第2話 限りのない無限
考えてもみれば、平成に入ってから、少ししてからというもの、
「苛め」
というものがエスカレートしてきたではないか。
昭和の時代の苛め」
というのは、
「虐められる側にも理由があった」
ということで、ある時期になると、虐められている側が、そのことに気づき、大人になるにつれて、当事者同士で、和解というものが成立し、それが、親友関係んいなっていくというのが当たり前の時代だったではないか。
しかし、そんな時代は崩壊していき、
「虐める側」
というのは、
「そこには理由もなく、ただ、むしゃくしゃするから、誰でもいいので虐めている」
という理屈を言い出すことになる。
これが、もし犯罪だとすればどういうことになるのだろうか?
「動機のない殺人で、むしゃくしゃするからといって、そのあたりにいた人を、無差別に殺していく」
という、
「衝動的な無差別殺人」
ということになる。
すると、警察や世間は、まず何を考えるであろうか?
「頭がおかしい犯人が、理不尽に人を殺害している」
ということになり、完全に、
「精神疾患」
ということを信じて疑わないだろう。
しかし、苛めということになれば、大人は、
「苛めの現状を分かっているのかどうか?」
である。
分かっているのかどうなのか、
「自分に飛び火されるとたまったものではない」
ということで、クラスメイトは、見て見ぬふり。
なんといっても、虐める方に、道理が通じるわけはないと思っているからである。
「虐められる方とすればたまったものではない」
例えば、
「戦争をしていて、目の前にいる兵士が、捕虜になろうとしているのに、こっちは武器を持っているのに、助けようとしない」
ということである。
そうなるとどうなるか?
「軍隊の統制」
というものは、戦争において、
「一番大切なものだ」
といってもいいかも知れない。
しかし、
「自分が危険に晒されているのに、まわりが誰も助けようとしない」
ということになれば、
「俺が義理を通す必要もない」
ということになる。
つまり、
「拷問にかけられるまでもなく、機密事項で知っていることは、ペラペラと喋ってしまうだろう」
こちらが、助けてほしいと思っているのに、見捨てられたのであれば、相手が今度は、
「しゃべられては困る」
と思ったとしても、
「自分が、拷問を受ける」
ということになるのに、そんな連中を助ける必要はない。
簡単に裏切って、相手につけばいいんだと思うことだろう。
ただ、実際には、そうもいかない。
というのは、
「自分の家族や大切な人は、母国にいる」
ということだ。
もし、裏切って、自国を売るようなことをすれば、家族や大切な人がどんな目に遭うというのか?」
と思えば、簡単に裏切ることもできないだろう。
だが、精神的には、
「母国に与している仲間に裏切られた」
という気持ちは大きいに違いない。
そんなのをもし、他の若い将校たちが見せられると、
「本当に俺たちは、国のために戦って、死んでいくとすれば、それが正しいということになるのだろうか?」
と考えるだろう。
そうなると、軍隊として一番大切な、
「統制」
というのが取れなくなる。
実践では、統制が取れていて、士気揚々としていないと、
「戦いなどできるはずもない」
ということになるだろう。
それを考えると、
「軍というものを、いかに動かすか」
ということを、大日本帝国のように、
「厳しい規律」
だけでは、賄えるわけがないということだ。
それも、大日本帝国と、今の日本とでは、
「教育からして違う」
ということになる。
「天皇制の下、天皇は親と同等か、それ以上にえらい」
ということを頭に叩き込まれ、
「天皇陛下や国家のために死ぬことは美しいことだ」
と言われてきたのが、大日本帝国だ。
もっとも、
「富国強兵」
ということで、
「国防のために、軍隊が必要」
ということであり、その軍隊に入ったことで、
「嫌でも、戦争というものを避けて通ることはできない」
ということになる。
その時、守ってくれるのは、自分しかいないということであろうが、軍の士気が乱れると、
「何が起こるか分からない戦場において、冷静な判断ができなくなる」
ということで、そのための、
「統制が取れた軍規」
というものが必要であり、その中に、
「気の毒だ」
「かわいそうだ」
などという
「情」
というものは、自分を守るという場合に、
「一番の罪悪」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「軍隊というものは、相手を倒すということよりも、身を守ることの方が難しい」
ということになるのであろう。
しかも、場合によっては、
「自分の命を投げ出してでも、作戦を成功させる必要がある」
ということもあるだろう。
その場合に備えても訓練であり、それは、作戦麺だけでなく、精神的なものというのが影響してくるということになるのだろう。
そんな時代に生きていたわけではないので、
「その時代の善悪」
というものは分からない。
いや、その時代に生きていた人からすれば、
「自分たち当事者には判断できないので、この歴史を知っている後の時代の人たちが、その答えを出してくれている」
と思っているかも知れない。
かつて、
「史実の事件」
として映画化された、
「226」
というのがあった。
これは、昭和9年に起こった、いわゆる軍事クーデター」
と呼ばれるものである。
特にこの時代の歴史は混とんとした時代なので、
「何が正しいのか?」
ということはおろか、
「事実なのかどうか?」
ということすら難しいといえるだろう。
だから、映画の中で青年将校が、部下を前に話している訓示の中に、
「何が正しいのかは、歴史が答えを出してくれる」
といっているが、冷静に考えると、
「何が答えなのか?」
とも思えるのだ。
そもそも、歴史というのは、普遍なものだとは言えない。
時代が進めば進むほど、研究や発掘が進んで、分からなかったことが分かってくるようになるということである。
その中で、今までは、
「悪党だ」
と言われていた人が、汚名返上ということで、
「実は、名君だった」
と言われるようになったのも、一つや二つではない。
肖像画にしても、
「あの時代にはないものだ」
ということで、伝わっている人物ではないともかなり言われるようになったのだ。
「源頼朝が、実は、足利直義ではないか?」
というものであったり、
「足利尊氏が、高師直ではないか?」
と言われていたりして、今では、肖像画として、昔の名前で呼ばれることはなくなったということである。
さらに、
「成立年代」
というものまで怪しいということになっていて、それは、史実の中での、
「歴史認識としての解釈が変わってきた」
ということであった。
「いいくにつくろう」
と言われた、
「鎌倉幕府の成立年を、今までの常識である、頼朝が征夷大将軍になった年月」
ということになっているが、実は。
「守護地頭を全国に配置した」
ということで、
「全国支配の起訴を築いた」
という認識での解釈になっているのであった。
前述の226においても、映画の見方としても、それまで従来言われていた一般論としては、
「君側の奸」
と呼ばれる、天皇の側近が、天皇の目隠しとして君臨し、自分たちだけが甘い汁を吸っているのを懲らしめる」
ということで、
「尊王倒奸」
「昭和維新」
というスローガンのもとに立ち上がったということであったが、実際の史実としては、
「陸軍内部の派閥争いだ」
ということであった。
実際に、狙われて暗殺された人間は、すべて、自分たちに敵対する人ばかりということで、一番怒り狂ったのが、天皇だというのも、反乱軍とすれば、計算外だったということになるであろう。
陸軍とすれば、どうしても、自分たちの部下が起こした反乱なので、温和に納めたいと思っていたことだろう。
ただそれは同情だけではなく、彼らが処断されると、自分たちもその責を負うことになりかねない。
一番とばっちりを食わないようにするには、
「反乱軍を、決起軍として認めてやることが一番の早道だ」
ということであろう。
一度、
「決起軍」
と認められれば、その後、彼らがどうなろうと、決起軍と認められた時点で、上層部は責任がないということになるからだ。
その後、事態が変わろうとも、それは、反乱軍だけの問題であり、軍本体には関係ないということになるからだ。
ただ、天皇は最初から、
「派閥争いだ」
ということは見抜いていた。
実際に、
「反乱分子が不穏な動きを見せている」
という情報は、天皇に入っていたのであった。
それを考えると、
「映画でやっていた、歴史が答えを出してくれる」
という言葉も怪しいものである。
天皇がなぜ怒ったのかというと、
「もちろん、自分の側近を殺されたことに対して遺憾に感じたからだ」
ということであろうが、それ以上に、天皇として、
「屈辱的だった」
ということであろう。
そもそも、
「陸海軍というのは、天皇直轄」
ということで、天皇には、
「統帥権」
というものがあるのだ。
つまり、
「天皇の許可な軍を私用で動かした」
ということは、これ以上の侮辱はないわけで、それこそ、
「憲法違反だ」
ということである。
「天皇の統帥権」
というのは、大日本帝国憲法に記載されていることで、最高法規の憲法に違反したということは、正直、
「死刑も免れない」
ということになるのであろう。
実際に死刑ということになった。
しかも、
「弁護人なしの非公開」
ということで、これこそ、
「法治国家」
としてはあるまじき裁判なのであるが、それも、
「統帥権干犯」
どころか、
「天皇の顔に泥を塗り、さらに、天皇を怒らせた」
ということになれば、この処断も仕方がないのだろう。
しかも中には、
「自害せず、裁判で自分たちの言い分をぶちまけよう」
と考えていた人もいるので、そんなことをされれば、治安維持というものが、根底から覆るということになるかもであったのだ。
答えを出してくれるはずの歴史など、存在するわけはない」
といえるのではないだろうか?
というのは、
「歴史というのは、絶えず動いている」
前述のように、時代ごとに歴史解釈が変わってくるということで、
「しかも、答えを出すはずの歴史というのは、どこを刻めばいいというのか?」
ということになる。
つまりは、
「どこを切っても金太郎」
といわれる金太郎飴のように、刻む場所がどこなのか?」
ということになるのだ。
金太郎飴というのは。
「どこを切っても同じ顔」
なのである。
これも、最低でも2回、つまりは、複数回切らないと、
「切ったところが同じかどうか?」
という判断はつかないといえるだろう。
しかも、2度同じであっても、
「すべてが同じだ」
ということを証明できるわけではない。
何度も切ることで、どんどん確率が高くなっていくことは間違いないが、それは絶対に100になることはない。
つまり、どんなに切っても出てくるものは、
「限りなく100に近い」
というものでしかない。
ということだ。
つまりは、ここでいう100というのは、
「無限という言葉と同意語だ」
ということの証明となるに違いない。
これは、
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョシカ人形」
というようなものと、
「逆の発想」
ということになるのではないだろうか?
「合わせ鏡」
というのは、
「前後に鏡を置いて、その鏡に映っているものは、誰もが考えるように、自分がいるだろう。そして、その後ろには、こちらを向いた鏡があり、その鏡の中に、少し小さい自分の後姿が写っている。そこにはさらに……」
ということで、要するに、無限に写る自分が、正面と後ろ姿が、どんどん小さくなって、写り続けるというものである。
これは、どんどん小さくはなっていくが、
「絶対にゼロになることのない」
言い換えれば、
「限りなくゼロに近い」
というものになる。
この発想が、実は、
「無限というものの証明だ」
といえるのではないだろうか?
どんなに無限であろうとも、その先に見えているものは、
「ゼロとなって消えるということはない」
ということなのだ。
そして、この場合も、
「100になってしまうち、そこで終わってしまう」
ということで、絶対に100にならないようになっている。それが、
「金太郎飴」
のような、
「中が見えないものを探ろうとするというのは、どんなに切っても、100ということはないというような発想から、無限でしかない」
ということを考えると、
「歴史の答え」
という見えないものを無理に見ようとすると、おとぎ話でよくあるような、
「見るなのタブーというものを思わせるに違いない」
ということになるというのだ。
「見るなのタブー」
というのは、
「見てはいけない」
「開けてはいけない」
と言われる、禁止するものに触れることで、
「タブーを破った」
ということで、どのような処罰があるか分からない。しかもその処罰というのは、あまりにも理不尽ではあるが、それは覚悟しないといけないという教訓であるというような戒めということである。
しかし、この、
「見るなのタブー」
というものこそ、
「歴史が出してくれると言われる答え」
なのではないだろうか?
歴史が出してくれるといっていた答えを、
「正しいものだ」
と考えることはできるだろう。
それが、決して、
「自分たちに都合のいいものだ」
という考えは、傲慢だといえるのではないだろうか?
「226」
においての、
「歴史が答えを出してくれる」
というのは、上官が、原隊に帰る部下に対して贈った、
「最後の言葉」
であり、勝手に群を動かしたことでの、部下に対して、
「これから死んでいくものとしての、遺言」
といえるのではないだろうか。
実際にその青年将校は、自殺をしている。
それを考えると、
「欺瞞であったとしても、それはついていいウソだったのかも知れない」
といえるだろう。
何も、
「ウソというのは、すべてが悪いというわけではない。悪いウソというのは、自分のためにつくウソで、悪くないウソというのは、相手のためを思ってつくウソなのではないだろうか?」
と考えられる。
ただここでは、
「悪くないウソ」
という言い方をしたわけで、
「いいウソとは言っていない」
つまり、
「ウソが悪いことには変わりはないが、決してついていいウソというものは存在しないのだ」
ということだ。
そもそも、
「ウソをつく」
というのは、
「ウソをつかなければいけないような何が原因がある」
というわけである。
それを引き起こした原因が、自分にあろうがなかろうが、その原因のためにウソをつくことになる。
つまりは、
「悪いウソというのは、自分に原因がある」
という場合で、
「自分に原因がない場合でも、それは、悪くないというレベルのもので、決していいウソというわけではない」
ということだ。
それだけ、人間には、
「犯してはならない領域」
というものがあり、それを守らなければ、ウソをついてしまうということになるということであろう。
「ウソをつくと地獄に落ちる」
などと、子供の頃に、戒めとして言われていたことであるが、
「地獄に落ちる」
ということまでは、ないのかも知れないが、それだけの、
「戒めを破った」
ということは、許されることではないということで、
「そのどこにあるのか、どれほどのものなのか?」
ということが漠然としている地獄というものに落ちるということだ。
「その正体が分からない」
ということほど、恐ろしいものはない。
それを考えると、
「地獄に落ちる」
ということがどういうことなのかということになると、
「地獄には鬼がいて、それこそ、地獄の苦しみというものを味わう」
と言われるが、その正体は誰にも分かるものではないということだ。
だからこそ、
「この世には、限りなくゼロであったり100に近い」
という存在があり、それが、
「想像を無限にする」
という、地獄というものも存在しえるということになるのだろう。
それを思えば、
「宗教の存在」
というのも、あながち無理のないことなのかも知れないということになるのであろう。
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