春の嵐

春の雨が、修道院の石畳を打ちつけていた。エドマンドは、回廊の陰から中庭を見つめていた。数日前から、村の空気が明らかに変わり始めていた。


「エドマンド様」


振り返ると、マチルダが息を切らして立っていた。彼女の表情には、普段の明るさが見られない。


「どうしたのです?」


「昨夜、北の村で...」マチルダは声を低める。「徴税吏が襲われたそうです」


エドマンドの表情が曇る。「怪我は?」


「かすり傷だけでした。でも、これは二件目です。先週は西の村で...」


話が終わらないうちに、馬蹄の音が聞こえてきた。エレーヌが、雨を払いながら中庭に入ってきた。その表情は厳しく、ロベールの顔にも憂いの色が見えた。


「エドマンド」エレーヌが呼びかける。「状況は把握しているか?」


「はい。マチルダから今...」


「対応を考えなければならない」エレーヌが言葉を遮った。「北の村には、明日にも警備を強化する」


エドマンドは一瞬ためらったが、口を開いた。「その前に、村人たちの声を聞いてみてはどうでしょうか」


「暴力には、力で応えるしかない」ロベールが低い声で言った。


雨の音が一層強くなる。エドマンドは、村からの便りを思い出していた。新しい税制の下で、いくつかの村では予想以上の負担が生じているという話。そして、近隣の領地でも似たような不満が広がっているという噂。


「私にも心当たりがあります」エドマンドは慎重に言葉を選んだ。「新しい税制で、特に厳しい状況に置かれている家々が...」


「税制は公平だ」エレーヌが言い切った。「すべての村に同じ基準を...」


「でも」エドマンドが静かに、しかし芯のある声で続けた。「土地によって状況は違います。北の村は、この春の長雨で作付けが遅れている。西の村は、去年の凶作の影響がまだ...」


エレーヌは雨に打たれる中庭を見つめ、しばらく沈黙していた。


「具体的に、何を提案する?」


「村々を回りましょう」エドマンドが答えた。「実情を確かめ、村人たちの声を聞く。その上で、必要な調整を...」


「調整?」エレーヌの声が鋭くなる。「それでは、すべての村が例外を求めてくるだろう」


「いいえ」エドマンドは首を振った。「村人たちは道理が分かる人々です。ただ、彼らの苦しみに耳を傾ける必要が...」


その時、新たな足音が響いた。ブライアン神父が、雨をものともせずに中庭を横切ってきた。


「エドマンド、エレーヌ様」神父が二人に向かって言った。「南の村から、重要な知らせが」


神父の表情は深刻だった。雨は依然として強く、石畳を打ちつける音が、切迫した状況を象徴するかのように響いていた。春の嵐は、単なる天候の変化以上の何かを予感させていた。


ブライアン神父の知らせは、予想以上に深刻だった。南の村で、納税を拒否する農民たちが武器を手に取り、徴税吏を追い返したという。さらに悪いことに、彼らは領主の穀物倉を占拠していた。


「何人だ?」エレーヌが問う。雨は上がっていたが、空はまだ鉛色に沈んでいた。


「二十人ほど」ロベールが報告する。「ほとんどが若い農民たちです。しかし、彼らの中に退役した兵士が数人...」


「武装した農民か」エレーヌの表情が引き締まる。「すぐに鎮圧しなければ」


「待ってください」エドマンドが声を上げた。「私が知っている者たちです。話し合いの余地が...」


「暴力に訴えた時点で、話し合いの機会は失われた」エレーヌが言い切る。しかし、その声には僅かな迷いも感じられた。


エドマンドは一歩前に出た。「彼らの指導者は、トーマスという男のはずです。父の代からの古い家臣で、決して無分別な人物ではありません」


エレーヌは馬上の姿勢を正した。「詳しく話せ」


「トーマスは、去年の冬に妻を病で亡くしました。薬代と、新しい税制が重なって...」


「だからといって、反乱を起こす理由にはならない」


「その通りです」エドマンドは静かに同意した。「しかし、彼には話を聞く価値があります。そして、彼が話を聞けば、他の者たちも...」


突然、新たな使者が馬を飛ばしてきた。「エレーヌ様!他の村々でも動きが!」


緊迫した空気が、その場を支配する。エレーヌは剣の柄に手をかけたが、すぐには抜かなかった。


「エドマンド」彼女が決断を下したように言った。「トーマスとの話し合いの機会を作ろう。しかし、条件がある」


「どのような...?」


「第一に、即座に穀物倉の占拠を解くこと。第二に、武器を放棄すること」エレーヌの声は厳しかったが、その青い目には知恵が宿っていた。「そして第三に、お前が人質として、私と共に行くこと」


エドマンドは一瞬驚いたが、すぐに理解した。彼が人質となることで、双方に対話の余地が生まれる。


「承知しました」


「エレーヌ様」ロベールが懸念を示す。「それでは危険が...」


「いや」エレーヌが遮った。「これが最も確実な方法だ。エドマンドを信頼する者たちは、彼が傷つくことは望まないはず。そして私も...」彼女は言葉を探るように一瞬黙り、「私も、彼を守る」


その言葉に、エドマンドは思わず彼女を見つめた。そこには、これまで見たことのない決意の色があった。


「では、準備を」エドマンドが言った。「日が暮れる前に着かなければ」


二人を乗せた馬が出発する直前、ブライアン神父が近づいてきた。


「気をつけて」神父は二人に言った。「そして、覚えておくのだ。時として最も勇気が必要なのは、剣を収める時なのだ」


薄暗い空の下、一行は南の村へと向かった。馬上のエドマンドは、トーマスの顔を思い浮かべていた。彼の苦しみを理解しつつ、しかし正しい道へと導かねばならない。そして横を見ると、エレーヌも同じように思索にふけっているようだった。


二人の影が一つに重なり、長く地面に伸びていく。それは、まるで彼らの運命が交差し始めたことを示すかのようだった。


南の村の穀物倉は、夕暮れの光を受けて長い影を落としていた。建物の周りには、松明を手にした農民たちが警戒の目を光らせている。エレーヌとエドマンドの一行が近づくと、緊張が空気を震わせた。


「トーマス!」エドマンドが声を上げた。「話し合いに来ました」


しばらくの沈黙の後、穀物倉の扉が開き、一人の男が姿を現した。かつての兵士らしい気配を残しながらも、その表情には疲れが刻まれていた。


「エドマンド様」トーマスが一歩前に出る。「まさか、あなたが来てくださるとは」


「私も共に来た」エレーヌが馬から降りながら言った。その仕草には、威厳と共に対話の意思が示されていた。


「領主様」トーマスは一瞬躊躇したが、続けた。「私たちには理由があるのです」


「話してみろ」エレーヌの声は、予想外に柔らかかった。


トーマスは、村の実情を語り始めた。新しい税制の下での苦境、薬代の重圧、そして最近の長雨による作付けの遅れ。話し終えると、彼は深くため息をついた。


「これは反乱ではありません。ただ、私たちの声を聞いてほしかっただけなのです」


エドマンドはエレーヌの方を見た。彼女は静かに目を閉じ、考え込んでいた。


「エドマンド」彼女が突然声をかけた。「お前の提案を聞かせてくれ」


エドマンドは一瞬驚いたが、すぐに気持ちを整えた。「まず、医療費の負担を軽減する制度が必要です。ブライアン神父と相談して、修道院の医務室を...」


「それだけか?」


「いいえ。税の納付時期も、各村の状況に応じて柔軟に。そして、困窮している家族には、共同体での相互扶助の仕組みを」


エレーヌは黙ってエドマンドの言葉を聞いていた。その表情からは、何かを決意したような色が見えた。


「トーマス」彼女が声を上げた。「私からも提案がある」


農民たちの間にざわめきが走る。


「税制は維持する。これは、領地全体の発展のために必要なことだ。しかし」彼女は一呼吸置いて続けた。「エドマンドの提案を取り入れ、新しい制度を作る」


「新しい...制度?」トーマスが問う。


「医療費の補助、納付時期の調整、そして相互扶助の仕組み。これらを、正式な制度として確立する。しかし」エレーヌの声が引き締まる。「その代わりに、今後このような行動は決してとらないと誓え」


トーマスは仲間たちと顔を見合わせた。そこには、希望と安堵の色が浮かんでいた。


「誓います」トーマスが深々と頭を下げる。「私たちの愚かな行動をお許しください」


夜の帳が降りる頃、事態は平穏を取り戻していた。農民たちは穀物倉から撤収し、武器を放棄した。エレーヌは、具体的な制度設計をエドマンドと共に行うことを約束した。


帰路につく馬上で、エドマンドはエレーヌに問いかけた。


「なぜ、私の提案を採用してくださったのですか?」


月明かりに照らされた彼女の横顔に、柔らかな微笑みが浮かんだ。


「お前は、この土地の人々の心を知っている。そして私は、新しい時代の必要を知っている。その両方が必要なのだ」


静かな夜道を行く二人の影は、もはや別々のものではなかった。それは、二つの文化が、二つの価値観が、確かに結びつき始めた証だった。春の嵐は去り、新しい季節の訪れを予感させていた。

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