二人暮らし

緋色ザキ

第1話 結婚

 朝七時半。

 新聞を読みながらパンをかじっていた浩二は、ふと目の前でパンを食べながらテレビに目を向ける娘、里香に声をかけた。


「最近どうだ。彼氏でもできたか?」


 その瞬間、里香の大きな目がきゅっと細くなり、眉間にしわが寄った。


「いや、あのさ、お父さん。娘にそういうのってないから」


 それは猛烈な拒絶だった。

 はて、話題を間違えてしまっただろうか。


 女の子はいわゆる恋バナが好きだということを、会社の事務の子たちから学んでいたのだが、里香はどうやらそうではないらしい。


 里香は持っていたパンをお皿に置いた。


「あのさ、私じゃなかったら罵詈雑言の嵐で一生癒えない傷を心に負ってたかもよ」


 そういうものだろうか。まあ、たしかに周りの男性社員の話を聞いていて、娘ととても仲がいいなんてことは滅多にない。

 しかし、罵詈雑言か。いま心に傷を負えば、出社したくなくなってしまうかもしれない。そこで話題を変えることにした。


「最近学校はどうだ?」

「うん。まあぼちぼち」


 少しだけ不機嫌そうな声が返ってくる。ぼちぼち。それであればいい。何事もそんなに上手くはいかないのだ。


「まあ、一応彼氏はいるよ。そんなラブラブってかんじじゃないけど」


 やはりそうだったか。最近帰りが遅いことが増えたとは思っていたのだ。

 しかし、なんだかんだで教えてくれるあたり、うちの娘はかわいいなと浩二は心の中で思った。


「恋愛は、大切だからな」


 辛いこともあるが楽しいことも

ある。その経験が自身を一層厚みが増すのである。


「ふーん。てか、お父さんはどうなの。前にも言ったけど、私に気にせず再婚してもいいんだよ。母さんだって、お父さんの幸せを願ってるだろうしさ」


 そう言って、里香は仏壇の方を僅かに見やった。


 妻の恵が死んでから早十年。恵はがんで亡くなった。そして二人暮らしが始まった。


 母がいなくて辛いことも多かっただろうけれど、里香はすくすくと育ち、いまでは恋人もいる。少し目頭に熱さを感じた。


「時の流れは早いな」


 ぽつりと浩二は呟き、紅茶をすすった。


「それで、父さんはどういう人がタイプなの。やっぱり若い人?年の差婚でもいいけど、私よりは上の人にしてね」


 里香が勢いよくまくし立てる。

 なんだかんだ言って、恋バナが好きなようである。しかし、彼女の言葉に一つ訂正しなくてはならない。


「別に若い子が好みではないよ」

「ほんとかなあ?」


 里香は訝しげな表情を向けた。


「ほんとだって」

「えー、あんま信じられないなあ。うちのバイト先のスタッフの男とかみんな若い子好きだよ。なかには告白してる人もいるし」


 浩二はその言葉に仰天した。まさか、里香のバイト先がそんなことになっていたとは。

 誰もが知るチェーン店のカフェで働いていて、相談されることもないためとくに問題がないと思っていたのである。


「里香は大丈夫なのか?」

「うん。私は別に。なんかもっと可愛い系の子たちがそういう対象になるかんじ。ほんと、ロリコンばっかなんだよね」


 そう言ってぷんすかする里香。たしかに里香の見た目は可愛いというより大人っぽいものである。


「ていうか、私のバイト先の話はどうでもいいよ。お父さんの話。じゃあさ、お父さんは何歳くらいがターゲットなの?」


 ターゲットという言葉はひどく露骨な気もしたが、言わんとしていることは分かった。 浩二は考える。自分が恋愛対象として見る年齢。


「だいたい四十から五十くらいなかあ」


 もちろん多少の上下はあるかもしれないが、そのあたりが自分の中でしっくりきた。


「ふーん。同い年から十個下までかあ。ぶっちゃけさ、もうおばさんって呼ばれる年齢の人たちだけどどこに魅力を感じるの」


 ものすごい失礼な物言いに浩二は思わず苦笑した。


 たしかに若い子から見れば、妙齢の淑女たちもただのおばさんに見えるだろう。実際、浩二も若い頃はそういった年齢の人間たちが対象になるとは思いもしなかった。


 けれども時を経るごとに考え方は変わっていく。味覚が変わって嫌いな食べ物が食べられるのと同じように、女性の好みだって変化する。


「上手く言い表せないんだけど、年を刻んでいろいろな経験をしてきているからこその魅力っていうのがあるんだよ」


 もちろん、全員が全員その魅力を持っているわけではない。中には、見た目だけが成長していて、中身は子どもみたいな人もいる。


 ただ、年相応の経験をしてきた人からは、その立ち振る舞いや話し方などちょっとした部分からも魅力が感じ取れる。それは若い人が持ち得ない年長者の特権だ。


「うーん、よく分からないなあ」


 里香は左手で髪をいじる。これは彼女が考え込んでいるときの癖だ。


「そうだなあ。例えばさ、歴史的な建造物ってあるじゃないか。それらはほとんどが当時よりも劣化していると思うんだ。でも人間はそこに趣を感じ取れる。そしてそれは人間にも当てはまるっていうことだよ」


 里香はそれを聞いて少し首を傾けながらゆっくり頷いた。納得しそうでしていないというような顔をしている。

 とはいえ、これはいますぐに分かる必要はない。ゆっくりと時間をかけて理解していけばいいのだ。


 浩二は食器を流しのところへ運ぶ。それから、着替えるために部屋を出ようとしたところで、里香から声がかかった。


「お父さんが同年代の人を魅力に感じることは分かったんだけど、それじゃあいまいい人でもいるの?」


 浩二はふっと悲しげな笑みを浮かべると何も答えずに部屋を出た。

 その姿に、里香は吹き出したのであった。

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