第4話
今日は一月十日だ。今日から吹き矢の教室にいく事にしたのだった。健一は教室のある天神まで出かけた。講座は十時から始まるので、家の前のバス停を八時十六分の西鉄バスで赤間駅まで行って、JRと地下鉄を乗り継いで、教室のある天神センタ-ビルにむかった。時間には十分余裕があった。
彼はコロナ禍騒ぎが
健一は一年ぶりの参加で、久しぶりに気持ちが
「やあ、深瀬さん。久し振りですね。元気にしていましたか?コロナで薬局も大変だったでしょう」
「ええ、いろいろあってですね。長い間お休みして済みませんでした」藤沢さんは微笑みながら頷いていた。
「さあ、次回の認定試験は二月末の日曜日ですよ。三段昇格に向かって頑張りましょう」
藤沢さんは健一の構えの型や吹く息のタイミングの指導を行ってくれたのである。
一年ぶりに吹く矢の行方を固唾を飲んで二人は見守った。久々の感触に健一は興奮していた。
一時間半後に講座を終えて博多駅に向かった。今日は末娘の由美子に仕事を辞めたことを家に帰ってから話そうと思っていたのである。
由美子は鹿児島で働いている。放射線技師として医療センターで働いていた。正月には帰省しなかった。コロナ感染症のためだ。旦那さんの和彦君もデパ-トに勤めているので帰れなかったのである。彼の実家も福岡だが止む負えなかった。両親もさぞ寂しかったであろう。会社から他県への移動はストップがかかっているのだった。全くコロナ禍で生活が一変してしまった。
健一は由美子への自分の退職の連絡はラインのメ-ルで知らせていた。彼女からの返信のメッセージは
『まだまだ仕事出来るんじゃないの?自分から辞めるなんて勿体ないじゃん。働ける間は辞めることは無いと思うけど!』と言う内容であった。母親の育美に良く似ている。もう、辞めてるんだけどと、健一は苦笑いしながら一人愚痴った。残るは次女の薫だけである。薫には、その日の風呂上りに、一杯やりながら電話した。彼女の返事は「ああ、そうなの。これからは暇になるね。好きな事したらいいんじゃない」とのお言葉だった。投げやりなのか、それとも健一の気持ちを察して呉れているのかは不明だった。健一は家族の合意を取り付けるだけで疲れてしまった。でも、これで彼の道はひらけたのであった。
さて、ここで深瀬健一の生い立ちを見てみよう。
健一は昭和二十年(1945年)八月二十五日に旧満州の
でも、幸いにして、健一は生きて日本に帰り着くことができたのである。
福岡県のT郡のK村が健一の本籍地であった。大分県との境の寒村であった。しかし、村では、代々、親族ぐるみで村長などを務めていた家であった。戦前は地主で、小作人を使い、広い農地を所有していて、国会議員の選挙権も与えられていた家柄の分家であった。山林も多く所有していた。それが、敗戦と共に、農地改革が実施され、普通の五反百姓になってしまったのである。命からがら引き揚げてきた親子三人ではあったが、家も田もあり、生活していくには不自由はなかったのである。でも、健一は百日咳がこじれて、気管支喘息の持病持ちになってしまったのだった。
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