第四話

 アルヴィアは竜宮に留め置かれた。

 数日、客室で沙汰を待つ心地でいれば謁見の間で竜王を取り押さえた男がアルヴィアの許に訪れた。


「ミズチと申します。ここ六百年は王の補佐を務めております」


 眼鏡(がんきょう)を付けても柔和に見えぬ鋭い切れ長な朱色の眼を伏せ、男は礼を取った。東国の衣装をまとっていた竜王とは異なり、帝国仕立ての青のカラーシャツの上に南の交易都市コスティアの民族衣装に似た羽織を肩にかけた、風変わりな装いをしている。


「不自由を強いまして誠に申し訳ありません。簡単にではありますが、このような事態になった理由を説明させていただきます」


 王の側近、ミズチが言うにはアルヴィアは竜王の番なのだそうだ。

 獣の夫婦のような呼称に帝国皇女として思うところが無いわけではなかったが、アルヴィアは言葉を飲んだ。

 竜や亜人の中には番――いわゆる運命の相手――を持つものがおり、原理は明かされていないがひと目見た瞬間に理屈でなく心惹かれ、本能が強く出てしまうとミズチは説明した。

 謁見の間での竜王の豹変は、アルヴィアの存在を認識した瞬間に本性に転じようとする衝動を無理に押さえつけたためだった。


(人の顔かたちのまま、竜の牙や鱗が生えればどうなるかは考えるまでもないこと)


 幼くも聡いアルヴィアは理解した。竜王にとっても意図せぬ出来事だったのだ。

 己が不興を買ったわけでは無いと理解したアルヴィアが次に尋ねることは決まっていた。


「竜王陛下は、ご無事ですか」


 アルヴィアが竜王を案じるとミズチは意外そうに目を瞠った。


「姫は、理性的な方ですね」


 言葉で説明されようとも、少女が見た光景は衝撃的だったはずだ。にもかかわらず少女は竜王の身を案じたのだ。


「陛下の傷は塞がりました。頑丈な方ですので」


 その言葉にアルヴィアは胸をなで下ろした。

 最後に拝謁したのが血に塗れ、正気すら失せた姿であればそれも道理だった。


「申し訳ありませんがあと数日、竜域に留まっていただけないでしょうか。帝国にも文を飛ばしましたが、此度の目通りは姫に多大な負担をおかけしました。謝罪にもなりませんが、詫びの品を駕籠に添えさせていただきたく思います」


 竜域は他国からの貢ぎ物が集まる場所だ。竜域では無く竜王宛に届いたものを詫びに代えさせてほしいとミズチは話した。


(なんだか大層なことになってしまったわ)


 数少ない、皇女としてのお役目を果たすつもりで臨んだアルヴィアだったが、話が膨れ上がっていく。

 だがアルヴィアの目下の目的は帝国への貢ぎ物を増やすことでは無い。

 ひとつ決心をし、アルヴィアは口を開いた。


「陛下にお会いすることはできますか」


 アルヴィアの言葉に、ミズチは朱色の瞳を瞠った。表情をそのままにミズチは続ける。


「お時間をいただければ、可能ではあります」


 言外に、勧めることはできないという勧告だった。


「では待ちます」


 それを理解した上でアルヴィアは己の我を通した。


「お会いできるまで、帰りません。道理を知らぬ小娘ですので宮の中を探検するなどしてしまうかもしれません。偶然陛下のもとに辿り着いてしまうかも」


 皇女然とした微笑みをアルヴィアは携える。

 ミズチには知る由も無かったがアルヴィアがこれほどまで聞き分けが無くなることは初めてだった。

 確かめたいことが彼女にはあった。帝国に帰ってしまえば、分かることは永遠に無いことだ。


「どうか今ひとたびの目通りを願います」


 


 申し出を行ってから更に数日。アルヴィアはミズチを伴い竜王が静養している部屋を訪ねた。


「竜王には本能を抑える薬を服用していただいております。これで姫と話しても先日のようにはならないでしょう」


 ミズチの言葉に小さく頷いた皇女は、竜王の部屋に踏み入れた。青を基調とし、所々に金の装飾があしらわれている。

 帝国とは異なる壁がくりぬかれた出窓のようなつくりの寝台に一歩一歩近付いていく。


「お加減はいかがですか」


 半身を起こした竜王の顔は青白く、隈が浮き出ていた。


「だいぶ良くなった。見舞いに来てくれて嬉しく思う。……その椅子にかけてくれ」


 傍らの椅子をアルヴィアに勧めた竜王は寝乱れた髪を手ぐしで整え、穏やかな表情を作った。


「突然のことで驚いただろう。だが、安心なさい。予定通りとはいかなかったが、国へお帰り」


 統治者として竜王は振る舞った。目の前の少女が番であると本能が直感しても、十にも満たぬ少女を攫うように輿入れさせるなど理にそぐわぬと感じていたからだ。


「本来であれば遠路遙々荒野を超えてきた君をもてなす宴を行うべきだったのだが、申し訳ない」


 黄金の瞳は穏やかにアルヴィアを見据える。その目を受けながらアルヴィアは疑問を呈した。


「竜王陛下は、私をかえせますか」


 皇女の純粋な問いに竜王は笑みを作った。


「返せるさ。帰させるとも。来たときと同じように駕籠に乗りなさい。行きよりも早く帝国に戻れる」


 歌に乗せるように竜王は語る。その様子がアルヴィアには、どうも無理をしているようにしか見えなかった。

 だからこそアルヴィアは確かめるために切り込んだ。


「聞き方を変えます。帰したいですか」


 穏やかな笑顔を浮かべていた竜王の顔から表情が抜ける。


「私、特別な娘ではありません。お姉さまは六人いて、妹も三人おります。ありふれた皇女です」


 賢いというアルヴィアへの評価は皇族としての価値を高めるものではない。


「このお役目が終わって、数年もすれば私にも婚約者が決まります。竜王陛下が竜域から出ることは滅多にないと聞きました。お会いするのはこれが最後になります」


 アルヴィアは自称するとおり、ありふれた皇女だ。次の十年後の目通りに立候補をしようとしてもその時には十九。相手の家に嫁いでいる可能性すらある。

 アルヴィアはただ事実を並べた。不安を煽るためでは無く、事実から目を反らそうとする竜王が悔いること無きように。アルヴィアは十にも満たぬ少女ではあったが目の前の竜王を一心に気遣っていた。

 群青が竜王の黄金を透かしていく。番の視線を受け、柔らかな表情が虚飾のように剥がれ落ちていく。

 幾度か言葉を飲んだ後、竜王は緩慢に口を開いた。


「君をひと目見た瞬間、杭が胸を突き破ったのかと思った」


 罪の告白だった。今この瞬間、上位種たる竜が人間の娘を縛り付ける呪いをかけた。


「おれは、今までおおよそ感情と呼べる物が無かったのだと思う。他者に請われれば応える。そのために存在していた」


 竜域の竜が恐れられるのは強欲故では無い。求められれば何もかもに応えてしまう、機構染みた在り方が人々には理解できなかったためだ。


「これほどまでに心臓が鳴ったことなどない。あれほど無様をさらして醜い姿を君に見せたこと慙死の極みだ」


 取り払われた笑みの代わりに苦悶が竜王の顔を満たす。


「君がいなくなっても、きっと生きていける。分かりきっていることだ。恋で竜は殺せない」


 天地開闢以来、死を迎えた竜はいない。恋を煩い、心を千々に裂かれたものはおれど彼らは今も永らえている。


「それが、分かりきっているのに帰したくない。手に入ってもいないのに手放したくない」


 身勝手な悲哀が涙になってこぼれる。水晶の粒のように透明な雫を、アルヴィアは初めて見た。


(何よりも自由であれるはずなのに、どうしてこの方は不自由なのだろう)


 強大な力を持つはずの竜王が自分のことで懊悩する様子はアルヴィアに戸惑いを覚えさせた。

 そして同時に、救いたいという気持ちが傲慢にも湧き上がった。

 迷いなくアルヴィアは小さな唇で言葉を紡いだ。


「――陛下。私をおそばに置いてください。私がわがままを言ったことにしてくれたってかまいません」


 慈悲をかけられた。

 竜王はそう直感した。


「私のひとりやふたり、故国には大したことではありません」


 帝国にとって十年に一度、目通りに差し出す皇族はある種の贄だ。

 大陸で一番の栄華を誇る彼の国に於いて最大の脅威は亜人達だ。七番目の皇女が竜域に囚われようと、姫が生きている間は帝国に攻め入られることが無くなるのであれば彼らの憂いごとの一つに片がつく。


(母はきっと泣いてしまう。兄さまは怒るでしょうか)


 皇帝はきっと亜人の勝手に激怒する。内政に重きを置き、帝国を深く思うからこそ戦などはしかけないが危うき決断だった。


「ここに来る前、陛下の姿絵を拝見しました。感情の見通せぬご様子でした」


 自らの姿にも関心が無い、美しく正しい男が額の中に収まっていた。

 アルヴィアは竜王の頬に手を添えようとして、止めた。いくら薬が効いているとはいえいたずらに刺激することは賢明なことでは無いと思い至ったためだ。


「きっとあなたにとっては心など無かった方が良かったのでしょうね」


 幼さ故の清廉と傲慢でアルヴィアは竜王に寄り添うことを決めた。

 帝国の第七皇女が竜王の妃として迎えられた瞬間だった。


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