怖くても進むことができますか

ぴーんぽーん、とガラス戸の奥まで

届きそうな音量で

共有玄関のインターホンが鳴る。

黒いレンズが私を反射していた。

相手側からどこまでが見えているのだろうと

左右に揺れていると、

レンズ横に空いていたスピーカーの穴から

不機嫌そうな声が聞こえた。

その声の主は、紛うことなき蒼先輩だった。


蒼『……何の用事かしら?』


七「遊びに来ました!言ったじゃないですか、夢の中でお話ししてる時!今日遊びに行きたいですって!」


蒼『了承した覚えはないわよ。』


七「ええーっ。」


今も続く夢の中で

今日は蒼先輩の家に遊びに行きたいと

前もって伝えていたのだ。

蒼先輩であれば

前から伝えていないと

会ってくれないような気もしていたから、

伝えて大正解だと

自分の選択に誇りをもったくらいだった。

起きてから杏ちゃんに住所を聞くと

びっくりするくらいあっさり教えてくれて、

おまけに杏ちゃんや一叶ちゃんも

記載された住所のマンションに

住んでいるとも言ってくれた。

全てのピースは揃った!

ならば行くしかない!

と思ってマンションまできたはいいものの、

思い返してみれば、確かに「いいよ」とは

言っていなかった気がする。

が、ここで引くわけにもいかない。


七「来ちゃったのにー。寒い中頑張ってきたのにー。」


蒼『知らないわよ。』


ぷつり。

その音が鳴った瞬間

扉が開くこともなく静寂が訪れる。

嘘だと思った。


七「鬼ー!」


もっと理由を持って

来た方が良かったみたい。

勉強を教えてもらいに来ました、とか

……あ、今日参考書持ってないや。

夢ってずっと続いちゃうのかな?

なら夢を見るのを

止めるための作戦会議をしませんか?とか。

……電話でできる…ましてや

メッセージでできるでしょって

突っぱねられる未来が見える……。


七「そんなぁー。」


ぽちぽちと蒼先輩の部屋番号を押して、

一度削除する。

それからまた別の番号を入力して鳴らした。


ぴーんぽーん。

ぴーんぽーん。

ぴーんぽーん。


全く出る気配がない。

今お出かけしてるのかな、と

諦めて取り消しボタンを

押そうとした時、

ぷち、と音が切れた。

スピーカーからくぐもった声で

「ふあい」と聞こえてくる。

ゆっくりしていただけみたい。

そう思うと蒼先輩は

尋常じゃないほどに早かったのか。


杏『七…?…何でこんな時間に…。』


七「杏ちゃん!全然もうお昼だよ。」


杏『冬休みのお昼は誰だって寝てるでしょ。』


七「そうなの?ま、いいや。杏ちゃん開けてー。」


杏『え、うちくんの?』


七「蒼先輩のところ行きたいんだけど入れてもらえなかったー。さーむーいー。」


杏『共有の場所なんだから騒ぐな騒ぐな。今開けるから待っててー。』


七「はーい!」


やっぱり持つべきものは友達だ!

ありがとう杏ちゃん、

今ばかりは杏ちゃんが

私のことを何でも手助けしてくれる

妖精さん…いや、もはや神さまに見える。


開いたガラス戸の先へと進み、

1度杏ちゃんの部屋へ向かって

インターホンを鳴らした。

四方八方に毛先が向いていて

思っている以上にやんちゃそうな

寝起き姿のままの杏ちゃんが出てくる。

よっぽど寒いようで、

もこもこの厚手のパーカーに

ルームシューズを履いている。


杏「朝早すぎ…。」


七「だから昼だよ!」


杏「世間はそうでもうちは違った……ふぁ、ぁ…。」


七「あのねあのね。」


杏「あ、話長くなる?」


七「なる!」


杏「ほー…玄関でもいい?」


七「お部屋の中は?」


杏「足の踏み場ないって。普段は人が来れないようにセッティングされてんだから。」


人が来れるように、ではなく?

と疑問に思っていると

杏ちゃんは気だる気に家に上げてくれた。

中を見れば、杏ちゃんが

そう言っていたのもよくわかる。

服がとっ散らかっていたり、

人の髪の毛が寝転がっていたり、

段ボールの切れ端のような細かいゴミや

カイロの外袋まで放置されていたりと

物がまるで夜中に

歩き回ったかのような惨状だった。


七「ここで寝てるの!?」


杏「寝てるってか生活?一人暮らしなんてこんなもんじゃないの?」


七「流石に汚すぎるよ!」


杏「あはは、うち前からそんな感じだよ。」


七「そうだっけ?」


杏「学校とか中学までは周りの人がいたし、それなりにしようって思ってたけど…1人気楽になったらこんなもん。」


七「なんか大人みたいなこと言ってる。」


杏「うちら大人とまではいかずとも高校生だしねー。あー、モラトリアムー。」


布団を畳もせず、

常温で放置されていた

2Lのペットボトルに

そのまま口をつけて豪快に飲んでいた。


杏「んで、何で来たんだっけ?」


七「あ!そうだ、蒼先輩のお家に行きたいの!」


杏「ちゃーんとアポ取った?てか取ってないでしょ。」


七「とった…半分は!」


杏「どんな状態だそれ…。」


七「行くねって言ったけど、いいよって言われてない!」


杏「それはただの宣言、アポ取ってない。」


七「うぅ…。」


杏「この前も蒼の中学時代のこと聞いてたし…何かあったの?」


杏ちゃんは鋭いことにそう聞いた。

鋭い、と言うより他の人が見ても

わかるくらいには

蒼先輩のことでいっぱいいっぱいらしい。


七「えへへー…まあねー。」


杏「あぁ、そう。……まあ程々にしときなよ。ストーカーの手助けだとか言って共犯で逮捕されたくないからね…。」


七「そんなことしないよ!」


杏「どうだか…。」


七「あ、そうだ。蒼先輩のお家に行こうと思ってるんだけどね。」


杏「突き返されたのに?」


七「うん!でね、蒼先輩のお部屋の中を調査したくて」


杏「犯罪匂わすなー!」


七「違うもんー!」


杏「いやいや、人の家を勝手に漁るって!なんだ?悪いバイトにでも手を出したか?」


七「違う違うー!昔の事件を追ってたら蒼先輩に関係あるかも?ってことが出てきて…その情報を集めてるのー!」


杏「本人に直接聞きゃいいじゃん。」


七「何て?」


杏「お部屋の中を調べさせてくださいって。」


七「それであの蒼先輩が「いいよー」って言うと思う!?」


杏「ないな。」


七「ほれみろー!」


杏ちゃんを指差して叫ぶ。

手にしていたペットボトルを

近くにあった机の上に置き、

冷蔵庫を眺め始めた。


杏「んー…じゃあさ、何か作戦立てなきゃね。」


七「作戦?」


杏「そー。」


ぱたん、と冷蔵庫を閉じると同時に

何かが投げられた。

慌てて両手でキャッチすると、

手の中には冷えた缶コーヒーがひとつ。

朝早起きできるかもと思って

買ったらしいが、

よくよく思えばブラックコーヒーは

苦手だったと話す。

確かに朝専用と書かれているけど……

お砂糖や牛乳を足せば

いい話なんじゃないかなぁ……?


杏「蒼の部屋を探索するには…間違いなく蒼はどこかに行ってほしいところ…。」


七「じゃあ杏ちゃんが後から蒼先輩を誘って、お出かけに行くとかはどうかな!」


杏「七を1人放っておくとは思えないなー。」


七「確かに…。」


杏「家の前で話すくらいならまだしも…近くのコンビニとかに連れて行くとなると話は違うから…。」


七「もっと近くは?マンションの隣とか。」


杏「隣?何もないでしょ。」


七「うーん…。」


杏「あ、わかった。」


ぱちん、と今日に指を鳴らす。

髪はぼさぼさだけれど

長身なこともあってか

探偵っぽくてかっこいい仕草だった。


杏「ポストだわ。」


七「え?」


杏「玄関のとこのポスト。あれ、開かなくなっちゃいました…とか。」


七「それで蒼先輩動くのかなー…。」


杏「確かにね……自分で何とかしろって言いそうなラインではある……けど、ぎりぎり七を部屋に残して出ていけるくらいな気がするんだよね。」


七「なるほど。」


杏「蒼は、七にはもちろん、うちにもまあまあ当たり強めだからどうなるかなって感じ。」


七「そうなの?……でも、蒼先輩って頼まれたらさ、自分に利益がなくてもなんだかんだで手伝ってくれる感じがするし、大丈夫じゃないかな。」


実際に夢の中では

私に勉強を教えている。

テストのやり直しも参考書選びも

手間をかけてくれた。

私が勉強するよりも

蒼先輩が1人で毎回解答するだけの方が

絶対効率はいいし合理的ってやつだと思う。

なのに蒼先輩は

時間をかけて私に教えてくれている。

言動は確かに冷たく感じる時はあるし

距離を感じる時もあるけれど、

ものすごく優しいんだ。


七「杏ちゃんが「どうしても」ってお願いすればいけると思う!」


杏「まあ……やってみるかー。…って、何でうちはぬるっと手伝う話になってんだ。」


七「お願い杏ちゃん!杏ちゃんの力が必要なの!」


杏「いいけど……何の調査だったとか何が得られたかくらいは後で教えてよ?報酬ってことで。」


七「それは……約束できない。」


杏「え。」


七「ごめん。」


杏「いや……てっきり七のことだし、考えなしに「分かった、すぐ教えるね!」って言うと思ってたからびっくりしただけ。」


七「多分他のことならそう言ってるんだけど……今回のことは、ちょっと……わからないから。」


杏「ほへー…あの七が成長してる。」


杏ちゃんは感慨深そうに声を漏らすと

大きく背伸びをして

跳ねた髪を指でいじった。


杏「蒼のとこに行くんなら……っと、ちょっと身だしなみ整えてから行くわ。」


七「そのままじゃよくないの?」


杏「流石に外に出る格好してないでしょ。蒼にちくちく言われちゃうし、人に見られるの嫌だし……最低限は整えてくよ。」


七「私は良かったの?」


杏「え?」


七「私、全然こうして見て話しちゃってるけど…。」


杏「あぁ…なんか七には気を遣わなくていいかなーって。何も考えてなかったわ。」


くしゃ、と笑う杏ちゃんは

何だかいつもと違う雰囲気を

持っているように見えた。

こう、気張っていなくて

何も作っていないような。

鎧も何も身につけていないみたいで、

ものすごく質素で…

けれど柔らかい空気感だった。


一瞬その笑顔に見惚れた後、

言われた言葉を思い返しては

むー!と声を上げる。


七「それどーゆー意味!」


杏「いい意味で、いい意味で。ほら、先に蒼のところ行って来なよ。うちが来るまでは勝手にものに触んないこと。それで信用作っといて。」


信用ってそんな数分、数十分で

出来上がるものなのだろうか?

疑問に思うも背中を押され

あれよあれよと廊下に放り出される。

「じゃ、また後で」と

杏ちゃんは扉を閉めた。


いざ蒼先輩の元へ。

作戦と協力してくれる友達を得た私は

今世界中の誰よりも最強な気がする。

対蒼先輩なら

誰にだって負けないんじゃないだろうか。


そんなことはもちろん過剰な自信であって

蒼先輩と対面すると

その自信はみるみるうちに

削られて行くようだった。


蒼「どうして中に入れたのかしら?」


杏ちゃんが、と言いかけて

ここで手伝ってもらったことがバレたら

のちに杏ちゃんが疑われると思い、

咄嗟に口を噤む。


七「た、たまたま人が通りかかって。」


蒼「まぁそんなところだろうとは思っていたけれど……。」


七「あの、今日…参考書は忘れちゃったんだけど……良かったら勉強、教えてほしいです!」


蒼「勉強を?」


七「うん!」


蒼「一応私、3年生で受験直前なのだけど。」


七「そこを何とか!次の夢の中のテストで満点取りたいの!」


蒼「そ、そう……そこまで向上心のある人だとは思っていなかったわ。」


七「最近私頑張ってるよ!」


蒼「……確かに点数は取れるようになって来てるものね。」


七「今日なんて4点だよ!満点まであと1点!」


蒼「何か裏があってここに来たんじゃないかと思ったけれど……本当に勉強を教わりに来たのね?」


七「そうなの!」


ごめんなさい、蒼先輩!

蒼先輩の勘は100%正しいです!


蒼「なら最初からそういえば良かったのに。下のインターホンのところでは「遊びに来た」なんて言うから紛らわしいわ。」


七「だって……お勉強……参考書を忘れたって言ったら怒られると思って……。」


蒼「あなたの基準がよくわからないけれど、参考書を忘れたことより急に家に来られた方が怒るわよ。」


七「ひぃ……。」


蒼「まぁいいわ。上がって。」


七「いいの!?」


蒼「あなたがそうしたいと言ったのよ。」


先ほど杏ちゃんの部屋の中を見たからか、

蒼先輩の部屋はお姫様が

住んでるんじゃないかと思うほどに

綺麗に見えた。

食卓として使っている机に促され、

座っていると

奥の棚から自前の参考書を持ち出した。

刹那、部屋をざっと見回す。

怪しいものがあるとすれば、

棚の下の引き出しとクローゼットの中、

それからキッチンのシンクの引き出し。


蒼「筆記用具は?」


七「それもない!」


蒼「勉強する気なんてさらさらなかったみたいに堂々と言ってくれるじゃない。」


七「うぐぐ。貸してくださいぃー…。」


蒼「仕方ないわね。」


蒼先輩の指定した問題を解いて行く。

テストの時よりも

やや難易度が高いものを選ぶおかげで

時々全くわからないことがあった。

先輩曰くそれも基本の問題らしいが、

公式をとりあえず当てはめて

ようやく解ける程度の私にとっては

とても高度な技術だった。

詰まって、考えて。

蒼先輩に助けを求めると、

絶妙なバランスのヒントを出してくれる。

それでわからない時は

解答を見て、解説を見て

さらにわからなかったところを教えてくれる。

最後に自分の言葉で

どうやったら解けるのかを説明させた。

人に教えるつもりで、

と言う点がポイントらしい。

確かに言葉にすることで

するする頭に入って行く感じがする。


七「蒼先輩ってどうしてそんなに教えるのが上手なの?」


蒼「どうしてと言われても。ただ単に問題の解き方や構造を理解しているからよ。」


七「昔から誰かによく教えてたとか?」


蒼「よく、ではないわね。テスト前に確認程度の内容を教えることはあれど、ここまで付きっきりなのは初めてよ。」


七「こんなに上手なのに、あんまり教えたことないの!?」


蒼「機会はなかったわ。」


七「そうなんだぁ…すごいなぁ!」


思わず声を漏らす。

自分じゃできないことを

さらっとやってのける人は

一際輝いて、かっこよく見える。


七「先生にならないの?」


蒼「私が?」


七「うん!」


蒼「前も似たようなことを言ってたわね。」


七「そうだっけ?」


蒼「「先生とか似合いそう」って。」


七「だって似合うもん。私でもわかるくらい教え方上手だし、優しいし!」


蒼「優しい?」


七「うん!とーっても!」


蒼「言われたことないわ。」


七「嘘!?」


蒼「藍崎さんって変な人ね。」


「ひどい!」と講義すると

次の問題へと声をかけられた。

渋々言う通りにする。

変な人、そう言っていた蒼先輩は

笑うこともなくきょとんとしていたけれど、

ふといつもの氷のような冷たさが

僅かに溶けた気がして嬉しかった。


蒼「……先生……それも、良かったかもね。」


七「なれるよ。蒼先輩なら何にでもなれちゃう!」


蒼「現実離れするのもほどほどになさい。」


その時、玄関の方で

インターホンが鳴るのが聞こえた。

気がつけばかれこれ

1時間ほど勉強していたらしい。

私、すごい!

けど、杏ちゃん遅いよ!

頭が溶けそうになる場面が

何度もあったけど、

無事好奇心を抑えつけて

居座ることができたらしい。


蒼先輩が玄関に向かう。

その背を追って、

できるだけ近くで聞こうと

身を潜めながら耳を傾けた。


ポストが開かなくなったから助けてくれ、

と杏ちゃんが蒼先輩に

頼み込んでいる声が聞こえる。

ここで私も割り込んで

「何してるの?」と

声をかけたくなるところを

ぐっと堪えて待つ。

しばらく押し問答が続くと、

足音がこちらに向かって移動した。

慌てて席に戻ろうとするも間に合わず、

蒼先輩の座っていた椅子の陰に

隠れるようにして身を屈めた。


蒼「……何をしているの?」


七「えっと…長いから何話してるのかなと思って…盗み聞きしようと席を立ったらちょうど戻って来ちゃって……。」


蒼「それでその格好。」


七「ひゃい…。」


蒼「正直すぎないかしら。」


ですよね、私正直ものなんですと

言いたいところだったが、

口を閉じてとりあえず何度も頷く。

私であれば盗み聞きをするだろう、

けれど失敗するだろうところまで

イメージ通りらしい。

嬉しいやら悲しいやら。


蒼「エントランスまで行くから、こことここの問題を解いて待っていて。」


七「……え!?」


蒼「…そんな驚くこと?」


七「何しに行くのかなって。」


蒼「杏が自分の部屋番号のポストが壊れたって煩いのよ。だから少し見てくるわ。」


家に入って早々

あちこち物を触ったり壊したり

歩き回ったりしなかったことが

功を奏したのか、

蒼先輩はあろうことか

私を1人置いて家を出て行ってしまった。

鍵がかけられる音を聞くと、

そこはものが少なくて

がらんとした1人部屋。


七「…!」


探さなきゃ。

突然スイッチをオンにされた

おもちゃのように

ペンを机の上に優しく置いて

部屋の中を探索し始めた。


まずは棚。

数段あるけれど、参考書や

これまでの学年の教科書が並べられている。

小学生の頃のものは

流石に捨てちゃったのかな。

中学生以降のものだけ

綺麗に学年順に並べられている。


小物という小物も少ない。

飾りで置いてあるものはまずなく、

あったとしても消臭用のものや

ブックエンドのみ。

カーテンも布団も白や

落ち着いた彩度の低い色合いのものばかり。


クローゼットにも小さい棚や

背の低い引き出しが2つある。

服の種類もびっくりするほど少ない。

倹約家と言う部類なのだろうか。

ミニマリストが流行った時期も

あると聞いたことがあるし、

もしかしたら蒼先輩もそれなのかも。

小さい棚を開くと靴下や

肌着が見えて思わずすぐに閉じた。

ごめんなさい!

そう言うつもりじゃないから!

偶然!そう、事故で!

脳内の蒼先輩が怒るから

必要ない言い訳を頭の中で並べた。


そしてその隣にあった

背の低い引き出しに

膝をついてから手をかける。

からから、と音がした。

引き出しの大きさに対して

中は全く釣り合っておらず、

いくつかの書類とペンが転がっている。

蒼先輩にしては珍しく

ペンも一緒に入れているのか、と

不思議に思った。

ちゃんとペン立てに入れそうなのに。

書類も、ちゃんと立てかけて

取りやすくしていそうなのに。

徐に手を伸ばす。

そして、その書類の文字が

ゆっくりと目に飛び込んできた。



七「…………偽装………………戸籍……?」



何、これ。

文字が多くて全然読めない。

偽装って。

どういう──。


蒼「……何、してるの。」


七「……!」


必死に目を通そうとしていたからか、

蒼先輩が戻っていることに

気づかなかったらしい。

どうしてこういう時に限って

過集中してしまうのだろう。

絶対今じゃなかったのに。

ドアを開ける音くらい聞こえててよ。

自分の頭を殴りたい。


先輩は唖然としていて

目を見開いていたものの、

すぐに冷静さを取り戻したのか

冷ややかに私を見下ろした。


七「……せん、ぱ…」


蒼「急に家に上がり込んで何をするかと思えば、こんなこと」


七「先輩、ごめんなさい。」


蒼「……。」


七「勝手に来て、勝手に探して……でも……っ。」


蒼「…。」


でも、なんだ。

言い訳が出てこない。

蒼先輩を傷つけることをしている。

たった今、私は。

喉に引っかかり、言葉が出てこなくて

書類を先輩に突き出すように見せた。


七「これ、何ですか。」


蒼「……見ての通りよ。」


七「これ……じゃあ…。」


蒼「……。」


七「……蒼先輩は…誰…?」


書類を下ろす。

蒼先輩は、視線を落として、

全てを諦めたような目をしていた。


蒼「誰でもなかったのよ。」


七「…っ!」


蒼「返して。」


七「駄目、全部教えて。じゃなきゃすっきりしないよ。」


蒼「何でそこまであなたに教えなきゃならないのよ。」


七「蒼先輩からすると理由もメリットも何もないけど…私が、先輩の力になりたい。もし何か手伝えることがあるんだったら全部する!」


蒼「ないわよそんなもの」


七「やる前から決めつけないでよっ!」


蒼「…!」


私の大声で先輩がたじろぐ。

煩いって怒られるかもしれない。

でもここで引いちゃいけない。


七「そりゃ私馬鹿だし、何でもかんでも突っ走って行動しちゃうし…いいところは少ないかもしれないけど、でも蒼先輩のことは確かに大事で、大好きで…っ!」


蒼「だからって…。」


七「だからこそ先輩の力になりたいよ。困ってることがあるなら…どう頑張っても辛いことがあるなら、解決はできなくても…一緒のところね「辛いね」って言うもん!」


蒼「……そんなこと、頼んでないわ。頼まないわよ。」


七「頼まれてなくても、それで蒼先輩が少しでも気持ちが楽になるんだったらずっとするよ。」


先輩にとってはただのどこにでもいる

手のかかる煩い邪魔な後輩だとしても、

私にとっては先輩は

たった1人の憧れの人。


七「蒼先輩の力になるために、話を聞きたいの!お願いします。」


書類を両手で大事に抱えながら

頭が床につくんじゃないかと思うほど

思い切り下げてお願いする。

知りたい。

それは最初は

ただの好奇心だったけれど、

知れば知るほど

蒼先輩は孤独なんじゃないかって

…そう思えば思うだけ

蒼先輩の力になりたくて仕方がなかった。


返事がない。

でも諦められない。

頭を下げ続けていると、

少ししてぽつりと言葉が降って来た。


蒼「……少し長くなるわ。食卓の方について待っていて。」


七「…!本当に…!?ありがとう!」


蒼「あなたには難解な話になるかもしれないけれど。」


七「私にもわかるようにお願いします!」


蒼「それは、どの問題よりも難しいわね。」


すぐに背を向けたせいで

どんな顔をしているかわからなかった。

怒った顔?

いつもの冷静そうな顔?

それとも。


席について待っていると

私が飲み切ってしまったお茶を足して

先ほどのように正面に座った。


蒼「……まず、そうね。……どんな経緯でこれを探そうと思ったのかしら。」


七「それは……。」


蒼「話せないなら私もこれ以上言うことはないわ。」


七「…っ。」


蒼先輩が死んでいて。

そんなこと言われて信じるだろうか。

いや、目の前にいる蒼先輩なら

これまでのことを知っているはず。


七「藍崎探偵事務所…私のパパがやってる探偵事務所で、昔事件があったって知ったの。調べたら、その事件で人質が亡くなってて…その子の名前が、園部蒼…って。だから今の蒼先輩は一体誰なんだろうと思ったの。」


蒼「…私が?」


七「……?」


蒼「ただの同姓同名の人ではなくて?」


七「え……?蒼先輩の周りで…ご家族とかで、亡くなった方とかいない……?入れ替わってるとかは……。」


蒼「残念だけれど、あなたの予想とは違うわね。私は今、親すらわからない。」


七「親すら……?」


蒼「えぇ。それに、私は園部蒼の代わりとして生きている他人でもないわ。」


七「そうなんだ……?」


蒼「……ただの勘違いの連鎖ならここで話を終えて良かったのでしょうけれど…これが見つかった以上、ある程度は話さなきゃならないわね。」


そう言って戸籍の偽装に

ついての書類に触れた。


蒼「今から話すことはできれば誰にも話さないで。」


七「うん。」


蒼「時が来たら今みたいにどうせ誰かに知られるんでしょうけれど…叶うなら私の目の届かないところでがいいわ。」


七「……?」


何を言っているのかわからなかったが、

蒼先輩はひと息吐いて、口を開いた。


そして。


蒼「私は生まれつき戸籍がないの。」


静かに。

認めるしかないように。

寂しく、言った。


七「……戸籍が…?」


蒼「無戸籍って聞いたことない?」


七「ない。」


蒼「そう。出産後に親が出生届を提出しなかったことが原因で起こるの。300日問題だとか理由は様々だけれど…戸籍がないと、私はそもそも存在していないことになる。」


七「…存在してない?」


蒼「そう。生まれてすらいないのと同じ。」


七「…?」


あれ、と思うも

蒼先輩の言葉に耳を傾ける。


蒼「戸籍がないと、不便なことが多いの。病院にかかれない、学校だって行けない。身分を証明するものがないから、本人確認がされるような場所はまず行けない。家だって借りれない。」


七「じゃあここは…?」


蒼「一叶が貸してくれているの。


七「でも中学も高校も行ってて…。」


蒼「中学校までは義務教育だから、戸籍がなくても通えるのよ。問題はそこから。家は貸してもらっていたけれど、就職も進学もできない状態。」


七「…。」


蒼「最初は生きるために働くしかないと思った。中卒の女性で身分もわからないような人間が行き着く先なんて、真っ当な場所は少ない。怪しいバイトか身売りに傾く。それも覚悟するつもりだったけれど、一叶が拾ってくれたのよ。」


七「一叶ちゃんが…?」


蒼「そう。私にどうしたいかを聞いてくれた。勉強は楽しかったから、まだ学び続けられる方を選んだの。それにはやっぱりこれが…戸籍が必要だった。」


七「…。」


蒼「本来であれば家族関係から洗い出し、その情報を元に戸籍を作るとか…それなりの手続きをしなければならない。けれど、親どころか親族すら1人もわからない私はほぼ詰んでいる。」


七「親族もわからないの…?」


蒼「…昔、両親と一緒にいたような記憶はあるのだけど……もしかしたらいつか泣きながら見た夢だったのかもね。映像の記憶なんて役に立たなかったわ。名前の情報もないようじゃ、どうにもできなかった。」


喉の奥がつっかえる。

感情の行き場がなく、

どうすればいいのかわからなくて

自分の手を握りしめる。


蒼「どうやったのかわからないけれど、一叶はとりあえずとして私の戸籍を作って来た。もしかしたらとてつもなく悪い方法だったのかもね。」


七「…。」


蒼「私も断れば良かった。得体の知れないこの戸籍は受け取れないって。」


七「でも、それじゃあ生きていけないよ。……お家もないし、働くこともできないなら…。」


蒼「やがて静かに死ぬのを待つだけだったでしょうね。」


七「……っ。」


蒼「それが怖かったの。」


七「…!」


おかしくもないのに

口角を少しだけ上げて話す蒼先輩の姿が

苦しくて、心臓までもが痛くて

仕方がなかった。

初めて見る笑った顔が

こんな時だなんて嫌だった。


一叶ちゃんの渡したものは、

最後の頼みの綱だったんだ。


中学校卒業したばかりで

世間的には子供で。

数ヶ月前の私が

急に外にほっぽり出されたら?

働きもできなくて

日々時間がすぎるのを待つだけだったら?

犯罪をして刑務所に入った方が

まだいい暮らしができるかも知れない。

それら全てを、一時的にだろうと

回避する術があるのだとしたら?

暖かい家の中で

お腹がいっぱいになるまで

美味しいご飯を食べられる方法があったら?

守られる環境があったなら?

1人で生きなくてもいいのなら?


蒼「馬鹿だったわ。一時的な感情でこの選択をしたなんて。」


七「後悔してるの…?」


蒼「……多少は。……けれど、多分、良かったこともある。」


七「…。」


蒼「この契約書は一叶とのもの。これがあることでできること、期限。その他諸々の記載。」


七「そうだ、期限を伸ばすことはできないの?」


蒼「これでも既に伸ばしてもらったのよ。本来は今年の夏までだったところを、一叶からの提案でこんなに長く。……けれど、それももうすぐおしまいだそうよ。」


七「…なんで。」


蒼「消費期限なんですって。これ以上この偽装のものを使って生活はできないと言うこと。12月下旬までって言われたの。明確な日付は伝えられなかったから、いつこの嘘がバレるのかわからなくて、動物園に行くにも生徒手帳は持っていけなかったし、国会図書館は入る時に本人確認が必要だから断った。」


事前に生徒手帳を

持って来てと伝えたのに

忘れるなんて

ただのおっちょこちょいだと思った。

大きい図書館に行くのも、

距離が遠いからだけだと思っていた。

全部考えていたんだ。

考えた上で避けてたんだ。

蒼先輩が考えなしに

行動するはずもないじゃないか。

なんであの時気づかなかったんだろう。

何かあったのって

聞けなかったんだろう。


七「……っ…一叶ちゃんなら…まだ、伸ばせるんじゃ…」


蒼「もう無理よ。」


七「そんな、やだよ!やだ!」


蒼「あなたが駄々こねてどうするのよ。」


七「だって…だってそんなの報われないじゃん!蒼先輩は、なんにも…っ…何にも悪くないのにっ!」


蒼「こればかりは仕方ないのよ。」


七「一叶ちゃんはどう思ってるの。」


蒼「どうって。」


七「この…この契約のことも、蒼先輩自身のことも!」


蒼「…そうね。」


前に話した時はこう言ってくれたわよ、と

自分の横髪に触れながら言う。





°°°°°





蒼「たまに思うのよ。誰にも望まれてない、いなかったことにされている自分が、こんなものまで偽造して作成して…何の価値があるのかって。」


一叶「そんなの、尊ぶべき命である以上、価値は無限にある。でも、蒼の場合は両親の大切な宝であるという大きな価値がある。」





°°°°°





蒼「今思っても、機械からそう言われるなんて皮肉よね。」


七「……価値があっても……っ…無理だって……?」


蒼「えぇ。この偽装のものも、むしろよく数年間耐えてくれたわよ。……一叶自身未来の存在だったとか、アンドロイドであったり実験する側の身であったり……意図も容易く作成したのかもしれないけれど、私にとっては重すぎるくらいだったわ。」


だん、と机を叩いて立ち上がる。

急な行動に驚いたのか

蒼先輩が肩を振るわせた。


七「先輩は…先輩、はっ、何でもかんでも受け入れすぎてやだっ!何で…何でもっとこうしたいとか…ああしたいとか…もっと、もっとってしないのっ!」


蒼「……しても与えられることは無論、掴むことも果てしないからよ。」


七「でもさ、言うだけタダじゃんっ…叶わなくても、喚いていいじゃん…っ……蒼先輩だって人だもん、自分の考えてることを言う権利はめちゃくちゃにあるじゃんっ!」


蒼「あなたがそこまで怒らなくても」


七「怒るよっ!だって蒼先輩の大切が全部奪われるなんて、やだもん、そんな救いのないお話なんて……私がっ…私が嫌だっ!」


蒼「……。」


これまでの夢の中のテストで

勉強の方のテストは

いつも満点なのに、

自分のことに対する質問紙は

いつだって空白に近かった意味がわかった。

自分で制限をかけていたんだ。

求めたって、知ったって

どうにもならないからと諦めていたんだ。

見ないようにしてたんだ。

見たら、見つけてしまったら

絶対に届かない星に手を伸ばすだけの

辛い時間が始まるから。


蒼「そこまで言ってくれるなんて、感激ものね。」


七「……っ。」


蒼「いいのよ、もう。怒っても仕方ない。」


七「……でも」


蒼「仕方ないけれど…怒ってくれてありがとう。」


辛いなら一緒に辛いって言う、

怒るなら一緒に怒る。

でも、蒼先輩はいつまでも

それらをしなかった。

今だって。

自分の幼さに、無力さに

怒りを感じながらも

どうすることもできなくて座り込む。


何か。

どうにかできないのか。

それまでにあれ、と思ったことが

もしかしたら…。

そうだ。

そう言えば。


七「……昨日、蒼先輩の住民票、取りに行ったの。」


蒼「住民票…?」


七「そう。一叶ちゃんと途中で会って、一叶ちゃんにお願いしてとってもらった。」


蒼「……あったの?」


七「……あった…けど、除票って…もう、亡くなってるって。」


蒼「それは事件で亡くなった方の園部蒼ではなくて?」


七「……多分……そう……。」


蒼「何かしらを捻り出して、どうにかしたいのは伝わるわ。けれど、その亡くなった方とは無関係の話よ。住民票がある時点で間違いなく私ではないのだし。」


七「……っ。」


蒼「でも妙ね。住民票って身内か本人じゃなければ発行は難しかったんじゃないかしら。除票であれば尚更。」


七「一叶ちゃんがここの市役所じゃ駄目だって言って移動して…窓口でいろいろ書類とか出してたよ。」


蒼「なら、一叶は亡くなった側の園部蒼もしくはそのご家族と何かしら繋がりがあったのでしょうね。」


七「……!」


蒼「…さっきも伝えたけれど、その事件の話と私の無戸籍である話は別ね。名前が同じだけでこんなにややこしくなるなんて。」


七「……この後は…どうするの。」


蒼「将来の話…と言うのであれば、そうね。」


最後まで姿勢を崩さず

涙を流すことも憤慨することもなく。


蒼「静かに死ぬのを待つわ。」


欲を言うこともなく。

何も望まず。

ただ客観的に存在するだろう

自分の未来を呟いた。

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