30センチの恋

金石みずき

30センチの恋

 わたしと亜希は顔を向かい合わせにして立っている。

 その距離、ぴったり30センチ。

 そして1分後には、29センチになる。

 つまりは、そういうゲームだった。


「最近ドキドキしてない」


 始まりは亜希のそんな一言だった。

 してないね。わたしは何気なく返した。


 わたしと亜希は幼なじみで、おたがいの両親ともに共働きで、ふたりともひとりっこで、家が隣同士。


 だから、姉妹みたいにいつも一緒に過ごしている。


 ――29センチになった。


 ほんのちょっとだけ、亜希との距離がつまる。


「波留は、最近ドキドキしてる?」


 亜希が訊いてくる。


「どうかな」とわたしは返した。


 返しながら、静かな部屋に響く心臓の音を、うるさいなと思った。


 ――いつの間にか、25センチになっていた。


 じりじりと近づく距離は、いやでも亜希を強く意識させる。


 当たり前だ。


 だってさっきから、視界の亜希の占める割合が、どんどん大きくなっている。


『相手から目を離してはいけない』


 実はそんなルールもあるものだから、いやでもわたしは亜希を見るしかない。


 最初はじっと目を見ていたけれど、30センチが29センチになる前に、そらしてしまった。


 相手と目を合わせ続けるという行為は、想像以上にストレスがかかるものだ。


 でも、そのルールがあるものだから、亜希のどこかを見なければならない。


 視線を落としてまず見たのは、唇だ。


 亜希の唇はつややかにみずみずしく、やわらかそうだった。


 見ていると、わたしの唇はどうなんだろうとつい考えてしまう。


 荒れていたらどうしよう。


 一度考え出すと止まらず、なんだか本当に荒れているような気分になってきて、恥ずかしくて、噛むように口の中にしまい込んでしまう。


 そうすると自動的に息がつまるようになって、でも口から息を吐けなくて、鼻息が荒くなって、結果的に心臓が酸素を求めて余計にドクドク動き出してしまう。


 なんだかいけないような気持ちになってきて、慌てて顔を上げる。


 ――今の亜希との距離は、15センチ。


『ゲームをしよう』


 そう言ったのは、亜希だった。


 わたしはてっきりテレビゲームでもするのかと思って安易に同意したのだけれど、そのあとに説明されたのはこのへんてこなゲームだった。


『30分かけて、30センチの距離を縮める』

『その間に、相手から目を離してはいけない』

『負けたら、相手の言うことをなんでもひとつ聞く』


 なんだそれって感じだった。


 こんなゲームに、なんの意味があるのだろう。


 亜希はこのゲームに、どんな意味を見いだしているのだろう。


 15センチまで近づくと、さらに亜希がよく見えるようになってくる。


 最初の30センチくらいならいつものようにあるけれど、ここまで近づくことはさすがに稀だ。


 この距離になると、さっきみたいに唇を見ようとすれば、ちょっと無理して下を向かなくてはならない。


 もう見なくて済むと思うとほっとしたのか、わたしの唇も外に出てきた。


 だけど、自然にすれば、さっきよりも目がよく見える。見える。……見える。


 だからちょっとだけ、反則気味かもしれないけれど、横に反らしてみる。


 亜希の形のよい耳が目に入ってきた。


 耳だけをしっかり見たことなんてなかったから、なんだか新鮮な気持ちだ。


 窓から差し込む光に照らされて、ふわふわと生える産毛の存在に気がつく。


「なに見てるの?」


 亜希が訊ねる。


「産毛」


 わたしが答える。


 すると亜希は「……見ないでよ」と非常に恥ずかしそうに、消え入りそうな声を発した。


 じわー……っと耳が色を強めていく。


 頬は赤みがさすってよく言うけれど、耳は赤って感じじゃなかった。光が透けるからだろうか。


 亜希の耳は濃いピンクの絵具を水に溶かしたみたいだった。


 そして、同じことを意識したわたしの耳も、きっとピンクなのだろう。


 ――残りは、10センチ。


 ここまで近づくと、見えるところは限られてくる。


 今までそらしていたものに、強制的に向き合うことになる。


 つまりは、目だ。


 わたしは今、亜希に出会ってから一番、亜希の目を観察している。


 一つ発見をした。


 亜希の目は、意外と黒くなかった。


 茶色。それもこげ茶より、もう少し薄い。そう、琥珀みたいな色だ。


 琥珀の海に走る集中線は、深い瞳の黒に落ちていく。


 自然、わたしの視線もそこに吸い寄せられてしまう。


 いったん自覚すると、もう離せそうにない。なんだかブラックホールみたいだ。


 そしてわたしの瞳がブラックホールに落ちているということは、亜希の瞳もまた同じように落ちている。


 わたしたちは揃って落ち続けている。


「波留の目、結構黒いんだね」

「亜希の目は、意外と明るいよ」

「そうなんだ」

「そうだよ」


 わたしたちは、もしかすると自分よりも相手のことを知っているのかもしれなかった。


 ――あと、5センチ。


 ここまでくると、もっと亜希が濃くなってくる。


 頬を撫でる亜希の吐息が、温かかった。


 わたしの吐息も、亜希を撫でているのだろう。


 まばたきが頻繁なのは、なぜなのだろうか。


 亜希も同じことを考えているのだろうか。


 バカみたいにうるさい鼓動は、5センチを震わせる力を持っているのだろうか。


 多分、伝わらない。5センチが、いやになるほど遠い。


 最初は近づいていくことに不安を覚えていたのに、もうこの距離がもどかしい。


 もう、言葉はいらなかった。


 ――3センチ。


 鼻が最初にぶつかりそうで、わたしは少し顔を右に傾けた。


 ――2センチ。


 亜希が、わたしとは反対の方向に顔を傾けた。


 ――1センチ。


 やっと安心して、ふたり同時にゆっくりと目を閉じた。


 そして――。


 0センチの亜希は、やっぱりやわらかかった。

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30センチの恋 金石みずき @mizuki_kanaiwa

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