第3話 労働

「ねえ、お父さん。私は常々思っていることがあるんだけどさ」


 夕食時。向かいに座る里香が急にそんなことを口にした。

 その顔はひどく真剣なもので、浩二はぐっと身構えて話を促した。


「人間は働き過ぎだと思う。もっとゴロゴロすればいいのにさ」


 だからこそ、そんな里香の言葉に浩二は思わず椅子から転げ落ちそうになった。


 急に真顔でそんなことを口に出すなんて、一体全体どうしたというのだ。浩二はひどく不安を覚えた。そこで、一つ咳払いをしてそれから何かあったのかを聞いてみる。 


「いや、別に何かあったってほどでもないよ。たださ、就職活動をしていく中で思ったんだよね」


 そういえば、里香は先日就職活動を始めたと言っていた。ウェブ説明会に参加したり、インターンシップに応募しているようだ。その中でいろいろと思うところがあったのかもしれない。


 ここは人生経験豊富な自分が社会人の楽しさを教えなければと浩二は意気込んだ。


「働くことは里香が思うよりも楽しいんだぞ」


 里香は顔をしかめた。


「うーん、本当かなあ。じゃあ例えば、お父さんはどんないいことがあったの?」


 その言葉に浩二は腕を組んで考える。


 働いていて良かったこと。

 これまでのいろいろな経験が頭をよぎっていく。辛いこともたくさんあった。それでも、それを乗り越えたことで感じた達成感や喜びははかりしれない。


「一言では表せないな。ただ、最初はその面白さは分からないと思う。働いていく中で感じる部分が大きいんじゃないかな」


 だが、里香は全く納得がいかない顔をしていた。


「別にさ、私は働くことに反対しているわけではないんだよ。でもさ、一日だいたい八時間。それに残業もある。そんな労働環境はなんだかなって思う。もう少しみんなが短い時間働くようになるといいなって感じるんだよね」


 浩二はその話に頷きながら、その理想の根元には何があるのか気になった。


「短い時間で働けるとどんないいことがあると里香は思うんだ?」

「そうだね。例えば長く働けるようになると思う。それから時間ができて消費意欲も上がる。あとは親と触れあう時間が少ない子どもを減らせる」


 親と触れあう時間が少ない子どもを減らせるね、と里香の言葉をなぞる。そして、ふと気づく。これは自分と里香のことではないかと。


「あっ、別に最後のやつはうちの話をしてるんじゃないんだからね。その、このあいだ大学の授業でそう言う話があったからそう思っただけで」


 そんなことを早口でまくしたてる。


 だが、きっと最後のはうちのこともあっての発言だろうと浩二は確信した。


 妻の恵が亡くなったのは里香がまだ小学五年生のときである。そこから浩二は男手一つで里香を育て上げたが、仕事も忙しく、とくに平日はなかなか家族の時間を取れなかった。

 そのことで里香がどう思っていたのかをこれまで聞いたことはなかったが、やはり寂しさを感じていたのだろう。


 思わず浩二はその手を里香の頭の上にのせた。


「いや、なに急に。やめてよ、うざいから」


 そう反発するが、浩二の目からは里香が心なしか嬉しそうな顔をしているように見えた。


「大丈夫だ、分かってる、分かってるからな」


 だから優しくその頭を撫でる。


「いや、なんにも分かってないでしょ」


 里香は椅子から立ち上がって後ずさった。さすがにそこまでは手が届かず、浩二は撫でるのを諦めた。


 里香は大きくため息をつくと、椅子に座って再びご飯を食べ始める。が、すぐにその手を止めて浩二を見た。


「お父さんが働くのが楽しいっていうのは分かったけどさ、働いていて一番嬉しかったことってなに?」


 嬉しかったこと。

 浩二は自分の記憶を探っていく。そしてすぐに答えを見つけ出す。


 しかしこれはどうなのだろう。若干迷ったのち、口を開いた。


「恵、お母さんと出会えたことかな」

「うわあ……」


 そんな浩二の答えに里香は冷めた目を向けたのであった。

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