辻堂古本店と、妖の蝶と蟷螂と。
七澤アトリ
第1話 蝶と蟷螂
「はーこれこれ、これがほしかってんや」
と、私の目の前で
「ご機嫌ですね」
私の声に、
「お買い上げ、ありがとうございます。いつも助かってます」
声のトーンを僅かに上げつつ、にっこりと笑う。少しわざとらしい気もするけれど、気にしない。
朽野がじとりとした視線を向けてきた。直後、ぼうとした顔つきになって言う。
「俺、ほんまに助けとんかなぁ……」
らしくない様子が珍しくて、つい眺めてしまう。
気を取り直すように、朽野が、ふ、と息を吐いた。猫背気味の薄い体から伸びた手で、二度、三度とまた本を撫でる。古本店の店主めいて、紛らわしい。この
「まぁ、ええわ」
と朽野が封筒を差し出してきた。
受け取り、中身を確認する。現金で三十万円。私が辻堂古本店の店主代理としてひと月を生きていくのに、十分過ぎる金額。
こくり頷くと、朽野が再度手にした本を掲げた。うっとりと見つめている。
「
本の角は擦り切れて、背や表紙にも傷や汚れがあった。本来はもっとあざやかだった朱赤の表紙は濁っている。メンテナンスをしてあげたほうがいいのだろうけれど、あれはもう朽野の物だ。頼まれない限り余計なことをしてはならない。
朽野が心底嬉しそうな顔で呟く。
「あぁ、やっぱ本物はええなぁ」
急に不安になった。間違って、違う本を渡していないだろうか。万が一のことがあってはならない。
念のため、と薄く目を閉じて、開く。
朽野の長い指の手に包まれた本の表紙をじっと視る。
シミや汚れに混じって、『想いの蝶』が食い散らかした
*
私が辻堂古本店に初めて足を踏み入れたのは、今から三年前。八歳違いの姉が営む古本店を、一度きちんと見てみたいという思いからだった。
姉は優しくて、とても面倒見のいい人だった。
例えば、小学校二年生の時。
「こわい、こわい」
「夜子、どうしたの?」
「おばけがいる、おばけが」
夜、眠る前。おばけに怯える私をいつも宥めてくれた。一緒の布団に入って、大丈夫、大丈夫と頭や背中を撫でられる。そのたびに、不安が一つずつ減っていく。私は姉にしがみつく。この世で安心できるのは姉の傍だけだという気持ちだった。
両親は共働きで中々一緒にいられなかった。学校から帰ってきた時、ご飯を食べる時、お風呂に入る時、宿題をしたり、テレビを見たりする時も、姉が一緒にいてくれた。姉がいれば平気だった。
そんなある日のこと。
突如として、何かが視界を過った。腕時計のガラスに反射したような、いびつで、ちいさなひかりだった。音や、影はなく、ひらひら空中をただよっている。よく視ると、二枚で一対の形をしていた。
一つ視えたひかりは、二つ、三つと増えていった。柑橘と燐が混ざったような不思議な匂いがふっと鼻先を掠める。
得体の知れないそれらが怖くて、すぐ姉に訴えた。
姉はすごく幸せそうな顔をして私を抱きしめてくれた。
「嬉しい! 夜子もわたしと一緒ね!」
ママとパパには内緒よ、と耳元で囁かれ、思わず「うん!」と頷き返す。
姉は頭が良く、いつも私に勉強を教えてくれた。その時も私は、するすると姉の言葉を飲み込んだ。
「このひかりは『
ひとつずつ教えるわね、と姉がゆっくり話した。
辻堂古本店と、妖の蝶と蟷螂と。 七澤アトリ @7sawa
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