第11話

健一は、出来たばかりの名刺を渡されて、今日からしばらくは先輩社員との同行どうこう営業を命じられたのである。彼が配属された営業二課は、田中課長以下四人体制だった。松田さん、中村さん、そして健一である。中村さんは同じ大学の四年先輩だった。就職担当の藤田教授が言っておられた人だった。松田さんは東京薬科大学卒業で、健一よりも二つ年上の先輩だった。課長は熊本大学卒業で、今年三十歳であった。

 同じ大学の先輩の中村さんが同じ課で健一は安心した。過去に面識があった訳ではないが、同窓と云うだけで安心できた。中村さんも後輩と云うことで、いろいろと面倒を見てくれるので、心強かった。いよいよ同行営業に出発することになった。

 初日の今日は松田さんとの同行であった。松田さんの営業車で、久留米方面の病院、クリニックを訪問した。会社の営業車は、車体が緑色で、両サイドとバックに社章の十字のロゴマークが描かれていた。スバルのセダンの普通車だ。健一も独り立ちしたら同じ車を貸与されることになる。

 初日は病院三軒、クリニック五件を訪問した。初めての訪問経験で自分なりに学習したことは、殆ど、薬剤師としてのスキルは役に立たないと云う事だった。現在のMRは、そのようなことは無いと思うが、当時は、薬の特徴、作用機序、薬物動態、副作用情報等の説明など医者は聞いてくれない。そんな情報は必要時、自分で調べると言った対応であった。

 そんな情報よりもビジネスライクに、薬品をどれだけ安く納入できるか?薬価差益や添付、つまり(おまけ)が付くかと云ったことが関心事だったのである。例えば千錠買ったら二百錠付くと言ったようなことである。もっぱら、そちらの話題が主流だったのである。また、学会に出席する際の飛行機や列車のチケットの手配、病院やクリニックが主催するイベントへの協賛、宴席への招待、場合によっては現玉(現金)を渡すなど、およそ、薬品会社の学術員らしからぬ活動が日常茶飯事にまかり通っていたのである。

 薬品のセールスマンではあっても太鼓持ちではないと健一は憤りを感じたのだった。取引先の薬品卸を訪問しても、同様のことを勧められたのだった。この様な悲しく不本意な現状を同行している間に見せられて、この業界の体質の古さといやらしさを改めて痛感させられたのだった。

 健一は二か月間の同行見習いを終えて、八月から独り立ちをしたのである。担当件数は病院三軒、クリニック十二軒の計十五の医療施設であった。地区は、久留米市、大牟田市、八女市だった。三ヶ月間経過した時の営業成績は良い方であった。

全国の今年の新人のなかでは、十七人中三位だった。彼の目下の悩みは、会社から毎月支給される『交際費』を使いこなせない事であった。これは過去の実績に応じて、チケットを渡され、それを領収書に添付すれば清算して支払われるシステムだった。健一には現在、毎月五万円が渡されているのだが、殆ど、使わずに余ってしまうのだった。つまりは、これは太鼓持ち的に使える武器であったのである。しかも、このチケットは月々に使い切ってしまうのが原則だったのである。ただ、学術員間での融通はいたのだった。彼は毎月、余った分は先輩たちに融通していた。でも、一方で、悪用しょうと思えば、私物を買って訪問先の先生への贈り物として、領収書に添付すれば清算してもらえることになる。そんな社員はきっと居なかったのであろうと思うのだが⁉

 彼の給料は四万六千円前後だった。給料以上の交際費を貰っていたことになる。悶々としながらも真面目に熱心に仕事はこなしていたのだった。

 健一は支店から歩いて十五分の場所にアパ-トを借りていた。三畳一間で、トイレ共同、風呂無しで家賃は三千円だった。


 春の支店の社員旅行は唐津にいく事に決まった。一泊旅行だった。この時、宴席で健一は、入社一年目の抱負を発表させられたのだった。彼は

「全国の支店にいる今年の新入社員の中で、一番の営業成績を上げることと、今年中に五十万円の貯金を達成することです」と全員の前で抱負を語ったのである。成績の方は少し厳しいかも知れないが、貯金の方は毎月努力していたのだった。仕事はキッチリと真面目にやった。そして、日直、当直の当番には手当てが付くので、先輩たちの分を積極的に交代して引き受けたのである。このように自分を律していき、将来に大きな夢を抱いて頑張っていたのであるが、この後、健一の運命は大きく変わるのであった。

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