窓、拭いてくれたんですか?」
凪はそう言って田嶋を見た。
「バレてたか。」
田嶋は照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。」
凪が頭を下げると、
「シートベルトしてよ。」
田嶋はそう言って車のエンジンを掛けた。
「どこに行くんですか?」
凪が聞いた。
「映画でも見に行かない?」
「えっ、映画ですか。」
テンションが下がった凪に
「ダメだった?」
田嶋はそう言った。
「ううん。」
凪は首を振った。
「疲れてるだろうから、歩いたりするより、座っているほうがいいと思ってさ。」
凪はどこか特別な場所にでも行くのかと期待していたけれど、映画だと聞いてて、少し複雑な気持ちになった。
「明日は休みなんでしょう?広田にそう聞いたから。」
NICUにいる5つ上の看護師の広田と、田嶋は同期だと聞いた。凪の指導にあたっている広田は、新人にも後輩にも厳しい看護師で有名だった。毎年新しい子が入っても、1年も持たないで辞めていくのは、広田がキツイからだと噂されていた。
「広田がさ、松岡さんは今までの子とは違うって言っていたよ。」
「私は、奨学金の返済があるから、辞めるわけにはいかないんです。」
「それって町の奨学金だろう。この病院が嫌なら、別の病院で働いてもいいんだし。それなのに、大変な所でよくやってるよ。」
「どこへ行っても大変だと思います。」
凪はそう言うと窓を見た。
赤く色づいたナナカマドの実は、灰色の空に負けない様に強がっている。冬がくる前に朽ち果ててしまえば、冷たい雪に体を覆われなくても済むはずなのに。
バカみたい。
凪は脩が目を逸らした朝の事を思い出していた。
「松岡さん、お菓子食べたの?」
「まだ。」
「さっきからお腹がなってるよ。もしかしてお昼まだだった?」
凪は恥ずかしくなり俯いた。
「俺も食べ損ねたから、なんか食べに行こうか。」
暗い映画館に入ると、お腹がいっぱいだったせいもあるのか、寝不足だったせいもあるのか、字幕を読んでいるうちに眠気が襲ってきた。
田嶋には申し訳ないけれど、ここならあと1時間は眠る事ができそうだ。凪は少し下をむくと、瞼が自然と落ちてきた。
「松岡さん、」
田嶋の声で目が覚めた。明るくなった映画館は、目の順応がなかなか整わない。
「ずいぶん疲れてるね。」
田嶋は凪の手を握った。
「ごめんなさい。せっかく誘ってくれたのに。」
「いいんだよ。松岡さんが少し休めるかと思って、ここに誘ったんだから。」
田嶋は凪の手を繋いで立ち上がると、
「温泉でも行こうか。松岡さんの手、氷みたいよ。」
そう言った。
「ここから、どれくらい?」
凪が田嶋に聞くと、
「そうだなあ、2時間くらいかな。」
凪は腕時計を見た。
「今日はいいです。家に帰ります。」
そう言うと、
「じゃあ、30分で着く場所ならいいかい?」
田嶋が言った。
「それなら、」
凪は田嶋のあとを付いていった。
「手、離してもらえませんか?」
「どうして?」
「だって、1人で歩けるし。」
田嶋は凪の方を見ると、吹き出すように笑った。
「そういう理由で、繋いでいると思ったの?」
「そうじゃないけど、なんて言ったらいいかわからなくて。」
「松岡さん、彼氏いた事ないでしょう?」
「それは、そんな事、どうでもいいでしょう。」
凪は田嶋の手を離そうとした。
「安心して、帰りはちゃんと送るから。」
田嶋はそう言って凪を車に乗せた。
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