辻堂古本店と、妖の蝶と蟷螂と。

七澤アトリ

第1話 蝶と蟷螂

「はーこれこれ、これがほしかってんや」

 と、私の目の前で朽野太一くだらのたいちが古びた本を撫でまわしている。

「ご機嫌ですね」

 私の声に、朽野くだらのが顔を上げた。整った顔ではあるけれど、爽やかな好青年とは言い難い。三白眼の印象を和らげるために選んだという丸眼鏡のフレームは、まるで効果を発揮していない。

「お買い上げ、ありがとうございます。いつも助かってます」

 声のトーンを僅かに上げつつ、にっこりと笑う。少しわざとらしい気もするけれど、気にしない。

 朽野がじとりとした視線を向けてきた。直後、ぼうとした顔つきになって言う。

「俺、ほんまに助けとんかなぁ……」

 らしくない様子が珍しくて、つい眺めてしまう。


 気を取り直すように、朽野が、ふ、と息を吐いた。猫背気味の薄い体から伸びた手で、二度、三度とまた本を撫でる。古本店の店主めいて、紛らわしい。この辻堂古本店つじどうふるほんてんの店主は、消えた私の姉である朝子あさこなのに。


「まぁ、ええわ」

 と朽野が封筒を差し出してきた。

 受け取り、中身を確認する。現金で三十万円。私が辻堂古本店の店主代理としてひと月を生きていくのに、十分過ぎる金額。

 こくり頷くと、朽野が再度手にした本を掲げた。うっとりと見つめている。


夜子やこさんにへそ曲げられたら、俺、困るねん」

 本の角は擦り切れて、背や表紙にも傷や汚れがあった。本来はもっとあざやかだった朱赤の表紙は濁っている。メンテナンスをしてあげたほうがいいのだろうけれど、あれはもう朽野の物だ。頼まれない限り余計なことをしてはならない。

 朽野が心底嬉しそうな顔で呟く。


「あぁ、やっぱ本物はええなぁ」


 急に不安になった。間違って、違う本を渡していないだろうか。万が一のことがあってはならない。

 念のため、と薄く目を閉じて、開く。

 朽野の長い指の手に包まれた本の表紙をじっと視る。

 シミや汚れに混じって、『想いの蝶』が食い散らかした痕跡こんせきがぼうっと浮かび上がっていた。



 私が辻堂古本店に初めて足を踏み入れたのは、今から三年前。八歳違いの姉が営む古本店を、一度きちんと見てみたいという思いからだった。

 姉は優しくて、とても面倒見のいい人だった。

 例えば、小学校二年生の時。

「こわい、こわい」

「夜子、どうしたの?」

「おばけがいる、おばけが」

 夜、眠る前。おばけに怯える私をいつも宥めてくれた。一緒の布団に入って、大丈夫、大丈夫と頭や背中を撫でられる。そのたびに、不安が一つずつ減っていく。私は姉にしがみつく。この世で安心できるのは姉の傍だけだという気持ちだった。


 両親は共働きで中々一緒にいられなかった。学校から帰ってきた時、ご飯を食べる時、お風呂に入る時、宿題をしたり、テレビを見たりする時も、姉が一緒にいてくれた。姉がいれば平気だった。


 そんなある日のこと。

 突如として、何かが視界を過った。腕時計のガラスに反射したような、いびつで、ちいさなひかりだった。音や、影はなく、ひらひら空中をただよっている。よく視ると、二枚で一対の形をしていた。

 一つ視えたひかりは、二つ、三つと増えていった。柑橘と燐が混ざったような不思議な匂いがふっと鼻先を掠める。

 得体の知れないそれらが怖くて、すぐ姉に訴えた。

 姉はすごく幸せそうな顔をして私を抱きしめてくれた。


「嬉しい! 夜子もわたしと一緒ね!」


 ママとパパには内緒よ、と耳元で囁かれ、思わず「うん!」と頷き返す。

 姉は頭が良く、いつも私に勉強を教えてくれた。その時も私は、するすると姉の言葉を飲み込んだ。

「このひかりは『あやかし』で、名前を『想いの蝶おもいのちょう』というの」

 ひとつずつ教えるわね、と姉がゆっくり話した。

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辻堂古本店と、妖の蝶と蟷螂と。 七澤アトリ @7sawa

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