疫病の影
夏の日差しが照りつける中、修道院の医務室は異様な緊張に包まれていた。三日前から、原因不明の熱病の患者が次々と運び込まれてきていたのだ。
「また一人増えました」
エドマンドが医務室に入ると、ブライアン神父が疲れた表情で報告した。寝台には、顔を紅潮させた若い農夫が横たわっている。
「症状は?」
「激しい熱と、喉の痛み。そして...」神父は言葉を詰まらせた。「発疹が体中に」
エドマンドは患者に近づき、注意深く観察を始めた。その時、馬蹄の音が近づき、エレーヌが医務室に駆け込んでくる。
「西の村でも発生した」彼女の声は切迫していた。「既に五人が同じ症状を」
エドマンドとエレーヌは目を合わせた。状況の深刻さは、言葉を交わすまでもなく理解できた。
「これは」エレーヌが患者の発疹を見て言った。「コンスタンティノープルで見た症例に似ている」
「詳しく教えていただけますか」エドマンドが声をかける。
「まず、患者を隔離する必要がある」エレーヌの声は冷静さを取り戻していた。「そして、看病する者たちも、特別な注意が...」
「しかし」ブライアン神父が懸念を示す。「隔離となれば、家族との別れを強いることに」
「それでも」エレーヌが強い口調で言った。「感染を防がなければ」
静寂が医務室を支配する。エドマンドは、窓から差し込む陽光に浮かぶ埃を見つめながら、考えを巡らせていた。
「ここから少し離れた場所に」彼がゆっくりと口を開いた。「使われていない納屋があります。そこを改装して...」
「どのくらいの大きさだ?」
「二十人ほどは収容できるはずです。そして、裏手には清潔な水が」
エレーヌは頷いた。「では、すぐに準備を始めよう。ロベール!」
待機していた騎士が入ってくる。エレーヌは素早く指示を出した。「納屋の改装に必要な人員を集めてくれ。そして、各村に伝令を」
「私は」エドマンドが言った。「薬草園でハーブを」
「待て」エレーヌが彼の腕を掴んだ。「その前に、私の話を聞いてほしい。コンスタンティノープルでの経験から、この病に効果があると思われる処置が...」
二人は医務室の片隅で、それぞれの知識を急いで共有し始めた。伝統的な薬草療法と、東方から伝わった新しい治療法。それらを組み合わせることで、より効果的な治療が可能かもしれない。
その様子を見ながら、ブライアン神父は密かに祈りを捧げていた。窓から差し込む陽光は、まるで希望の象徴のように二人の姿を照らしていた。
しかし時は待ってくれない。日が傾き始める頃には、新たな患者の報告が届き始めていた。疫病との闘いは、まだ始まったばかりだった。
夏の日差しが容赦なく照りつける中、改装された納屋は新たな命を吹き込まれていた。壁には大きな窓が設けられ、新鮮な空気が絶え間なく流れ込んでいる。寝台が整然と並べられ、その間を忙しく人々が行き来していた。
「この生姜とタイムの組み合わせは」エレーヌが薬草を手に取りながら言った。「本当に効果があるのですね」
エドマンドは患者の様子を確認しながら頷いた。「はい。特に、喉の痛みと熱に。そして、エレーヌ様が提案された蜂蜜を加えることで、さらに効果が」
「互いの知識を組み合わせることで」エレーヌが静かに言った。「より良い治療法が見つかる」
二人の会話は、看護人たちの耳に入っていた。彼らの多くは村の女性たちで、エドマンドの指導の下で伝統的な薬草の使い方を学び、エレーヌから新しい治療法を教わっていた。
「エドマンド様」マチルダが駆け込んできた。「薬草園からの報告です。セージの新しい芽が出てきました」
「よかった」エドマンドの表情が明るくなる。「これで薬草の供給が」
「待って」エレーヌが言った。「その前に、私が東方で学んだ栽培方法を試してみないか?より早く、多くの収穫が」
二人は薬草園に向かった。そこでは、修道士たちが黙々と作業を続けている。エレーヌは、自身が学んだ栽培方法を説明し始めた。土の混ぜ方、水やりの時期、そして日陰の作り方。それは、この地の伝統的な方法とは異なっていたが、理にかなっていた。
「試してみましょう」エドマンドが同意する。「ここの区画で」
その時、ブライアン神父が近づいてきた。「二人とも、少し休憩を取るべきだ」
確かに、二人とも疲れの色が濃かった。しかし、エレーヌが首を振る。
「まだやるべきことが」
「休息も治療の一部です」エドマンドが静かに言った。「私たちが倒れては、誰も助けられない」
エレーヌは少し躊躇ったが、やがて納得したように頷いた。二人は薬草園の木陰に腰を下ろした。
「知っていましたか?」エドマンドが空を見上げながら言う。「この土地には、疫病と闘った古い物語が伝わっています」
「聞かせてくれないか?」
エドマンドは、遠い昔、同じような疫病が襲った時の話を始めた。人々がどのように協力し、どのような知恵を見出したのか。エレーヌは静かに耳を傾けながら、時折、自身の知識と重ね合わせるように頷いていた。
「過去の知恵と、新しい知識」エレーヌが呟いた。「その両方が必要なのですね」
二人の周りでは、薬草の香りが漂い、遠くからは患者の看護に当たる人々の声が聞こえてくる。危機は続いているが、しかし、確かな希望も見えていた。
「さあ」エドマンドが立ち上がる。「戻りましょうか」
エレーヌも静かに身を起こした。短い休息だったが、二人の間には新たな理解が生まれていた。それは、単なる協力関係を超えた、何か深いものだった。
夕暮れが近づき、納屋に戻る道すがら、二人は新たな治療法について話し合っていた。その姿は、まるで長年の同志のようだった。疫病という試練は、二つの文化の架け橋となりつつあった。
夏の終わりが近づき、朝の空気はわずかに涼しさを帯び始めていた。納屋の中では、回復期の患者たちが静かに休息を取っている。疫病の勢いは、ようやく弱まってきていた。
エドマンドは一人の少女の傍らに座っていた。彼女は発病当初、最も重症だった患者の一人だ。今は穏やかな寝息を立てている。
「眠れていますか?」
振り返ると、エレーヌが疲れた表情で立っていた。彼女は昨夜、西の村での新たな患者の治療に当たっていたのだ。
「はい」エドマンドは小声で答えた。「熱も下がり、発疹も消えかけています」
エレーヌは安堵の表情を見せたが、すぐに厳しい表情に戻った。「でも、私たちが全員を救えたわけでは...」
言葉は途切れたが、その意味は明確だった。この数週間、彼らは全力で闘ってきた。多くの命を救うことはできたが、それでも失われた命があった。特に、老人や幼い子供たちの中には。
「アリスおばあさんの最期を覚えています」エドマンドが静かに語り始めた。「彼女は最後まで、周りの患者たちを励まし続けて...」
「ウィリアムも」エレーヌの声が震える。「あんなに小さな男の子だったのに、とても勇敢でした」
二人は黙って、納屋の中を見渡した。そこには、多くの物語が刻まれていた。村人たちが互いを支え合い、文化や身分の違いを超えて協力した日々の記憶。
「見てください」エドマンドが窓の外を指さした。薬草園では、村の女性たちが手慣れた様子で薬草を収穫している。彼女たちは今や、伝統的な薬草の知識と新しい治療法の両方を理解していた。
「彼女たちは強くなった」エレーヌが言った。「そして、賢くなった」
「私たちも、同じです」
エレーヌは彼を見つめた。その青い目には、かつての鋭さとは異なる、深い慈しみの色が宿っていた。
「エドマンド」彼女が言った。「この経験は、私の考えを変えました。効率や規律も大切ですが、それ以上に大切なものが」
「人々の命と」エドマンドが続ける。「そして、人々の絆ですね」
その時、納屋の外から声が聞こえた。ブライアン神父が、新しい患者の回復報告を持ってきたのだ。
「もう一度、巡回しましょう」エドマンドが立ち上がる。「そろそろ薬草の煎じ薬を」
「ええ」エレーヌも身を起こした。「私も手伝います」
二人が動き出そうとした時、目覚めた少女が小さな声で呼びかけた。
「エドマンドさま、エレーヌさま...ありがとう」
その言葉に、二人は思わず目を合わせた。その瞬間、これまでの苦労が報われたような温かさが胸に広がった。
納屋の窓からは、新しい季節の光が差し込んでいた。疫病との闘いは、確かに大きな代償を払った。しかし、それは同時に、かけがえのない何かをもたらしてもいたのだ。
人々の間に築かれた新しい信頼。文化を超えた協力の形。そして、二人の間に芽生えた深い絆。それらは、この試練を通じて得られた、最も貴重な成果だったのかもしれない。
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