黒歴史

森本 晃次

第1話 ストーカー行為

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年2月時点のものです。時代背景と時代考証とは、必ずしも一致するわけではありませんので、ご了承ください。一種のパラレルワールドでしょうか? 登場する都道府県は、「どこかの都道府県を連想させる」と思われるかも知れませんが、それが正解かどうか、それは読者の裁量に任せます。作者は、適当に書いていると思ってくださいね。ただし、大まかな史実はほとんど、本当のことになります。


 都心部の主要駅である、

「Kターミナル駅」

 には、東西に出入口があり、そこには、別々の名前がついている。

 片方は、駅名と同じ、

「H口」

 という名前で、もう一方は、県名と同じ、

「F口」

 という名前であった。

 この市は、それぞれ、

「商業の街」

 さらには、

「武家の街」

 ということで、江戸の昔から、それぞれ発展してきた。

 それ以前も、

「海外に開かれた貿易港」

 という顔をもっていたので、それなりの発展を遂げ、戦国時代などでも、その立地からも、

「重要拠点」

 ということで、他国から侵略されることも多く、たびたび、領主が変わるという、動乱の土地でもあったのだ。

 そんな時代において、しかも、ここは、本州ではないところであり、

「日本という島国の中でも、さらに島に属している」

 ということで、閉鎖的と見られていて、なるほど確かに、独自性の見られる土地であった。

 しかも、その土地土地でも、さらに閉鎖的で、となりの領国であっても、

「言葉の違い」

 あるいは

「文化の違い」

 と、それぞれに違っているということは明らかであった。

 実際に、それぞれの領国でも、

「こっちの国は、領民が団結していて、治めやすい」

 ということもあれば、逆に、

「下手に刺激すれば、一揆をおこしかねない」

 ということで、

「国を与えられても、貧乏くじ」

 ということもあったようだ。

 だから、天下人の中には、それまでの領地を半分に分けて、その土地を、

「加増」

 という形で論功行賞の褒美ということにすることもあった。

 だから、江戸時代になって、徳川幕府が発した、

「一国一城令の例外」

 ということになったところもあったようだ。

 幸いにも、このF県を主要とした、?国は、それほど治めにくいという国ではなく、商業や文化が発達したということで、

「商業の街」

 そして、

「武家の街」

 という二つに、うまく分布されるようになり、領主も、

「改易の嵐」

 に巻き込まれることもなく、幕末まで領主が変わることなく、世襲したのであった。

 とはいえ、

「危機がなかった」

 というわけではない。実際に、江戸時代には、改易の危険性があると言われる、

「お家騒動」

 というのも実際にあった。

 それでも生き残れたのは、領主の人徳というものと、それを支える家老とが、しっかりと硬い絆で結ばれていたといえるからだろう。

 文化や、商業が発達したというのは当たり前のことであり、ここは、海外貿易の玄関港ともいえるところであり、そのおかげで、海外からいろいろな文化が入ってきて、貿易も盛んになったことで、商業が発展したのも、当たり前ということであろう。

 それが、新しい時代を気づくという、

「明治維新」

 になっても、

「この土地が全国的にも主要都市でいられる」

 ということになるのであろう。

 それを思えば、

「今では、日本有数の政令指定都市」

 であり、

「地方における大都市としてのモデル都市」

 というイメージを持っている人も少なくないだろう。

 しかも、その伝統があるからなのか、著名人や、芸術家などの文化人も多いのであるが、

「なぜか、首相経験者は少ない」

 とも言われている。

 そもそも、日本の政治家というのは、

「世襲議員が多い」

 ということもあり、

「維新の元勲」

 というものからの流れを組む場合が多かったりするので、どうしても、

「出身県は限られてくる」

 ということなのかも知れない。

 それでも、

「もう少したくさんいてもいいのではないか?」

 とも考えられるが、別にそこまではないのかも知れない。

 それを考えると、

「文化人が多い」

 というだけでもいいということであろう。

 そもそも、ここの県は、

「政令指定都市が、2つある」

 ということで、珍しい県でもあった。

 今の日本には、ほとんどないといってもいいだろう。

「パッと思いつくのは、横浜、川崎、横須賀などを配する、神奈川県が一番思いつくところであろう」

 ということであった。

 県庁所在地である

「F市」

 というところが、今回の舞台であるが、他に、そこから約50キロほど離れたところにある、

「K市」

 というところも、人口が100万を突破していた、立派な政令指定都市である。

 今は人口減少の状態が続いているので、そのうち100万をきるだろう。

「調査にタイムラグがあるので、実際には、100万人という人口を割っているかも知れない」

 といえるだろう。

 そもそもここは、戦後すぐくらいまでは、

「5つの大きな市」

 というものが存在していたのだが、それが、合併し、大都会へと変貌した。

 かつての市が、そのまま区になったということであるが、それぞれに、街の顔が違っていた李する。

 行政や商業都市が中心で、今は市役所がある、

「文字通りの都心部であるところ」

 であったり、

「官営の製鉄所やかつての、軍需工場などが、ひしめいていた」

 という、

「産業の中心地」

 としての街が一つになったのだった。

 県庁所在地のある、

「F市」

 の場合は、以前から、

「武家の街」

「商業の街」

 が一緒になった市政というものを敷いていたが、それが区に分かれることによって、さらに、大都市へと変貌していくのであった。

 もちろん、途中に、

「市の顔」

 つまりは、

「県の顔」

 としてどちらを優先するか? ということが論議されたという時もあり、結局、

「市の名前を、武家屋敷の街」

 ということにして、

「市に玄関口である、当時は国鉄の駅を中心とした街」

 というものを、

「商業の街という名前でいく」

 ということになったのであった。

 それが、今の、

「F県F市」

 であり、中心の駅を、

「H駅」

 というのであった。

 事件があったのは、そのH駅にある、

「H口近くの路地を少し入ったところ」

 だったのだ。

 その路地に入るところは、

「さすがにオフィスビル街への入り口」

 というところで、それほど、賑やかなところではない。

 だが、人通りが少ないというわけではなく、通勤ラッシュ時や、昼休みの時間帯ほど、

「通行人で、ごった返している」

 というようなことはないまでも、

「必ず、一人はいるだろう」

 というほど、不思議なほど、人通りが絶えることのないところであった。

 普通であれば、

「そんなところで、犯罪など起こるわけはない」

 と思う人も多いだろう。

 なぜかというと、

「何か起こせば、すぐに捕まる」

 ということは、誰の目にも明らかだということだからだ。

 何といっても、今の時代は、

「どこかしこに、防犯カメラが設置してある」

 ということである。

 防犯カメラに映る以上、どんな細工をしようとも、逃げおおせるということはない。

「カメラに顔を写されたくない」

 ということで、

「犯人が、マスクをかぶっていた」

 ということであったり、

「雨も降っていないのに、傘をさしていた」

 などというと、まわりが、おかしいと思うだろう。

 確かに。今の時代は、

「隣は何をする人ぞ」

 ということで、恐ろしいほど他人に無関心な時代だとはいえ、それはあくまでも、

「自分に関係ない」

 あるいは、

「危害が加わることはない」

 という確証があってこその無関心である。

 明らかに、

「獲物を求めて凶器を持って歩き回っているような狂気とも思えるような精神状態ではないか?」

 と思えるような男がそばにいたら、少なくとも、避けようとするだろうし、警察に通報するくらいはあっても不思議はない。

 それよりも、怪しい人物がどういうことで、怪しいのかが分からないと、下手に警察に通報でもすれば、間違いだった時、どう謝罪すればいいのか分からないだけに、何もできないというものである。

 さらに、

「本当は、そこまで殺意がない人間が、せっかく我に返っているところに、輪をかけるかのように、刺激するようなことを言えば、またおかしな精神状態になりかねない」

 それを思えば、

「一体、被害者と加害者において、いかに問題を大きくしないか?」

 ということが大切で、そのためには、

「余計なことをしない」

 というのが、今の人間の考え方である。

「喧嘩している人間の片方の肩を持つとどうなるか?」

 それは分かり切ったことであり、数年前に起こった、

「侵略戦争」

 と思えるような戦争において、世界のほとんどが、侵略されたと思えるような国に加担したことで、数年経っても、まだ戦争が終わらずに、お互いに意地になってしまい、エスカレートするばかりであった。

 そのせいもあって、

「物価上昇」

 という、世界的な問題が収まるわけではなく、要するに、

「物資の不足」

 がひどい状態になってきたのだ。

 そもそも、戦争が起これば、当事国というのは、お互いに、

「宣戦布告」

 というものを行い、世界の第三国は、それぞれに、自分たちの態度を鮮明にする必要があるということである。

 一つは、

「どちらかの国に加担することでもう一方の国を敵にする」

 ということである。

 これは、

「軍事的ではない同盟」

 に近いことだろう。

 だから、同盟国であれば、一緒に戦争をすることになるのが、

「軍事同盟」

 であり、

「第一次世界大戦」

 というものが、その代表例だったのだ。

 しかし、そのために、

「ヨーロッパを中心」

 とした、

「世界大戦に発展した」

 これは、軍事同盟というその当時は、

「戦争の抑止」

 と考えられていたことが、一か所で戦争が起こってしまうと、歯止めの利かないという、

「世界大戦」

 となってしまったのだ。

 だが、戦争がいざ起こってしまうと、最初こそ、

「戦争は数か月で終わる」

 と思っていたものが、世界最初の、

「大量虐殺」

 であったり、

「無差別攻撃」

 ということで、戦争に勝利しても、軍人は、その後遺症に、

「一生苦しめられる」

 ということになるのだろう。

 それを考えると、

「第一次世界大戦終結」

 となった時。

「二度と戦争を起こさないように、敗戦国に対しての大いなる賠償と、軍事力を強化できないようにする」

 という、あまりにも厳しい条約によって、却って混乱した敗戦国を、

「興国のための防衛手段」

 ということで、世界から孤立し、国民を、

「強い政府により、興国の実現へと洗脳する」

 ということになり、今度は、次なる世界大戦へと誘っているのであった。

 そこで出てきたのが、

「ナチス」

 であり、

「ファシズム主義」

 というものであった。

 国民のプライドと、これまでの屈辱的な自分たちをこのようにした勝者国に対しての反発」

 ということ巻き起こった、明らかな侵略戦争。

 少々のことで味わった屈辱が晴れるわけではない。

 ファシズムというのは、国家が強いだけに、それ以上の世論という強さに対して、

「抗いながらの洗脳」

 という、

「難しいかじ取り」

 というものが、生まれてくるのであった。

 そんな時代において、宣戦布告をしない戦争が、いかなることを引き起こすかということを、始めた方は分かっていないのかも知れない。

 しかも、日本政府もそうであるが、

「攻め込まれた方が悪い」

 と思い込むふしがある。

 もちろん、

「研究家であったり専門家がいうのだから」

 ということで、世論は、

「それが正しい」

 と思い込むのかも知れない。

 それが、洗脳というものを扇動してしまい、結果、事態の善悪が分からずに、扇動されるままに解釈してしまい、そのまま、

「多数決」

 というものに流されてしまう。

 本来であれば、

「少数派にだって、理論というものがあり、すべてとは言わないが、その中には特筆すべきところがある」

 といえるものがあるのに、それが見えずに、盲目にされてしまうということになってしまうのであろう。

 それを考えると、

「ここ数年の戦争は、片方に加担するという比重が大きすぎることで、おかしなバランスになってきている」

 といえるだろう。

 そっちが、終わる兆しが見えるわけではない時に、他の地区でも、戦争が起こった。

 こちらの場合は、お互いにせめぎ合っているので、

「どちらが善で、どちらが悪」

 ということにはならず、

「とにかく、一般市民のことを考えると、人道的に、戦争を辞めさせなければいけない」

 ということで、外交交渉を行うこともできるが、

 前述の最初の戦争に関しては。

「最初こそ、外交で何とかしよう」

 と世界の国が動いていたが、それでも、最後には、

「侵攻してしまった」

 ということで、結果、

「攻め込まれた方の肩を持つ国が大半である」

 ということになると、完全に、攻めた国は孤立してしまう。

 そちらの国にはそれなりの

「言い分」

 というものもあるのだろうが、それも、

「勝手な言い分と一蹴してしまえば、どうすることもできなくなり、孤立の道を歩むことになる」

 ということだ。

 それで、大日本帝国がどうなったか?

 つまり、

「満州国建国」

 というものが、

「自衛のためであったにも関わらず、世界が、自衛にあらず」

 ということにしてしまったので。日本は孤立したではないか。

 そもそも、資源が絶望的にない国は、

「領土を増やすか?」

 それとも、

「何もせずして、死を選ぶか?」

 ということになるわけであり、

「国家が国民を見捨てる」

 などということができるわけはない。

 そのための満州事変だったのだから、

「一度始めれば、興廃というものが決するまで、徹底的にやるしかない」

 ということになるのだ。

 それが、大日本帝国の運命であり、それが分かっている日本が、それをしないのは、

「政治家の自分たちの利益だけを欲することで、国民を滅亡に追い込んでいる過程だ」

 ということになるのか、それとも、

「政治家といえども、歴史の教訓が分かっていないバカばかり」

 ということになるのかということであろう。

 そんな、

「最初から動機はあったが、そこに殺意があったのかどうか分からない」

 という状態で、ナイフを持っていたというのは、

「それだけ、精神的に、どこか狂っていた」

 といってもいいだろう。

「そんな人間が、ストーカーであるかのような行動をとっていると、確かに普通なら、警察に通報するレベル」

 ということになるのだろうが、実際に、そんなことはない。

 ストーカーというものを、

「被害者側」

 あるいは、

「加害者側」

 というもので考えてみると、その温度差というものは、結構なものだといえるのではないだろうか?

 というのも、

「被害者側にとってみれば、相手が何を考えているか分からない」

 ということで、その気持ち悪さは、正体がつかめないだけに恐ろしさは倍増するというものであるが、逆にこれが、加害者側から見ると、

「自分がストーカー行為をしているとは思っていない」

 という感覚があるから、

「相手が怖がることは何もないはずだ」

 ということになるのだ。

 つまり、

「加害者側の行動と、精神状態にまず、大きな差がある」

 ということになるのだろう。

 加害者側の行動としては、

「誰が見ても明らかに、ストーカー行為をしている」

 ということなのに、それが精神状態となると、

「自分が相手を追い詰めているつもりはなく、むしろ、相手が望むから、助けようとしてあげているんだ」

 と思っているのかも知れない。

「精神面に行動が伴っていない」

 ということで、被害者側からすれば、恐ろしいのだろうが、加害者側からすれば、

「精神疾患なのに、それに気づいていない」

 ということなのではないだろうか。

 特に普段は、

「ただの、おとなしい青年」

 というだけで、

「別に人に危害を加えるわけでもなければ、仕事もちゃんとしていて、誰かに迷惑をかけることはない」

 ということであれば、

「加害者というのは、何も、相手を苦しめているという自覚はないのだとすれば、まわりから、ストーカー行為を指摘され、相手が、上から目線で注意などをしたものであれば、、自分としては、何も悪いことをしているという自覚がないのだから、完全に、自分が追い詰められたり、いじめられたりしている」

 と思い込んでしまうことだろう。

 すると、孤独はさらにあおられ、

「俺が何をしたんだ」

 ということで、孤立にさいなまれることであろう。

 確かに、

「世間の常識」

 というものは、そうなのかも知れない。

 しかし、それは、

「健常者というものに対してだけいわれていることであり、精神疾患を持った人間に押し付けてどうなるというのだろう」

 本当であれば、治療を受けさせるのが一番なのだろうが、健常者の中にはそこまで考える人がどれだけいるというのだろうか?

 健常者というものが、当たり前だった時代は、とっくに終わっている。今は、

「いつどこで誰が、精神疾患になったとしても、おかしくない」

 という時代である。


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