第2話 予定

 夜九時。

 お風呂から上がると、里香が居間のソファに座り手帳を見ていた。


 眉間には僅かにしわが寄っており、どうやら何か考えているらしい。


 そっとしておこうかと考え、横を通り過ぎようとしたところでふと里香が顔を上げた。必然的に浩二は里香と顔を見合わせる。


「お父さん、お風呂出てたんだ」

「ああ、ちょうどいまな」


 浩二は里香から離れたところにある椅子に腰掛けた。

 会話は途切れ、静寂がおとずれる。時計の音がはっきりと部屋に響く。お互いの緩やかな呼吸の音までもが、聞き取れる静けさ。


「ねえ、お父さん」


 そんな空間を破ったのは里香だった。

 その口は閉じられへの字になっている。里香が何か思い悩んでいるときにする癖だ。


 些細な考え事をしているときより一段くらい深い物思いに耽っているときにする。

 浩二は幼い頃から何度も見たその顔に、少しだけ心配になって次の言葉を待った。


「暇っていいことだよね」


 しかし、すぐにそれが杞憂だと分かった。

 浩二は呆気にとられ、目をぱちくりさせた。一体里香はどうしたというのだろう。


「あー、急にそんな話しても困るか。えっとさ、友達の話なんだけど、なんか今週すごい忙しいって言ってて手帳見たらぎちぎちに予定が詰まってたんだよね」


 あー、なるほどと浩二は思った。会社の若い女性の中にもそういう子がいる。元気だなあなんて思うだけだったけれど、どうにも里香はそれに思うところがあるようだ。


「それにどう思ったんだい」


 里香は困った顔をする。


「なんというか、モヤモヤしてさあ。羨ましいとかでは全然ないと思うんだけど。うーん、なんだかなあ」


 そう言ったきり、里香はまた口をへの字にして黙り込んでしまった。


 一体里香が何にもやついているのか気になるが、そもそも前提の話が浩二にはさっぱりであった。


「それはどういう類いの予定なんだい?」

「遊びとかバイトとかいろいろ。なんかさ、予定を入れてないと不安なんだって」


 ふーんと浩二は頷く。しかしあまりよく分からなかった。予定がないことと不安という感情がどうつながるのだろうか。


 浩二は僅かに首を傾げる。前を見ると、里香の首も同じように傾いている。こういうところは親子だなあと感じるところだ。


「その子が一人暮らしだからっていうのもあるのかもだけどさ、つながってる感覚みたいなのがないと怖いらしいんだよね」

「それはいわゆる承認欲求的なものかな?」


 浩二は言葉にしてみて、なんとなく分かったような気がした。里香もゆっくりと頷く。


「多分それかもなあ。承認されることで、自分の価値を確認してるんだろうなあ」 


 なんだかそれはひどく生きづらいだろうなと浩二は思った。

 そこには他者への依存的な側面が強く見られる。もちろん人間は一人では生きていけないけれど、他者とずっと一緒に居続けることだってできないのだ。


「いまの子はけっこう人間関係が希薄なのかなあ」


 会っていないと、つながりを感じ取れない。それは、人間関係が選択的なことやネット社会であることが起因しているのかもしれない。


 浩二は自分自身の幼い頃を考えてみる。地域とのつながりがあって、そこでできた友人との関係は揺るぎないものだという実感があった。そして、いまでも親交を持っている人間はいる。


「まあ、たしかに本当に心の奥底にあるものはさらけ出さない人が多いかもなあ。私はあまりそうではないけど。親友とかには何でもいっちゃうし」


 里香はそう言って笑った。

 たしかに里香のことだ。なんでもあけすけなく話しそうである。現に浩二に対してだっていろいろと話してくれる。逆にそうであるから、信頼してもらえるということを実感できるところもある。


 毎日連絡を取ることよりも、たまにでも相談してくれたり、深い話をしてくれた方がよっぽどいい。


 ただ、そういった人間関係うんぬんは抜きにして予定について考えると、どちらがいいのだろうかと浩二は考えてみる。

 その答えはすぐに頭に思い浮かんだ。どちらがいいというのはないのだろう。


 いまは学生の身分。時間がある。でも、やがては仕事や結婚、育児などに忙殺される。暇も予定がつめつめなこともどちらも経験してみればいいのだ。

 きっとどちらが正解であり、不正解であるかなんて誰も分からないことだ。


「まあ、のんびりできるうちにしておくのもいいのかもな」


 だから忙しい側に行ってしまった浩二はそう助言することにした。


「よし。私は暇を楽しむであります。だからあとは任せた」


 里香はそう告げると部屋を飛び出していった。

 何のことだろうと思い部屋を見回すと、食器がそのままになっていた。


 浩二は思わず苦笑を浮かべ、立ち上がると流しへと向かった。

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