第3話 雪の桜

 バスの窓から、ターミナルのナナカマドの実を見つめた。少しずつ降っている雪は、また赤い実に真綿の様な帽子を被せていた。時々吹く弱い風では、水分の多い雪は払う事ができない。今日はその白さに包まれながら、冷たい夜を迎えるんだろう。真っ赤に色づくナナカマドの実は、それでも寒くないはずだと強がっているように見えた。

 

〝ごめん〟

 

 凪は脩が昨日送ってきたラインを見た。

 謝るなら、あんな事しないで。

 

 夕食の支度を終え、部屋で勉強していると、妹の結が帰ってきた。

 吹奏楽部のコンクールが近いのか、この頃は土日も朝から練習に行っている。生活時間がバラバラな家族なんだから、食事も好きな時間に食べるようにしたらいいのに、結は一緒に食べようといつも凪を誘ってきた。

 せめて結が高校を卒業するまでは、この家で暮らそう。そう思っていた凪は、家から通うことのできる大学を選ぶんでいた。好きなように行きたい道を選べる友人達が羨ましい。どんどん荒んでいく心は、誰かの笑い声を耳にするたび、僅かに残る透明な水面すらも隠してしまう様だ。

 もどかしさの隙間を埋めるようにする勉強は、なかなか思うようにはかどらない。自分の要領の悪さを、逃げた母親のせいにしたところで、何にもならないけれど、時々無性に生きているのさえ、腹が立ってどうしようもなくなってくる。

 母が捨てていったものは、父や子供達への冷めきった愛情なんかよりももっともっと尊い時間。その血が流れている自分だってやがては、そういう人間になっていくのかもしれない。いっそこの社会になんか溶け込もうとなんてせず、やっぱりあの女の子供だからと、非難されて生きるほうがいいとさえ思ったりする。


 〝何してる?〟

 脩からまたラインがきた。

 〝別に〟

 凪は一言そう返信すると、携帯の電源を切った。

 半分も終わらない参考書を閉じて、問題集を開いた。

 さっきから窓が明るい。止まない雪は、明日の朝には膝を越えて積もっているかもしれない。


 平岡脩は、小学生の時から、地元のサッカーチームでは有名な少年だったらしいが、母子家庭の彼は、強豪校には進学せず、地元の高校にやって来た。

 高校2年のクラス替えで、一度だけ隣りの席になった事はあったけれど、一言二言話すくらいの関係で、好きだとか嫌いだとか、そんな風に意識する事はなかった。

 昨日、バスターミナルで2人で話した時、なんとなく話しているうちに、少し余計な事を言い過ぎた。きっと父子家庭になった自分の事を、可哀想だとか、気の毒だとかそんな哀れんだ目で見ていたに違いない。


 私は皆が考えるほど、哀れな人間なんかじゃない。少し卑屈になっているだけで、初めから決まっていた運命なんだから、黙って受け入れて、それはそれで、なるようになる。

 平岡は私の事を寂しそうにでも見えたのかな。声を掛けたら、すぐに恋に落ちるとでも思っていたのかな。

 馬鹿にしてるよ。  

 私は限られた選択肢の中で、1人でも生きていけるスキルを、必死に身に着けようとしているのに。

 キラキラとした世界にいる平岡には、どうせそういう事なんて理解できるはずもない。


「凪、起きてたのか?」

 父が帰ってきた。

「お父さん、仕事終わったの?」

「いいや、今晩は泊まりになるから、弁当を取りにきたんだ。」 

 父は作業着を着ていた。

「お弁当は結が作ってくれたの?」

「そうだよ。凪の携帯が繋がらなかったから、もう寝たのかと思ってた。」

「ごめん。」

「勉強の邪魔して悪かったな。父さんは、凪が入りたい学校に入ってくれればいいと思ってる。学費の事はなんとでもするから。」

「ありがとう、お父さん。私、実はずっと看護師になりたかったの。だから、ここから通える大学があって、ちょうど良かった。」

 凪は見え透いた嘘をついた。

 父が頑張れば頑張るだけ、その背中を見るのが切なかった。

「じゃあ行ってくる。この雪なら、明日のバスは止まるだろうから、学校には行けないかもな。」

「うん。わかった。お父さん、帰ってくる時に連絡して。」 

 凪は携帯の電源を入れた。

 このまま雪が降り続いて、バスが止まれば、明日は平岡にも早織にも会わなくて済む。凪は明日は自宅で思いっきり勉強ができるはずだと思い、問題集を閉じてベッドに入った。


「松岡?」

 電源をつけた途端に着信がなった脩からの電話に、凪は思わずワンコールで出た。

「もう寝るから。」

 凪はそう言って電話を切ろうとした。

「待ってよ、松岡。俺、ちゃんと松岡と話しがしたくって。」

「何?」

「松岡は本当に地元の大学に行きたかったのか?」

「そうだよ。」

「2年の時、進路希望に別の大学を書いていたのを見たから。」

 凪は思い描いていた未来を思い出した。将来の事なんて想像もしていなかったけど、ただ好きな勉強をして、4年間楽しい大学生活を過ごしているうちに、押し出させるように世の中に出ていけばいい、両親が揃っていた頃は、漠然とそう思っていた。

「もう忘れた。」

 凪は答えた。叶わない明日にいつまでもしがみついていたところで、時間だけが過ぎていく。せめてそんな未来はこっちから捨てたと笑ってやりたい。

「俺、松岡がそう書いてたから、その大学の推薦を受けるつもりだったのに。」

 平岡がそう言うと、凪は選べなかった夢を簡単に手に入れようとしている平岡の事が悔しくて、自分がとても惨めになった。

「平岡くんはそうやって人のせいにするの?」

 凪は感じの悪い言い方をした。これが本当の性格なんだ。自分の事さえも持て余しているのに、人の話しなんて穏やかに聞いていられない。

「俺は松岡と一緒にいたかっただけなんだ。」

 平岡は小さな声で言った。

「平岡くんは別の世界の人だよ。なんの取り柄もない私とは違う。」

「松岡、あのさ、」

「そんな風に思っててくれてありがとう。」

 凪は脩の言葉を遮るように電話を切った。


 次の日。

 父の言う通り、町はひどい吹雪になり、バスは止まった。凪の家から1時間しか違わない高校の付近は、深々と雪が降っているくらいで、人が出歩く分には支障がなく、町は通常通りの時間が流れていた。


〝凪、今日は休みなんだね。〟

 優里からラインがきていた。

〝うん。バスが止まったから〟

〝昨日の事、気にしてるの?〟

〝気にしてないよ〟

〝さっき平岡がはっきり早織を振ったみたいだよ〟

〝そうなんだ〟


 平岡は凪の事を思っていた。空いている凪の席は、ため息が降り積もり、とても寒そうに見えた。

 平岡は窓の外を見た。

 少し離れた凪の町の中は吹雪いているのに、自分のいる場所は、静かに雪が降っている。どんどん白くなっていくその景色の中、1人で家にいる凪の事が気になった。

 凪の手袋の赤い色が、はっきりと目の前に浮かんだ。涙を拭った赤い手袋は、灰色の空の空気の中でも、負けないように強がって見えた。


 夏の終わり。

 テニス部のキャプテンをしていた凪は、最後の大会に向けて、いつも遅くまで練習していた。キャプテンを引き受けたのだって、顧問の教師とチームメイトが無理矢理凪にキャプテンを押し付けたと聞いた。結局そのせいで、好きで楽しかったはずのテニスが、凪を苦しめている。

 誰もが帰った後、黙々とサーブの練習をしている凪の姿を見て、どうして器用に生きられないのか、脩はそう思っていた。

「帰らないのか?」

 ボールを集めていた凪に脩は聞いた。

「サッカー部は終わったの?」

「終わったよ。」

「そっか。もうこんな時間か。」

 凪は学校の壁に掛かる大きな時計を見上げた。

 脩が落ちているボールを拾って凪に渡す。

「ずいぶん、線の外に転がってるな。」

「うん。上手くいかなくてね。」

 最後に落ちていたボールを拾って凪に渡すと、

「どうもありがとう。」

 凪はボールの入ったカゴを持って部室へ行った。

 脩はその後ろ姿を見ていると、

「脩、帰るぞ。」

 サッカーの同級生が呼びにきた。

「松岡、張り切ってるな。」

 同級生が言った。

「そうか?キャプテン、無理矢理やらされてるんじゃないのかよ。」

「あいつが意地を張ってるんだろう。性格きついから、ああいう女は彼女にはしたくないわ。」

 

 部活を引退した頃。

 凪は急にバスで通学し始めた。

 いつもは自転車で通学していたのに、学校から少し離れた家に引っ越したと聞いた。

 バス停で待ちながら参考書を見ている凪の横顔が、1枚の写真の様に脩の心に貼り付いた。

 付き合っている子はいたけれど、なんとなく凪を目で追ううちに、自分はもしかしたら、ずっと凪の事が好きだったのかもしれないと思うようになった。

 何度も話し掛けようと思ったが、姿を探せば探す度に、凪に近づくと事ができなかった。

 バスターミナルで凪が1人でいるのを見掛けた時、気持ちを悟られないように隣りに座ったら、急に飴をくれたりなんかするから、少し勘違いをしてしまったよ。

 

 12月。

 脩との事があってから、凪はクラスの子達とは少し距離をとっていた。なるべく浅い会話でしか話しているうちに、あっという間に冬休みになり、休みが開けてからはすぐに自由登校になり、同級生とは顔を合わせる必要がなくなった。

 思い出なんか作らなくても、それはそれで凪には都合良かった。


 2月14日。

 凪は希望の大学に学費が免除になる特待生で合格した。喜んでくれると思っていた父は、なぜかごめんと謝った。

 本当はやりたい事が他にあった。だけど、現実をちゃんと見据えないと、自分立とうとしている地面が揺らいでしまう。形のないものに手を伸ばしたって、後できっと後悔するから。


 3月1日。

 最後の制服に袖を通した。

 残しておきたい思い出なんかより、捨ててしまいたい時間の方が多い。

 母がいなくなり変わってしまった生活は、どこを見てもため息が転がっている。本当は楽しい時間だってあったはずなのに、卑屈になっていく自分がとてつもなく醜い。

 卒業式の後、脩とは顔を合わせたが、凪は目を逸らした。仲の良かった友達と他愛もない会話をして、明日も明後日もこの生活が続くような感じがしたまま、凪は学校をあとにした。

 家に帰ると、

「お姉ちゃん、制服は捨てないで。来年は、私がそれをもらうから。」

 結がそう言った。

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