ポロネーズ
増田朋美
ポロネーズ
そろそろ、寒くなってきて、着物もウール着物がほしいなと思われるような季節になってきた。そうなると、蘭のような肌を出す業界はあまり人気がなくなると言うが、蘭は今日も刺青を入れたいという客を相手にしなければならなかった。
「入れたいところはここなんです。」
相手にしているのは女性だ。明らかに黒髪に黒い眉毛で、日本人とわかる女性である。それに、不良っぽいとか茶髪とか、そういうアウトロー的な要素は全く見られない。普通の女性だ。それなのになぜ、蘭のもとで、入れ墨を入れようとしているのだろうか。みんな疑問に思うかもしれないが、蘭はこういう女性は、一番傷ついていることを知っていた。彼女はそう言って、袖をめくって、腕を出した。そこには、なにか刃物で切りつけられたような、そんな大きな傷跡があった。
「これはすごいですね。失礼ですけど、これはどうされたのですか?」
「母がやったんです。」
蘭が聞くと女性は答えた。
「それはどういうことですか?お母様が、なにか児童虐待のようなことをされたのですか?」
「いいえ違います。私の責任です。」
と、女性は答えた。
「私の責任って、こんな大きなやけどをされるのでは、よほどの理由が無い限りできないですよね、野島さん?」
蘭は、そう彼女に言ってみた。ちなみにこの女性は、野島唯菜さんと言う。予約したときにそう名乗ってくれたから、間違いないだろう。
「ええ、そうじゃないんです。あたしが、母が料理しているときに、子どもならではの好奇心で、ガスレンジをいたずらしようとしたんです。母が危ないと言って、すぐ止めようとしたのですが、そのときに、母のエプロンの先が鍋の持ち手に引っかかり、それで中のスープが溢れて、私の腕にかかってしまったんです。」
と、野島さんはそう説明してくれた。蘭は、そうですかそうですかと、彼女の話をきちんと聞いてあげた。こういう女性はおそらく誰も相談する人がいないのだ。もし、相談できる相手がいるのだったら、とっくにそういう人に話しているだろう。そういう人がいないから、自分で解決をしなければならないので、刺青師に相談に来るのである。蘭はその事情をちゃんと知っていた。本当は抱きしめてやれたらと思いたくなるほど重い事情を抱えている人にも何度もあってきた。車椅子の蘭にはそれができないから、代わりに彼女たちの話を聞いて、彼女たちが二度と辛い思いをしないように、彼女たちの体に文様を彫る。それが蘭の役割だった。
「そうなんですか。それをだれにも話せなかったんですね。お母様に、嫌だということもできなかったのでしょう?」
「ええ、一応、美容外科にもいきましたが、それを消すには何百万もかかってしまうので、それなら、先生のところに行ったほうがいいなと思いまして。」
唯菜さんは、そういった。
「わかりました。そういうことなら彫って差し上げます。ですが、注意点が一つだけありまして、刺青というものは入れる前の自分には二度と帰れませんから、それだけはお忘れになりませんように。それでは、彫る文様を決めましょう。大体の人は、吉祥文様とか、有職文様などを彫る方が多いですが、なにか希望される柄はありますか?」
蘭は、唯菜さんの前で分厚い本を開いた。これは蘭が大事にしている、日本の伝統柄辞典という本で、いろんな伝統的な文様がいっぱい掲載されている。唯菜さんは読んでもいいですかと聞いた。蘭が、どうぞと言って彼女に本を渡すと、彼女は真剣に本を読み始めた。
「刺青ですからね。消すことはできませんから、すぐに決めなくてもいいですよ。意味や内容をちゃんと吟味して、できるだけ後悔の残らない柄を選んでくださいね。」
蘭がそういうと彼女は、
「これが良いわ。」
と言って、ページを捲り、蘭に見せた。そこには、桐紋が掲載されていた。
「ああ、豊臣秀吉が好きだったとかですか?」
蘭が言うと、
「そういうわけではありません。あたしはよく言われる歴女でもないですし。ただ、飽きのこない柄というと、こういう感じがいいのではないかなと思っただけです。それではだめでしょうか。ごめんなさい。私、急ぎすぎているように見えるけど、それだけこれを消したいと言う思いがあるんです。本当はもっと慎重にやるべきなのかもしれないけれど、でも、この傷を見るたびに母のことが思い出されて、本当に嫌になるんです。」
と、野島唯菜さんは言った。ということは、お母さんへ恨みがあるのだろうか?
「お母さんになにかひどいことをされたのですか?」
蘭はそう聞いてみた。きっと、医者とかカウンセラーとか、そういう人にも言えない悩みを持っているんだなとすぐに分かった。
「ええ、ひどいときには殺してやりたいくらいのときもありました。私が、4,5歳くらいのときだったでしょうか。母が、知らない外国の人と、抱き合っているのを見てしまったんです。」
と、彼女は言った。こういうことは、全部吐き出させてやることにしている。そうしなければ彼女たちは前に進めない。それに、全面的に聞いてくれる人がいなければ人間は立ち直れないことも蘭は知っている。
「はあ、それでお母様は外国へ?」
「ええ、あたしのこと捨てて、行ってしまいました。だから母はあたしのことなんていらなかったんですよ。母はきっとあたしのことよりも、その人と暮らすことを選んだのでしょうから。本当にそうされてしまったのがあたし、悔しくてたまりません。この傷を見るたびに、その思いが溢れ出てきて、ほんとうに辛いんです。だから、先生なんとかしてください。」
唯菜さんは、涙を浮かべながらそういうのであった。
「わかりました、じゃあ、できるだけ早く彫ったほうがいいですね。それでは、桐紋を彫って差し上げます。ただ、やけどのあとというのは、どうしても、色素が入りにくいので、正直難易度の高いものになると思います。」
「それでも良いです。どんなにいたくても我慢します。だって、今までこの傷のせいでどんなにつらい思いをしてきたのか。それと比べたら、刺青をいれるときの痛みなんて、大したことありません。」
唯菜さんは決断するように言った。
「了解しました。じゃあできるだけ早く下絵を描いて、彫るようにいたします。それで、貴女は今でもご実家に?」
蘭が聞くと、唯菜さんはハイと言ってうなづいた。きっと、お金が無いとか、親が反対していて家を出られないのだろう。蘭は家を出られる人ばかりではないことを知っていた。時々、家を出て、一人で暮らせなど夢物語を語らせる人もいるが、それが叶わない人もいるのである。
「そうですか。それでは、今は、お父様と?」
「はい。父と祖父母と一緒に住んでいます。母は先程行った通り、家を出てしまって、昔は祖母が家事をしていましたが、今は私が手伝わないとできなくなってしまって。」
唯菜さんがそう答えると、蘭は、少し考えていった。
「そうですか。じゃあ、僕からの提案なんですが、近くに図書館やカフェなどはありますか?」
「ありません。」
唯菜さんは即答した。確かに、東京などであればすぐにカフェは見つかるのだが、この富士市ではそうはいかない。
「それに私、車の免許が無いからどこにもいけないし。」
「じゃあ、バスや電車などは?」
「ええと、近くにあるんですけど、一時間に一本しか無いって言われました。」
大体の人はそういう答え方をする。
「でも、見方を変えれば、一時間に一本は必ず走ってくれるのですよ。それを利用して、家の外のカフェに、一時間ほど滞在して見るのをやってみませんか?そこで本を読むのもよし、なにか小説などを書くのもよし。なんでも良いです。外にあなたが行ける場所を作ったほうがいいと思いますよ。」
「そうですね。でも、バスで行けるところに、カフェは何も無いし、それに、本は高くて買えないし。」
唯菜さんがそう言うと、
「まあそうですよね。今は図書館で借りることもできます。カフェがないのなら、大渕の、富士山エコトピアの近くに居場所を提供する施設がありますのでそこへ通ってみるのもまた良いのではないかと思います。実家から少しだけ外へ出てみて、自分の時間を持つことも大事だと思うんですよね。どうでしょう。桐紋を入れたら、少しだけやってみませんか?」
と蘭は、そう言ってあげた。家に縛られ続けている彼女に、少しでも良いから息抜きをしてもらいたかった。きっと、心の病気と診断されているのだろう。それで働くこともできないで、精一杯のお金で自分のもとに来てくれたんだろうなと蘭は思うのであった。だから、自分もできることは何でも言って上げることが大事だと思った。
「ありがとうございます、そんなふうに提案してくれるなんて、思いもしなかった。大体の人は早くご家族を安心させてやりなとか、そういうことしか言わないから。」
唯菜さんはとてもうれしそうに言う。
「いいえ、僕はできることを言うまでです。そんな大したことは言えません。僕も歩けないのでどうしても介助が必要なのはわかりますからね。」
蘭は、そうにこやかに言ってあげた。上から目線で、こうしろああしろと言うのは、一番可哀想な気がした。蘭のところに来るお客さんは、みんなそういう事情を持っている人ばかりだ。どうしてこんなふうに固まってしまっているんだろうと、びっくりしてしまう人も多いけれど、皆そこから逃げることはできないで、体に入れた画像を頼りにいきていくしか無いのである。変わろうと思っても、それができない事情がある人もいる。蘭は、そういう女性たちを応援してやりたいと思っている。そしてできることなら、入れ墨を入れることにより、彼女たちが少しでも、前向きに生きてくれたらいいなと思っている。
それから、数日後。製鉄所に、新しい利用者がやってきた。製鉄所は、利用料だけ払ってくれれば、それ以上の事情は聞かないが、その利用者は、ちょっと精神的に不安定なところがあるのかなと思われる女性だった。野島唯菜さんと言うその女性は、利用初日に、一人ぼっちになってしまうのが不安に思ってしまったらしく、居室の中で一人になると、急に不安感に襲われてしまって、座り込んでしまった。なので、水穂さんが、彼女の側についていてあげることになった。
「ごめんなさい。あたし、一人になるのがどうしても怖くて、それで、不安になってしまうんです。」
唯菜さんは、製鉄所の食堂の椅子に座ってそういった。
「いえ大丈夫ですよ。あなたが楽になってくれればそれでいいのですから。」
水穂さんは静かに言った。
「水穂さんだって決してお体の良い方ではないでしょう?」
唯菜さんはそう言うが、
「ここでは誰でもみんなそうですよ。そうやって、体とか心とか、そういうところが病んでいる女性ばかりです。だから、気にしないで利用してください。」
と、水穂さんは言った。唯菜さんは頓服薬として出されている、液体の精神安定剤を飲んで、しばらく、テーブルに伏せていたが、少したつと落ち着いた気持ちを取り戻してくれたらしい。水穂さんに向かってもう大丈夫ですと言った。
「ありがとうございます。今日は一時間だけの利用ですが、本当にすみませんでした。」
「いいえ大丈夫ですよ。これから、少しづつ利用できる時間を増やしていけるといいですね。」
水穂さんがそう言うと、唯菜さんは大きなため息を付いた。
「そんなこと言ってくれるなんて、私夢にも思いませんでしたわ。大体の人は、これからは、人に迷惑をかけないように自分に厳しくしろしかいいませんでしたから。」
「ええ。でも、人を苦しませては意味がないではありませんか。それならそういう発言はしません。福祉関係者にはそういう事言う人は多いですが、それでは意味がないですよね。」
水穂さんは唯菜さんにそういった。
「今までここに来てくれた方はみんなそうだったんです。もちろん努力することも大事なのかもしれないけれど、その前に、自分の気持ちやつらい思いをどうにもできない人たちばかりだったんですよ。だから、そういう人に、努力しろと言っても意味がないでしょう。」
「ありがとうございます。」
唯菜さんは水穂さんに頭を下げた。
「少しづつできることをしていけばいいんだと思いますよ。みんな一斉に同じことをさせても治療にはなりません。それぞれの人のペースがありますからね。それも人によりけりだと思うから。だから、僕達は、そういうことはいいませんよ。」
「こんにちは!」
製鉄所の玄関先から声がした。
「あたし、浜崎美保です。今日は、学校が終わるのが遅かったので、遅くなってしまいました。一時間だけ利用してもいいですか?」
そう言いながら、一人の女性が、製鉄所の食堂に入ってきた。彼女は、30代くらいの若い女性であるが、現在通信制の高校に通っている。通信制なので、毎日学校に通うことにこだわりがあるわけではないけれど、彼女はなぜか高校に毎日通っているのであった。
「ああ寒いですね。ほんと、この時期は寒いもんですね。もうすぐ冬休みで、クラスメイトに会えなくなるのも寂しいけれど、なんとなく冬は寂しい季節になるのかな。」
製鉄所は、冬休みも関係なく稼働している。むしろ長期休暇だと、家庭に居場所をなくしてここに来る利用者が多くなる。
「そうですか。まあ確かに、いろんな行事がある季節ですが、一部の人には苦痛に感じることもあると聞きましたよ。」
水穂さんが浜崎さんに言うと、
「そうでしょう。家で宿題やってると、全然能率が上がらないのよ。だからここに来たほうが良いわ。SNSなんかで話ができるって言うけど、そんな砂を噛むような行事では、何も楽しくないわよ。」
と浜崎さんは言った。つまり彼女は人が大好きなのだろう。そういうのを理解してくれる男性がいれば、彼女も幸せになれたかもしれないが、現在ではそういう女性は煙たがられてしまうのである。
「そうですか。わかりました。じゃあ、冬休みはここへ来て。」
「ええ。そのつもりよ。親戚づきあいもどうせできないし、宿題はいっぱい溜まってるし、それならここへ来たほうが良いわ。」
水穂さんがそう言うと、浜崎さんは言った。そして、浜崎さんは、野島唯菜さんを見た。
「あら、あなた新しい利用者さん?はじめまして。私、浜崎美保です。よろしくね。」
浜崎さんは唯菜さんに向かって右手を差し出した。躊躇している唯菜さんに、水穂さんがその手を握らせて上げた。お互い頭を下げて、ご挨拶が完了すると、
「その顔だと、なんかパニック障害みたいなのを抱えてるみたいだけど、そんなのにはやっぱり人と関わることが一番の薬よ。」
浜崎さんはそうにこやかに言った。
「そうですか。だから、先生が、ここへ来るようにいったんだ。」
唯菜さんは理由がやっとわかったようである。
「そうよ。もちろん、悪いことするのも人間なのかもしれないけど、癒やしてくれるのもまた人であることを忘れてはならないわ。」
「美保さんはやっぱり人が好きなんですね。そういうのを活かした仕事ができるといいですね。」
水穂さんが、そう、浜崎さんに言った。
「あたしが経験から学んだことだから叡智とは言えないのかもしれないけどね。もう一度名前を確認させて。えーと、唯菜さんだっけ、名字は?あたし、忘れっぽくて困るのよ。薬のせいかしらね。」
浜崎さんはそう恥ずかしそうに言う。
「ああ、はい。野島唯菜です。」
唯菜さんがそう言うと、
「野島さんかあ、、、。」
と浜崎さんが、なにか考え込むように言った。
「なにかあったんですか?」
水穂さんがそうきくと、
「ええあたしがね、一年間だけ通院していた病院に、野島さんって女性が来てたのよ。でも、髪は、金髪だったし、あなたみたいにおとなしい感じっていう人でもなさそうだから、血縁があるとは思えないな。まあ、同じ苗字は星の数ほどあるもんね。あたしの勘違いか。」
と、浜崎さんは言った。唯菜さんが
「その女の人ってどういう人ですか?」
と聞くと、
「えーと年齢は、60代くらいだったかしら。髪の毛は伸びてて腰まであったけど、金髪だった。なんか、すごい態度が大きくて、どっか外国で暮らしていたのかなって感じの人だったわ。だけど、決して幸せそうな人じゃなかったわね。まあ、精神科に来る人はみんなそうか。なんでも、診察室で、3年前に海外から帰国してから、急に生きる気力を失くしちゃったって言ってたわ。」
浜崎さんはそういった。不思議なもので、浜崎さんのような人は、普通の人が見たら間違いなく余計なことだと思われることまで覚えてしまうので、そういうところが嫌がられることでもある。
「そうですか。きっと、長らく海外にいて、日本式の暮らしに馴染めないとかそういうことだったんでないでしょうか?」
水穂さんがそう言うと、
「多分そうでしょうね。まあもう用無しなんだって、彼女は言ってたからそういうことなんでしょう。なんでも、ポロネーズ作って上げるきっかけがなくなったってのが、印象に残ったわ。」
と、浜崎さんは言った。
「ポロネーズ。ショパンの?」
水穂さんが聞くと、
「いやそれを言うならお菓子のでしょ。水穂さんはあんまり知らないかもしれないけど、ポロネーズっていう有名なお菓子があるのよ。確か、ブリオッシュを使って、その中にカスタードクリーム詰めてさ。全体をメレンゲで包んであるお菓子よね。あれ、すっごく甘くて、あたしは食べれなかったけど、好きな人は結構好きよね。」
多弁な浜崎さんはそういうのだった。
「そうですか。さすが外国ですね。そういうお菓子を手作りするには、日本ではなかなかできないことですからね。」
と、水穂さんがそれに合わせる。唯菜さんは、それに思わず衝撃が走った。ポロネーズは、自分を育ててくれた祖母が、よく作ってくれた菓子だ。唯菜さんも大好きだったし、何より、食べられるのが嬉しかった。それを、母はずっと忘れずにいたんだなという気がしてしまった。本当に母なのかわからないけれど、決して、誰でものうのうといきているわけでは無いのだと思った。
ポロネーズ 増田朋美 @masubuchi4996
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