第4話 鳥のいたずら
秋になり真っ赤な実をつけたナナカマドの木には、鳥たちが羽根を休めてその実をついばむ。
飛び立つ時に体を軽くするためなのか、地上に落としていく赤い糞は、消化されない種が混じり、車のフロントガラスが汚していく。
看護師になった凪は、地元の総合病院で働き始めた。
4年間、ただひたすら特待生である事を守り続け、大学生らしいキラキラとした学生生活も送らず、真面目という鎧をつけた毎日を過ごしていた。
凪と入れ違う様に大学生になった妹の結は、英語の勉強がしたいと、この町から離れ遠くの大学へ進学した。
「お父さんには、お姉ちゃんがいるから。」
そう言って家を出ていった結は、今まで抱えていたものを、いくつこの家に置いていく事ができたのだろう。
母がいなくなってから、これまでと同じ日常を取り戻そうとしていた結は、たくさんの辛さを抱えていたはず。
結、もう自分の好きな様に生きていけばいいよ。結の笑顔を見るたびに、父の背中を見ているのと同様に、ずっと辛かった。
そんな風に周りを不幸な感情に巻き込んでいく自分は、やっぱり哀れな人間なんだろうけど。
「松岡さんの車だけ、いつもピンポイントで狙われるね。」
薄暗くなった職員駐車場で、理学療法士の
「ここ、場所が悪いのかもね。あの木から飛び立って、ちょうど落ちるタイミングの場所が松岡さんの車の上なんだよ。」
凪は真っ赤に色づいたナナカマドの実を見ていた。
「総務には何度もこの木を切ってくれって頼んでいるんだけど、ここの土地主が良いと言わないみたいなんだよね。」
田嶋はそう言って木に止まっているカラスを見ていた。
「そうなんですね。」
「松岡さん、俺の場所と代えてやろうか?」
凪は車のドアに手を掛け、
「大丈夫です。お疲れ様でした。」
そう言って車に乗り込んだ。
近くの洗車場で車を洗っていると、
「松岡?」
隣りに止まった車から、男性が降りてきて声を掛けた。
「平岡くん…。」
凪は少し後退りした。
「久しぶりだな。同窓会でも会えなくて、どうしてるのかと思ってたよ。」
凪は車を洗いながら、愛想笑いをした。
これ以上平岡と目を合わせないように、凪は黙々と車を洗った。
家に着くと、脩が車から降りてきた。
「松岡、ちょっと出ないか?」
凪は黙って家に入ろうとした。
「じゃあ、家に上がっていいか?」
「もうすぐ父が帰ってくるから。」
玄関のドアに手を掛けていた凪の手を、脩は引っ張り、凪を助手席に乗せた。脩は運転席に座ると、俯いている凪のシートベルトを締め、車を走らせた。
「ご飯食べてくるって、連絡しておけよ。」
脩が言った。
「勝手だね。」
凪はそう言うと、窓の外を見た。
道に落ちたイチョウの葉は、ちぎられた紙の様に厄介なゴミになっている。数枚の葉なら、物思いに耽るのにはちょうどいいけれど、これだけたくさんの葉が小さな丘を作ってしまうと、ため息も同じだけ出てきてしまう。
「松岡って、木見るの好きだよな。」
脩が言った。
「こんな中で、よく生きてるよね。」
凪は窓を見ながらそう言った。
「木の事か?人の事か?」
「どっちも。」
凪から返ってくる言葉は、どれも覇気がない。それでも脩は話し続けた。
「松岡は市立病院にいるんだろう?」
「うん。」
「俺は教育委員会にいるんだ。市職員の新人名簿の中に松岡の名前を見つけてさ。そのうち会いに行こうと思ってた。」
「そ。」
「何科にいるんだ?」
「小児科、NICUにいる。」
「大変な所にいるんだな。」
「病院はどこも大変だよ。」
さっきから窓を見ている凪の横顔は、高校生の頃と何も変わっていなかった。
居酒屋に入ると、脩はビールを2つ頼んだ。
「飲めるだろう?」
「そうだけど、」
凪は浮かない顔をしていた。
「まだ、怒っているのか?」
「何が?」
「高校の頃、」
脩はきっと、バスターミナルでの事を聞いているのだろう。
「もう忘れたよ。」
凪は話しをはぐらかした。
脩は凪の言葉を聞いて、なぜか少しホッとした。
笑う事のない凪の横顔は、バス停で並びながら、参考書を読んでいたあの頃のまま。
ラインのそっけない返信の様な言葉を、凪は今でも自分に返してくる。止まったままの時間なら、すぐに進める事ができるはず。縛り付けるものがなくなった今なら、凪が好きだという思いを素直に伝える事ができるから。
「松岡は化粧してるのか?」
「する必要なんかないでしょう。職場では大きなマスクで顔を覆うし。」
凪はそう言って俯いた。
「マスクは松岡の鎧なのか?」
「どういう意味?」
「笑った顔、見せない様にさ。」
凪は少し顔を上げて、脩を見た。
「そういうわけじゃないないよ。感染症が流行が収まっても、未だにみんなもマスクなんだし。」
「そうだな。みんなマスクしてるから、人の顔なんて、想像するしかなくなった。」
凪は脩がさっきからずっと自分の事を見ているのは感じていたが、脩の真っ直ぐな視線と、向き合うのが怖かった。また少し俯くと、
「食べろよ。」
脩は料理を凪に勧めた。
「平岡くんが先に食べて。」
凪は自分に近づけられた皿を、脩の方へ近づけた。
「名前呼ばれたの、久しぶりだな。」
平岡は凪の取り皿に料理を乗せた。
さっきから下を向いている凪に体をむけると、
「松岡、笑えよ。」
平岡はそう言って凪の頬をつまんだ。
「食べよう。」
凪は割り箸を割ると、体を向き直して料理を口に入れた。
「仕事は大変なのか?」
「うん。平岡くんは?」
「まあ。まだ何も始まっちゃいないよ。指示がないと動けないしさ。」
「いろいろ、困るね。」
「こういう世代なんだろう。仕方ないさ。指示を待てない奴は、自分で会社を作って、どこにも属さないんだし。」
「そういうのって、羨ましいと思う?」
「どうかな。俺は何かに属してる方が楽かな。」
「サッカー、続けてるの?」
「小学生を教えるくらいはやってるよ。」
凪は脩を見て微笑んだ。
「難しいよ。いろいろ。ちゃんと教えてくれないとか、自由にやらせてくれないとか言ってくるし…。」
「平岡くんの上司だって、きっとそう思っているんだよ。」
凪はビールを飲んだ。
「松岡の言う通りだな。」
脩もビールを飲んだ。
「まだ、飲めるだろう?」
「もういいよ、これで。」
「もう少し付き合えよ。まだ酔っていないだろう?」
「うん。そういえば、車はどうするの?」
「ああ、そうだな。ここに停めておこうか。」
「明日の朝は車を使わないの?」
「明日は土曜日だよ、だから休み。松岡は?」
「私は夜勤だから。」
「松岡はすごいな。ちゃんとレールに乗ってるんだ。」
凪は運ばれてきたビールを飲んだ。
「この前ね、いくら飲んでも酔わない事に気づいたの。私、人としてどうかと思うよ。」
「なんで?」
「楽しくなる事もないし、忘れたい事もみんな覚えてるしかない。」
「そういう事に酒を使うつもりだったのかよ。」
「じゃあ、他にどうやって使うの?」
少し強い口調になった凪を見て、
「松岡、おまえ酔ってるぞ。」
脩はそう言って笑った。
「日本酒でも飲もうか。酒造りの様子を見たら、悲しく飲むなんて、申し訳なく思うぞ。」
「そっか、そうだよね。」
店を出ると脩はタクシーが捕まるまで歩こうと言った。バスターミナルまでの道を、2人は歩いていく。すっかり寒くなった秋の夜は、冷たい風が頬を刺すようだ。
「寒いな。」
脩は凪に近づいた。凪はポケットから手袋を出すと、手にはめた。自分を見ている脩に気がつくと、
「平岡くん、使う?」
そう聞いてみた。平岡は凪の右手の手袋を取ると、自分の右手にそれをはめた。そして、凪の右手を左手でつかむと、だまって自分の上着の中に入れた。
ポケットから逃げ出そうとする凪の手を離さないよう捕まえると、黙って歩き始めた。
「勝手だね。人の気持ちなんて考えないで、みんな自分の事を好きだと勘違いしてる。」
凪はそう言った。
「松岡は俺の事嫌いなのか?」
「うん、苦手。」
「ずいぶん、ストレートに言うんだな。」
「私はね、平岡くんの持ってる自信が、理解できないの。いつも自分はヒーローで、外側見てる人は、いつも拍手してくれると思っているでしょう?私みたいに拍手をしない人間は、おかしいやつなんだって指を指して笑ってる。」
「松岡、俺はそんな風に思ってないよ。」
「私を誘ったのって同情なの?それとも、すぐに自分に落ちるとでも思った?」
脩は冷たくなった凪の頬を包んだ。
「俺は松岡だけを見てるんだ。高校の頃からずっと、松岡とこうして話したかった。」
凪は脩を突き飛ばして逃げようとした。そんな風に言われた事が、本当は嬉しいはずなのに、自分も好きだという感情を認めるのが怖かった。今まで、ずっと強がって生きてきた。やっと自分の力で暮らしていける様になったのに、誰かに寄りかかってしまったら、なんにもならない。脩の事を思えば思うほど、本当は弱かった自分が、温かい光りに手を伸ばそうとしている。
凪は自分の家に向かって走り出すと、あっという間に脩に追いつかれた。凪の腕を掴んで抱きしめた脩は、
「松岡が走っても、すぐに追いついてやる。」
そう言って凪の体を包んだ。凪の唇に近づいてきた脩から顔をそらすと、
「平岡くん、やめて。」
凪はそう言った。
「そっか。松岡は廣岡の事が好きだったんだよな。」
不意な平岡の言葉に凪は驚いた。
「そんな事ない、違う。」
凪は否定したが、同じ小学校から一緒だった廣岡は初恋の相手で、高校の頃もずっと好きだった。
凪がテニスを始めたのも、中学の頃、廣岡がテニス部にしたのを知って、少しでも近づきたいと思い、テニスを始めた。あの頃は母もいて、自分がやりたいと言った事は、なんでもすぐに準備ができた。
廣岡とは、せっかく同じ高校になったのに、クラスが違ったせいで、一言も話す事がなくなった。母が家に帰って来なくなった高校2年の秋の終わり、廣岡が同じテニス部の1年生の女の子と、一緒に帰っているのを見掛けた。
何も始まらないまま終わった形のない恋と、母の不倫と重なった歪んた愛の形は、凪を恋愛という感情から遠ざけた。
「松岡、なんでそんなに辛そうなんだ?笑って流せる事も、みんな抱えるなよ。」
「抱えてなんかない。」
脩の腕の中で逃げようとしてる凪をもう一度抱きしめると、
「俺と松岡はすごく似てるんだ。」
そう言った。
「平岡くん、苦しいよ。」
凪は平岡の胸に顔を埋めた。
平岡が凪の唇にもう一度近づくと、
「もう少し、頑張るから。」
そう言って平岡を遠ざけた。
平岡は凪の気持ちがわかった。
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