ふしぎの庭のトリフォリウム

阿木ユキコ

忘れじの

 神妙な足取りで戻って来た同僚は、目が合うなり空っぽの両手を天に向けた。収穫はなしだ。いつものように。

 ふたりの研究員は、ひとりの老いた男のもとに日参していた。いまやすっかり廃れて失われつつある『古い魔法』。その秘密の一端を求めてのことだ。

「よく覚えているとも。だからこそ、話すことはできない」

 消えゆくものは、消えゆくままに。忘却の水底へと沈めるべきなのだとそう言って、老人は硬く口を閉ざしている。

「……爺さん、近頃はあんまり調子が良くないらしい。きょうもずっと横になってた」

 彼らに残された時間はあまり多くない。老人の胸の内に隠された物語は、いかようなものなのだろう。


 決して踏み入ってはならぬとの言い伝えが残る小さな沢、朽ちた橋の向こう側へ。

 辿り着けてしまったのは、ほんの偶然だった。

 家畜が逃げ出す騒ぎに大人たちは掛かり切り、子どもらも浮き足立って、少年を見咎められる者は誰ひとりいなかったのだ。

 そこにはぽつりと、石の棺が放られていた。

 周囲に残るまじないごとの跡は草むらに埋もれ、半ば土に還りかけている。

 蓋のない棺に納められた人だけが今まさに横たえられたばかりであるように、何もかもきれいなまま残されていた。婚礼の衣装を身に纏った、見知らぬ青年だった。

 静かに閉ざされていた目蓋が不意に開いて、少年の姿を映す。

「ああ、これは困ったな」

 彼らを取り囲む草むらが、不安な音を立てた。なにか、がふたりを見つめている――それは怒りに満ちていた。

 取り返しのつかないことをしたのだと、少年は悟った。

「今すぐに来た道を戻りなさい。そしてこのことを誰にも話してはいけないよ。見た人がいなくなり、聞いた人がいなくなり、伝承として残ることもなく忘れ去られた時、ようやくあの方は天に帰ることができるのだから」

 あとわずかだったのだと、青年は悲しそうに囁いた。少年が、彼らを見つけてしまいさえしなければ。

 少年は我が家へと駆け戻った。いまなお思い出すのはどこかの家の鶏を見つけて抱きしめた温もりと、底冷えするようなまなざし。大きな不可視の瞳、怖るべき存在と、その花婿に捧げられた刺繍の花の色。

 今すぐにでも全て忘れてしまえたら。

 願いが叶えられることはついぞなかった。


 尽力むなしく、研究員たちの調査は失敗に終わった。老翁は秘密を秘密のままに携えて、この世から旅立ったのだ。

「『古い魔法』が世界から消え失せる日も、そう遠くないかもな」

「消えゆくものは、消えゆくままに。忘却の水底へ……ですか」

 老人の口癖をぼんやりなぞると、同僚は呆れたように鼻を鳴らした。

「それが正しい道だって言うなら、おれたちはとんでもない悪党ってことになるけど」

 沈黙が落ちる。それきりふたりは多くを語らず、引き上げの準備に取り掛かるのだった。


▼あきさんへのお題は、

【伝説の花婿】、【消えゆく】、【廃れた】です!

予備:【話す】

#ファンタジックお題 #shindanmaker

https://shindanmaker.com/1194949

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ふしぎの庭のトリフォリウム 阿木ユキコ @akikimory

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