第4話 行方不明
今回の捜査で、付近の聞き込みをしているところで、あるお弁当屋さんの店員が、面白い話をしていた。
「あの事件があった次の日、数人の学生がこの辺りを歩いていたんですけどね。三人くらいだったか、そのうちの一人が、話を聞きながら、大声を出したんです。思わず出てしまったという雰囲気で、すぐに、まわりを気にして、声を下げ気味でしたけど、そもそもが大きいので、ちょっと離れていても聞こえたんですよ」
ということであった。
「それで?」
と聞いてみると、
「私がその時聞いたのが、昨日の事件を目撃したというような話が聞こえてきたんですよ。その中の一人に、いつも自分からお弁当を買ってくれる人がいて、それが、ちょうどその人だったんですよ。その人だけは知っているんですが、あとの二人は初めて見る人だったんですね」
「うんうん」
「それでですね。目撃したことによると、どうも、男の人と女の人がもめているように見えたんだけど、そのうちに、ただの痴話げんかにしか見えなくなったので、無視をしたといったんですね。でも、その後に彼が、さらに何か言ったようで、それが、何やら含みのある言い方をしているようで、その時言った言葉が、お前大丈夫か? ということだったんですよ。それが、額面通りなのかどうかわかりませんでしたけどね」
という。
もし、額面どおりではないと考えれば、桜井刑事は、
「その話が、突飛すぎて、常人の考え方ではないということから、精神異常のイメージを感じた」
ということであった。
確かに、
「お前大丈夫か?」
と、言ったのが友達であれば、その人は少々突飛なことを言い出す相手だと分かっているからこそ、少々のことで驚かないということであろう。
しかし、それなのに、驚いたということは、そういうイメージではなく、
「驚いてしまった」
ということは、
「よほどのよほど」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「一刻も早く、彼に事情を聴きたい」
と感じたのだ。
「その友達の方は、毎日お弁当を買いに来るんですか?」
と聞かれた弁当屋は、
「そうですね、ほとんど毎日といっていいと思います。彼はこの通りの突き当りにある予備校に通っていて、あの時歩いていた連中は、予備校仲間ではないかと思うんですよね」
ということであった。
なるほど、確かにこの通りは。オフィス街であるにも関わらず、スーツ姿の人は想像以上に少ない感じがする。
それは、その中に、予備校生がいるからだと言われれば納得できる気がした。
予備校生というのは、比較的分かりにくいもので、
「大学生ほど、派手ではないし、真面目ではあるが、本来なら大学生という年齢からか、中には、大学生顔負けという派手さをもって、ここを通っている人もいる」
と思っていた。
そんな連中は皆、
「背伸びをしたいのだろう」
という程度の感覚であるが、それだけではない。
真面目に見えるのは、
「自分が、入試に落ちたことで、1年という期間を無駄にしてしまっているのではないか?」
ということへの、自責の念があるからではないだろうか。
「反省はするが、後悔はしない」
という言葉を口にする人がいるが、
「ウソ偽りない」
という感覚であり、大学生になれなかったことで、余計に、
「もっとまじめにやらなければいけない」
と感じたのとは別に、
「真面目さが感じられない大学生たちを見ていて、憂慮に耐えないと思っている人も多いことだろう」
しかし、それをいくら言っても、
「お前たちは入試に失敗したから浪人したんだ。何を言っても、言い訳にしかすぎないのだ」
と言われてしまえば、それまでであった。
その言葉に、傷つくはずなどない」
と彼らは思っている。
それは、
「反省をたくさんして、これからは真摯に勉強し、大学に入るという目的完遂のために、真面目にやる」
と思って、
「毎日を充実して生きているからだ」
と思うからだった。
しかし、大学生からは、
「あいつらは、何を言ったって、俺たちと違って、試験に落ちたんだ」
ということに変わりはないのだ。
いくら一生懸命に勉強しても、
「一度失敗した」
ということであれば、
「大学生と予備校生の間にある溝は絶対に塞がらない」
ということになるのだ。
何よりも、
「来年こそは」
という思いが強いのは間違いないことなのだろうが、それよりも、
「遅れを取った」
ということの方が意識としては強いだろう。
だから、
「大学生になれなかった」
ということよりも、
「遅れを取った」
という方が強いので、
「うらやましい」
という思いよりもむしろ、
「焦りに近い」
という思いの方が強いのではないだろうか。
それを考えると、実際に、浪人したことのない人間が、
「予備校生の気持ちは分かるはずがない」
ということになるだろう。
ということは、お互いに、
「交わることのない平行線」
ということになる。
その平行線というものを、
「いかに考えるか?」
ということであり、もし、ここで何かの殺害に関して知っていたとして、最初は、
「警察に知らせなければいけない」
と思うのは、
「人間として」
ということであろうが、実際にその立場になってしまうと、
「俺たちは、そんなことに構っている暇なんかないんだ」
という思いがどんどん強くなってくるだろう。
「現実に戻る」
あるいは、
「我に返る」
と言ったところであろうか。
つまりは、
「早く彼らに遭って、事情を聴かないと、彼らも相手がいくら警察だからと言って、余計なことを言わないかも知れない」
と思うのだった。
証言ということになると、証言する人は、それなりの戸惑いというものがあるだろう。
「見たことをそのまま証言して、事実と違ったことであり。こっちは協力しているというつもりであっても、結局は、相手を欺くことになったとすれば、その自責の念というのも、無きにしも非ず」
ということであろう。
それは、犯人ではないかと思って、犯人だと思っている相手に、
「その人が犯人だ」
という先入観を植え付けてしまうと、それが頭から離れなくなって、結局、どうすることもできなくなってしまうということもあるだろう。
それが自責の念と重なると、
「自分が冤罪を生んだ」
ということになり、どんどんネガティブ思考になってしまうというものだ。
冤罪というものを考えると、
「痴漢の冤罪」
というものを思い起こさせるのであった。
電車の中で、
「この人が痴漢しました」
と、ラッシュ時に声を上げれば、それを疑うという人がどれだけいるだろう。
疑われた人は、一瞬にして、
「容疑者」
ということだ。
しかも、日本という国は、
「疑わしきは罰せず」
ということになっている。
つまりは、
「疑わしきは罰せず」
という法則があるという。
いわゆる、
「推定無罪」
というものだ。
しかし、
「痴漢やスリというものは現行犯でしか捕まえられない」
スリであれば、
「盗んだものを持っていた」
ということであれば、物証として、
「現行犯」
ということになるが、痴漢の場合は、
「ただ、触れてしまった」
というだけのことを、大げさに騒いだだけなのかも知れない。
しかも、被害者が訴えるわけならまだしも、まわりで見ていた人が、痴漢認定をするというのは、どこまで信憑性があるというのだろうか。
しかし、
「満員電車の中での出来事」
というのは、
「痴漢がいて当たり前」
というシチュエーションに対して、誰かが、
「この人痴漢です」
といってしまえば、
「推定有罪」
ということになってしまう。
他の第三者は、
「ああ、やっぱり痴漢がいたんだ」
ということで、しかも、捕まえた民間人が、
「自信満々で訴えている」
ということになれば、
「それに対して、疑うのは失礼だ」
ということになる。
だから、この場面で、痴漢認定されると、
「もう逃げることは許されない」
ということになる。
それを、捕まえる方は分かっていない。
「どこまで見たのか?」
ということが怪しいわけで、見たとしてお、それを疑うこともなく、完全に痴漢呼ばわりされてしまうと、疑われた方も、
「助かりたい」
という一心で、必死に訴えることだろう。
しかし、それは逆効果で、
「別に何もしていないのであれば、堂々としていればいい」
と思うだろう。
しかし、第三者というのは、実にいい加減なもので、もし逆に、とらえられた容疑者が、
「自分はやっていない」
ということで、堂々としていれば、今度は、
「何とふてぶてしい態度だ」
ということで、
「痴漢のプロではないか?」
と考えるかも知れない。
しかし、そこには矛盾があるのだった。
「もしプロだといのであれば、何も捕まるようなへまはしないだろう」
ということになる。
ただ、そんな理屈も通用しないほどに、その場面の雰囲気は異常なくらいに独特で、
「一切の弁解は、言い訳にしかならない」
ということである。
しかも、第三者は、言い訳をしない男に対して、
「大したやつだ」
とも、思わない。
「指摘されて観念したのか?」
ということか、あるいは、
「最初から覚悟の上でのことか?」
というどちらかしか考えない。
そういう意味で、
「現行犯逮捕」
というにおは、どんな証言であったり、状況証拠にも勝るというもので、
「痴漢だ」
と指摘された時点で。
「もう人生が終わった」
と思う人が多いだろう。
そう、何といっても、被害者が何というかである。
「最初は何も言わなかったが、目撃者やまわりの人に促される形で、こちらの犯行だと言わされることになるかも知れない」
しかし、これも難しいところで、
「本当なら、こんな犯罪にかかわりたくない」
と思っている人であれば。
「このまま放っておけばいい」
と思ったかも知れない。
「あの時、黙って、目的の駅についたら、そのまま何事もなかったかのようにすればいいんだ」
ということである。
もちろん、その時は屈辱感に震えていて、犯人を捕まえてくれた人に感謝したかも知れない。
しかし、彼女とすれば、時間が経てば、
「早く忘れたい」
と思っているかも知れない。
これが、
「告訴する」
などということになれば、そこから警察の捜索であったり、裁判などがあり、ややこしいことになるだろう。
もっとも、
「お尻を触った」
というくらいであれば、
「自治体の条例の中にある、迷惑防止条例に違反したという程度で、重くても罰金というくらいのものであろう」
ということだ。
ただ、犯人とされた人間は、社会的制裁が待っている。
会社員であれば、その時、誰かに見られていたとして、それが会社の人間だったとすれば、翌日会社にいけば、
「すでい、ウワサになっている」
ということになるだろう。
もっといえば、
「俺が会社にいられなくなる」
ということになるわけだ。
もし、懲戒解雇にならなかったとしても、まわりの、
「汚いものを見る目」
に耐えられないだろう。
しかも、
「人の助けが必要な仕事があっても、果たして助けてくれるかどうか?」
もし助けてくれたとしても、相手は、
「恩を着せた」
ということで、その後、何が待っているか分かったものではない。
「人のうわさも75日」
とはいうが、
「一度他人に塗り込められた印象というものは、消えることはない。顔を見ると。その犯罪がまるで枕詞のようによみがえってきて。どんなにいい表情をしたり、いい行いとしたとしても、少々のことでは、拭い去ることはできない。
「彼は命の恩人だ」
というくらいのことでもなければ、まず無理であろう。
会社の人間、全員を敵に回してしまうと、もう、仕事どころではない、
懲戒免職を自分からしなければいけない立場に追い込まれるということで、その恨みは、
「あの時に自分を突き出した連中」
であり、さらには
「痴漢を否定しなかった被害者を名乗る女」
に対して向けられることだろう。
「どっちが憎い?」
と聞かれても、すぐには判断できない。
「それほど、この連中に対しては、比較にならないほどに、無限大の恨みを持ってしまった」
といってもいいだろう。
相手は、
「俺が何をしたというのだろう?」
と思うに違いない。
それを思い知らせてやりたいのだ。
それが、何かの犯罪において、一番動機としては重たいと言われる、
「復讐心」
というものだ。
しかも、突き出した連中は、
「もしあそこで見逃しても、あいつらには害はない」
ということなのに、
「冤罪を生むのではないか?」
ということを考えずに行動に移したということが許せないのだ。
だったら、
「同じ目に遭わせてやる」
というのが、復讐というもので、法律的には求められるものではないが、実際にこの状況全体を分かっている人が他にもいるとすれば、
「復讐されるのも、仕方がない」
と感じるに違いない。
今回の事件の容疑者を、何とか確定させたいと思い、目撃者を探したが、その人が、行方不明になっているということが分かったのは、刑事が、他の予備校生を見つけた時だった。
話を聞いた店の人が、
「あの子たちだよ」
ということで、ちょうど刑事が通りかかった時に、彼らも同じように通りかかったことで、
「グッドタイミングだった」
ということであった。
そこで、一人に話かけてみると、
「ああ、そいつは、今日はいないよ」
というではないか。
「今日はお休みなのかな?」
と聞いてみると、
「授業はあったんだけどね、だから、体調でも崩したんじゃないかと思ってね」
と、誰も彼のことは気にしていない。
今の時代、予備校を一日くらい休んだとしても、誰も気にするものではない。だが、刑事は、
「せっかくの証言が聴ける」
ということで待っていたのが、うまくいかなかったということで、残念に思っていた。露骨に嫌悪感と憔悴完をあらわにしたが、彼らには、そんなことは分からないようだった。
「警察が、一般市民に対して、そういう態度を見せるわけはない」
と思っているのか、それとも、
「そういう態度を見せないように訓練されているというのか?」
のどちらかであろうが、そのどちらも、共通点は多いということであろう。
実際に、警官が、そんな態度を見せたのは、彼にとっても、
「虫の知らせ」
というものなのか、
「警察官の勘」
というものなのか、どちらかだったかも知れない。
さっそく、桜井刑事に報告を入れた。
桜井刑事も、何か、胸騒ぎのようなものがあるのか、さっそく警官に、その目撃したという青年の名前を彼らに聞いて、予備校に向かうことにした。
実際に予備校で話を聞いてみると、彼の名前は、
「鈴村陽太」
という名前であった。
予備校で
「鈴村という生徒のお話をお聞きしたいんですが?」
ということを尋ねると、ちょうど、彼の担任ということっで、一人の中年の先生が出てきたのだ。
「鈴村君は、あまり目立たない生徒でしたね。成績は、可もなく不可もなくということで、そうですね、成績も態度の正直、どこにでもいるというような、平均的な生徒でした」
という話をするのであった。
そこで、桜井刑事は、
「石ころ」
というものを意識した。
これは、桜井刑事のくせのようで、
「平均的」
という言葉の枕詞として、必ず思い浮かべてしまうことのようだ。
下手をすると、平均的という言葉を聞いただけで、そう思い込んでしまうということによって、凝り固まった考えが余計に浮かんでくるということのようで、その感情は、深いもののようだが、それによって、
「刑事の勘が鈍る」
ということはないようだった。
逆にその思い込みと、事件で発見したことが一致すれば、
「思い込みというのも、真実になる」
ということになるのではないだろうか。
それを考えると、桜井刑事は、
「頭の中で、歯車がカチッと噛み合うのが分かるのだった」
そういえば、子供の頃に見たアニメで、
「とんち坊主」
の話があった。
何かおまじないのようなことをすれば、頭が閃くということで、それを真似る子も多かったというものだ。
まだ、小学生だった桜井も、実際にやってみた。
最初の頃は、そのままマネをしていても、うまくいくはずがなかった。自分の中で、
「そんなことをしても、アニメの世界での出来事と思って、最初からできるはずなどあるわけない」
と思っていたに違いない。
だが、彼はあきらめなかった。諦めないというよりも、別の方法を模索するようになった。
それは、頭の中で、
「虫の知らせ」
のようなものが確かにあるので、
「やり方が違っているだけで、その方法をやれば、できるかも知れないと思うことが大切なのであって、できるようになれば、それが、真実なのかも知れない」
と感じるようになったのだった。
というのも、桜井少年は、
「なんでも否定することはいつだってできる」
と考えていたからだ。
「いつでもできることなら、いまする必要はないのではないか?」
ということで、どちらかというと、子供の頃から、
「天邪鬼だ」
と言われていたが、まさにその通りだった。
しかも、桜井刑事の子供の頃は、それこそ、
「平均的な少年」
だった。
親からも、
「なんでもできるような大人になりなさい。そういう人が求められる時代なのよ」
ということであったが、子供心に、
「そんなのおかしいのではないか?」
と、桜井少年は感じていた。
子供の頃というのは、
「平均的になんでもこなす人が世間で喜ばれる」
という親の理屈が信じられなかった。
少年の頃から桜井刑事は、
「自分で信じられない」
と思ったことは、信じる必要はないと考えていたのであった。
だから、
「人にいわれるよりも、自分の勘を信じる:
という気持ちが確立されていたのだ。
そのことは、まわりの大人は分かっていたのだろう。
桜井が、そう感じるようになってから、まわりが自分を見る目が明らかに変わったのだった。
それは、
「まわりの見る目が変わったことで、自分が変わったと思い込みたい」
ということなのか、
「まわりの見る目が変わったのは、気持ち悪いとこちらを感じたからで、それが自分の性格を形成したのだと感じたい」
ということであった。
後者の場合は、その頃から、
「自分は他の人と同じでは嫌だ」
と感じるようになったことを示している。
「天邪鬼だ」
と感じるようになったのは、そのことであり、学校で勉強する中で、
「過去の偉人さんというのは、一つのことにかけては、長けているが、他のことに関しては落第点だった」
という人が多いと思えることであった。
実際に、発明家なども、
「小学校の成績は落第点だった」
という人もいたり、
あまり褒められる業績を残したわけではなく、下手をすれば、
「悪の権化」
と言われているような政治家が、子供の頃は、
「芸術家を目指したが成績が悪くてなれなかった」
ということであったが、政治家を目指すと、あれよあれよという間に、
「独裁国家を築き、そのトップに君臨する」
という男になったということである。
その男は、
「演説や、プロパガンダに関しては、実に天才的だった」
という。
つまり、
「政治家としてはどうだったのか」
ということではなく、それよりも、
「人の中心に立つ」
という意味では、天才的だったということであろう。
だから、そんな政治家になったことで、
「世界は大混乱」
となったわけだが、
「少なくとも、彼は大々的な軍事クーデターを起こして、国家のトップに上り詰めた」
というわけではなかった。
合法的に選挙で選ばれたことで、自分が作った党が、第一党になったことで、そのまま、大統領、首相と上り詰め、独裁国家を作り上げたのだ。
そもそも、
「それまでの政府が弱かった」
ということと、かつての戦争によって、国が興廃し、大混乱の真っただ中だったということで、国民が、
「独裁でもいいから、強い指導者を求めた」
ということだったのだ。
確かに独裁政治というものが、どのようなものなのかというと、
「洗脳によって、国民をめくら似し、自分たちの考え方で自由に動く」
ということになるのだが、当時の国家は、戦争に敗退したことで、多額の賠償金を諸外国から課せられ、
「パン一個が、札束で積み木遊びができる」
というほど、価値が上がったというべきか、
「貨幣価値が致命的に下がった」
というべきか、
「札束が紙切れ同然」
というほどの、いわゆる
「ハイパーインフレ」
というものであった。
要するに、物資が致命的に不足しているのだ。そんな状態で、その日を生きていくだけで精一杯の国民にとって、
「何が正しいのか悪いことなのか?」
という倫理的なことなど、考える暇もないということだ。
ハイパーインフレというものや、
「その日が生きられれば、とりあえずはいい」
という状態で、
「何が倫理や正義というものか?」
ということで、
「その日の暮らしができるようになり、将来に夢を与えてくれるものが出てくれば、それが独裁政治家であったとしても、国民の多くは、
「それが正義だ」
と思うのだ。
しかも、民族心理に訴えて、かつての栄光を取り戻すということを訴えたとすれば、それは、
「自分たちを、神の国に導いてくれる」
と言った、宗教的な発想になるというものだ。
要するに、そんな立場にならない限り、独裁国家というのは、そう簡単にできるものではない。それを行ったとすれば、世界情勢の責任が、大きいということではないだろうか?
そんな独裁国家が、
「宗教と結びついているような気がする」
ということを考えるようになると、今回の目撃者である少年に、すんなり会えなかったということを考えると、何かの胸騒ぎを感じたのは、
「独裁」
という発想というよりも、
「何かの宗教的発想が、頭をもたげた」
ということになるのかも知れない。
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