第5話 ワクチンと特効薬

 これは偶然なのかどうなのか、警察が、目撃者と思しき少年を調べてみたが、その少年が、

「次第に立場が怪しくなってくる」

 ということになってきたのは、桜井刑事も、あの時の警官も、

「想定外」

 ということであった。

「その少年、というか青年であるが、もう19歳になっているので、今の法律では、少年ではなく、立派な成人ということになるのだろう。

「予備校に通っている」

 ということで、どうしても、そういう偏見の目で見てしまうのか、

「まだまだ少年だ」

 という感覚が抜けなかった。

 ただ。それ以上に、その少年が、

「平均的な生徒だ」

 という感覚からであった。

 桜井刑事などは、その

「平均的な」

 ということに嫌悪感を感じている。

「まるで自分の子供の頃を思い出す」

 と感じていた。

 しかし、桜井は、中学に入る頃から、

「平均的なんて嫌だ」

 と明確に考えていたので、そんなまわりに対して、

「反骨審があった」

 というのは、

「俺はこのまま育てば、望む望まないに限らず、きっと平均的な、親がいうようなつまらない大人になるんだろうな」

 と思ったからだ。

 だがそれを考えると、

「少年時代」

 と呼ばれる時代があったとすれば、

「自分が嫌いだと思っていることに、まだ反抗するだけの覚悟がなかった」

 という時期ではないかと考えた時であった。

 だから、この少年が、まわりから平均的に見られているということは、

「彼がまだ少年だ」

 ということになるのか、それとも、

「まわりが、平均的では嫌だという風潮の中で、彼には、その逆らう覚悟というものが足りなくて、結局、平均的な男にしかなれなかった」

 ということなのであろう。

 平均的な人間というのは、絶対にできるのだ。

 人が複数いれば、絶対に同じ人間がいるわけではない。つまり、

「人数分の順位は必ず付く」

 ということである。

 だから、

「平均的な人間」

 あるいは、

「平均的に限りなく違い人間」

 というものができるというのは当たり前ということであろう。

 つまりは、

「望む望まないに限りなく、その人はできてしまう」

 ということだ。

 ただ、中には、

「平均的でいい」

 と感じている人、逆に、

「平均的が、一番いいことだ」

 と信じて疑わない人もいるだろう。

 それならそれで構わない。自分が平均的では嫌だと思っている以上、平均的でありたいと思っている人は、当然、いてもおかしくはないわけだ。

 しかし、そう思い通りにいかないのが、世の中というもので、

「平均的では嫌だ」

 と思っている人が平均的であったり、

「平均的でありたい」

 と思う人が、何かに特化した人間だったりと、いうことになる。

 しかし、それでも、適材適所ということでうまくいっているのであれば、今度は、考え方を変えればいいのだろうが、子供の頃から思ってきた考えを、そう簡単に変えるということもできないに違いない。

 それを思えば、

「平均的だと言われた鈴村青年が、どういう青年なのか?」

 ということを知りたいと思っても不思議はないだろう。

 むしろ、桜井刑事は、

「興味がある」

 と思っていた。

 もっとも、

「事件がない状態で知り合いたかった」

 という気もするくらいだったが、

「行方不明になっている」

 ということであるというのは、実におかしな感覚になるのだった。

 だから、余計に、

「虫の知らせ」

 というものに、敏感だったのかも知れない。

 ただ、警察というところは、

「何か事件性がなければ、率先して探すことはない」

 それは、捜索願が出ていても同じことだ。

 ただ、今回は、

「事件というものが、明らかに起こっていて、その目撃者」

 ということで、

「探さなければいけない」

 ということは分かっている。

 しかし、実際には、優先順位としては低いものだ。

 行方不明者を探すのは、あくまでも、

「事件の目撃者」

 ということでだけのことであった。

「犯人を早く捕まえて、市民を安心させ、治安を安定させたい」

 というのが、警察官としての使命であろう。

 だが、実際には、

「検挙率を上げる」

 ということで、捜査に必死になっているということで、目撃者というものが、犯人逮捕に対しても多いに大切ではあるが、その後の裁判でも必要となってくるということも分かっているので、

「決して優先順位は低くはないだろう」

 を桜井刑事は考えたが、

「そもそも、そう考えること自体、自分が警察の悪しき体制に、どっぷり浸かってしまっているのではないか?」

 と考えてしまったことが、自分では嫌だった。

 それこそ、警察にとっては模範であるという、つまり、

「平均的に、なんでもこなす」

 ということに近い警察官となってしまうと感じるのであった。

 桜井刑事はこの事件において、

「自分が、いかに推理すればいいか?」

 といつも青写真を描いていた李するのだが、今回は、推理するにも、情報が少なすぎる。実際に、今回の事件としては、

「目撃者の証言と、防犯カメラの一致が、さい優先で、その一致が大前提になることで、事件の推理が、スタートラインに入る」

 ということになると考えていた。

 というのは、推理には、まず、

「証拠となる物証と、状況証拠というものの二つが必要だ」

 と思っていた。

 普通、必要なのは、物証であり、物証から犯人を割り出すことで、まずは、

「容疑者の確保」

 つまりは、

「逮捕」

 ということが最優先ということになるのだろう。

 そして、いよいよ取り調べということになるのだ。

 つまり、犯人の確保の間には、物証が必ず必要ということになってくる。

 なぜなら、容疑者が逮捕されると、そこで出てくるのが、容疑者側の、

「弁護士」

 というものだ。

 その弁護士に対して警察側には、

「検事」

 というものがついていて、基本的には、

「検事の指示のもとに、警察が動く」

 ということが必要になってくるというわけである。

 事件が発覚すると、警察が検事の指示のもとに動き、初動捜査が始まる。

 その中で、

「現場検証」

 というものが行われ、そこで、鑑識による、検証が始まるということだ。

 これが殺人事件であれば、

「殺害手段」

 や、

「死亡推定時刻」

 さらには、指紋が残されているか?

 などというものが、調べられる。

 そして、殺人事件だったり、変死だったりすれば、そこで、

「司法解剖に回され、さらなる死亡時における暗しいデータが出てくるということになるのだ」

 刺殺であれば、凶器がどのようなものか。

 これは、絞殺でも同じことで、

「どのような形状のものが使われたのか?」

 ということだ。さらに、傷口の形から、どのような経過で殺害されたのか?

 などということも分かってくるというものだ。

 これが毒殺であれば、、毒物の特定、

「さらには、カプセルによって飲まされたものなのか?」

あるいは。

「直接飲んだものなのか?」

 ということも知る必要がある。

 それによって、毒の回り方が遅かったりするだろうから、

「死亡推定時刻をごまかす」

 という考え方もあるわけで、桜井刑事は、そのあたりのこともしっかり考えている。

 だからこそ、

「事件を推理する」

 ということもできるのだろうと思っている。

「事件というものは、まるで生き物のようだ」

 と考えることもあった。

 それは、

「犯人も人間だ」

 ということから考えられる。

「刑事が推理するように、犯人も、できるだけ完全犯罪に近い犯罪計画を立てる」

 ということになるのだろう。

 そもそも、犯罪捜査の中で、状況証拠として一番の問題となるのは、

「動機」

 ということになるだろう。

 一番大きいのは、復讐であろうか?

 この復讐というのも、その度合いには、

「天と地ほどの差がある」

 といってもいいかも知れない。

 というのは、

「自分の近しい人、肉親であったり、恋人が殺された」

 ということでの、何とも言えない、絶えることのなく湧き上がってくるという、憎しみからくるものもあれば、

「自分が好きになった相手が、振り向いてくれない」

 ということで、それを相手のせいにすることで、憎しみという感情が湧いてくるというもので。この場合は、

「逆恨み」

 というものが大きかったりするであろう。

 一概には言えないが、恋愛関係の縺れにおいて、相手を殺したくなるほど恨むというのは、そもそも、異常性癖であったり、ストーカー気質のように、

「相手の気持ちを考えない」

 ということから、相手に愛想をつかされたりしたことでの、こちらも、

「逆恨み」

 ということが大きいといえるのではないだろうか?

 恋愛感情の縺れというのは、お互いに譲ることができないほど、歪んでしまった人間関係を抑えることができなくなった場合に起こることで、

「相手を信じられなくなった」

 あるいは、

「相手を、見誤っていた」

 という場合に起こるのだ。

「本当は自分も悪いのかも知れない」

 と最初は思うかも知れない。

 だから、抑えることもできていたのだろうが、それができなくなってしまうと、

「それまでのストレスが一気に相手に対して、自分が耐えてきたことが、すべて理不尽に思えてくることだろう」

 そうなってしまうと、

「恋愛の縺れは、愛情から、一気に、憎しみに変わっていく」

 ということになる、

 つまりは、

「愛情の裏には、憎しみというものが控えている」

 といってもいいのかも知れない。

「一人の人間の中に、善と悪がある」

 ということで、小説として、

「ジキル博士とハイド氏」

 というものがあった。

 それは、

「一人の人間の中で、何か一つのスイッチが入ると、善と悪がまるで、どんでん返しのように、簡単にひっくり返る」

 ということになるのだろう。

 それが、

「二重人格」

 さらには、

「多重人格性」

 といってもいいのではないだろうか?

 そんな人間というのは、今に限ったことではなく、太古の昔からいたであろうが、

「二重人格」

 であったり、一人の人間の中で、

「躁と鬱が存在している」

 などということが、最近言われるようになったということなのであろうか?

 昔からあるにはあったが、それが問題になるということがなかっただけのことではないだろうか?

 どんなに昔のことであっても、歴史というものが、いかに違う世界を形成したとしても、本質である人間が変わったということになるのであろうか?

 それを考えると、最近よく言われる

「精神疾患」

 というもので、

「うつ病」

 であったり、それに躁状態よいうものが絡んで、それが、ジェットコースターのように、上がったり下がったりするという、

「躁うつ病」

 というもの、今では、それを、

「双極性障害」

 といって、

「脳の病気だ」

 ということになると言われる。

 双極性障害というのは、昔言われていた

「躁うつ病」

 というものとは、明らかに違っていて。

「これは脳の病気」

 ということで、

「自然治癒ということはありえない」

 と言われるのだ。

 だから、

「医者にキチンとかかっての、投薬治療」

 というものが必要不可欠ということになるのである。

 患者が勝手な判断で、

「楽になった」

 ということで、投薬をやめたり、医者に行かなかったりすると、

「また、症状が悪化してくる」

 ということになるというのだ。

 だから、

「双極性障害というものを侮ってはいけない」

 ということになるのだ。

 というのは、

「双極性障害では、自殺に走る人がいる」

 ということであり、

「では、一番自殺に走る可能性があるのは。どの時ですか?」

 と聞かれば、普通であれば、

「うつ状態の時」

 と答えることだろう。

 しかし、実際には、

「うつ状態から躁状態になる時」

 だというのだ。

 その理由として、

「躁状態になると、なんでもできると錯覚してしまう」

 のだという。

 つまり、

「うつ状態の時は、死にたいと思ったとしても、それをできるだけの精神状態ではないのだ」

 しかし、躁状態であれば、それまでうつ状態で

「何もできない」

 と思っていただけに、躁状態になると、

「病気も治ったと、勝手に思ったり」

 逆に、

「今なら自殺だってできる。思い切って楽になるということもできる」

 ということで、それまで鬱で閉じ込められていた気持ちが破裂する形で、

「自殺に走る」

 ということになるのだろう。

 それが、自分を苦しめることに繋がり、

「楽になりたい」

 という気持ちが、行動と伴う時があるとすれば、

「躁状態への入り口になる」

 ということである。

 だからこそ、

「双極性障害というのは恐ろしい」

 ということになるのだろう。

 精神疾患というと、それだけではあなく、おっとたくさんある。

 しかも、一つの精神疾患を持っている人は、それに伴う形で、いくつかの精神疾患を併用する形で持っていたりするものだ。

 たとえば、

「自律神経失調症」

 であったり、

「パニック障害」

 さらには、

「統合失調症」

 などと、名前としては似ているが、まったく違うものもある。

 そんないくつもある病気だから、当然薬の数もたくさんあったりする。

 だから、薬のケースを日付や曜日で分けて、うまく飲むようにしているといってもいいだろう。

 昔、

「インフルエンザの特効薬」

 ということで話題になったものに、

「タミフル」

 というものがあった。

 今では、副作用も抑えられるのか、実際に病院で特効薬として処方されているようだが、年くらい昔であれば、

「自殺をしてしまう」

 ということで、

「タミフルは危ない」

 と言われ、使用禁止ということにもなったであろう。

 しかし、今では普通に使えるということで、それだけ、特効薬として使えるようになったということであろう。

 ただ、考えてみれば、数年前に巻き起こった、

「世界的なパンデミック」

 というものがあったが、それは、ワクチンというものが、発生から1年くらいでできたが、それを全世界で、使うことになった。

 臨床試験もまともにやっていないので、

「本当に大丈夫なのか?」

 ということで、日本でも、賛否両論だった。

 何といっても、政府が、

「何かあれば、責任は政府が取る」

 ということで、実際に接種した人の中に、ワクチン接種までなんともなかった人が、接種後次の日に、死亡したということがあった。

 その時、政府は、

「因果関係が分からない」

 ということで、死んだ人の保障を渋ったということがあった、

「何が、何かあったら政府が責任を持つ」

 といえるのか?

 ということである。

 政府の言い分はあくまでも建前で、いい加減なものだということがすぐに分かったというものである。

 確かに、

「ワクチン接種」

 というものは大切なことであり、政府が推進するのも当たり前ということだ。

 しかし、だからと言って、

「できもしない保障」

 というものを、あたかも、

「やります」

 などといって、やらせるのだから、これほどの欺瞞もないというものだ。

 ワクチンの効果がどうなのか?

 そんなことは、ちゃんと検証したこそ証明できるというものなのに、

「打たせるだけ打たせて、検証もしない」

 というのが、今の政府のやり方であった。

 最近、ワクチンというものが大きな問題となっているが、それは、

「罹らないようにするために、接種するもの」

 ということであったが、あの時同時並行で、開発されていたものの中に、

「特効薬」

 というものがあった。

 ワクチンに関しては、

「緊急を要する」

 ということで、海外で開発されたものを輸入して、接種するということになったのだが、

「特効薬」

 というものは、

「罹ってしまった人に使うもの」

 ということであった。

 ただ、それも、

「重症化する前に使うもの」

 ということでの開発だったのだが、

「ワクチンは騒がれるが、特効薬に関しては途中から誰も何も言わなくなった」

 ということである。

 そもそも、この特効薬に関しては、国内企業が開発を行っていた。

 実際に、

「臨床試験も終わり、使い始めよう」

 ということであったはずなのに、ウワサにも上がらなくなったのだ。

「これは、日本政府の陰謀ではないか?」

 とも言われていて、

「ワクチンがいよいよ問題になってくると、わざわざ問題を逆なでするかのような特効薬を何も、日本製として売り出すリスクは負いたくない」

 ということなのかも知れない。

 それこそ、海外製のワクチンには、

「陰謀論」

 というものがあった。

 何といっても、

「ワクチンが、うまくいっていれば、特効薬も、一緒に使える」

 と日本政府は考えたのだろう。

 ワクチンの問題が、まるで、

「陰謀論」

 であるかのように言われてしまうと、日本で開発する特効薬を使うというのは、ありえないともいえるだろう。

 海外製のワクチンを、日本政府が強要し、

「責任を持つ」

 と言いながら、結局、金を出しそびるという、

「それこそ、国民に対しての裏切り行為」

 ということになってしまうことを、

「よく平気でできたものだ」

 ということになるだろう。

 それを思えば、

「日本で開発したものを、日本政府が推し進めれば、ワクチンの時のように、スピードが必要だったという言い訳が利かなくなる」

 ということで、日本政府は、

「時期尚早」

 ということで、特効薬を見送ったのだろう。

「実際にどこまでできているのか?」

 そして、

「どこまで臨床試験が済んでいるのか?」

 ということになるであろう。

「ワクチンの効果が、本当に検証されたのだろうか?」

 と考えるが、

「保障するといって、簡単にはしなかった日本政府に、なるべく金を掛けたくないということで、検証すらも、適当にやって、やってますアピールというものをしただけではないだろうか?」

 ということである。


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