第三章 サンゴ礁の島

僕たちは五月の連休を利用して宮古島にやってきた。ステアリングを握る妻は初めて走行する島の道に緊張しているようだ。いつも笑顔の妻が真剣に運転している顔は新鮮だった。

「なんか田舎だね」と妻が呟く。

「そりゃそうさ。繁華街の西里とは反対方向だからね」と僕は説明した。

窓の外を流れる景色は、空が青から赤に変わっていく途中で雲に夕陽の光線が反射している。前方に続く一本道は両側が二メートルほどの高さのサトウキビが塀のように続いて見える。時折途切れたと思うと小さな用水路にかかった橋に出る。橋の先に舗装されていない部分も多い道は車の乗り心地が最悪だ。カーステレオから流れてくる琉球放送のラジオ番組はおおらかな琉球訛りDJが流す沖縄ポップスは遠い知らない街に来たのだと私たちに告げていた。東京から三時間半をかけて飛行してきた甲斐がある。ここは僕たちの求めていた非日常だ。

予約したペンション『マザーストーン』はすぐわかった。白い壁に沖縄特有のセメントで固めた辛子色の半円筒型の瓦で出来た屋根を乗せた二階建てL型の建物だった。

敷地に入ると建物前に用意されている駐車場に木札がたっていて『山寺様』と書いてあるスペースに車を止めた。建物左にある階段を上がると大きめの玄関があり、そこに白髪白髭の日焼けした小柄なおじさんが立っていた。

「山寺さんかね」おじさんは笑顔で聞いてきた。

「はい、お世話になります」と頭を下げた。

「はいはい、いらっしゃい。東京からだったね。疲れたでしょう。部屋はこっちだから」おじさんは僕たちを先導して廊下を先に歩いた。僕と妻は荷物を抱えて後を追った。僕たちの部屋は『二〇三』と書かれたプレートが付いていた。

「先に届いた荷物は入れておいたから」おじさんはドアのカギを開けて、僕の白杖を

見ていった。「素泊まりの三泊だったね。宿帳はお嬢さんに書いてもらおうかな」

「お嬢さんだなんて、お世辞がお上手ですね」と笑いながら宿帳を受け取った。

宿帳を受け取った伯父さんが再び廊下に出て説明した。「廊下の奥突き当りが共同のシャワー室で浴槽はないから。今日は山寺さんだけだから貸し切りだね」

おじさんは簡単に説明だけして「じゃあね」と帰っていった。

「お腹が空いたね」荷物を簡単に整理して一息つくと既に午後七時前になっていた。「予約は七時半だったよね」

「よし、ウエルカムパーティと行こうか。なんだか有名な居酒屋を予約したんだ。『出入口』って変な名前だよね」と僕はスマホを取り出してタクシーを呼んだ。

『出入口』についたのは予約時間をわずかにすぎていたが、店のホール係の女性はにこやかに歓待してくれた。「ようこそ、山寺様。お待ちしておりました」

僕たちは気分をよくすると、気前よくテーブルを埋め尽くすほどの量の料理を注文し、とりあえず生絞りシークワーサーサワーで乾杯した。二人同時に「おいしい!」といって目を見張り、顔を見合わせて笑った。

「マグロのぶつ切りお待ちどうさまです。沖縄では今がマグロの旬なんですよ」ホール係の自慢気な言葉と一緒に大きく切り分けられたマグロの皿をテーブルに置いた。

僕たちは先を争うように一切れ取って、醤油につけて、ほぼ同時に口に放り込む。「おいしい」と同時に言って、また笑った。テーブルの上には、定番の沖縄料理であるゴーヤチャンプルー、海ブドウ、テビチー、ラフィテー、グルクン、ミミガーなどが並び極めつけに宮古牛のステーキが出てきた頃にシークワーサーサワーをお変わりた。

「もう入んないよ」妻が珍しく満腹アピールをした。

「この後とっておきのデザートがあるんだけど、僕が二つ食べていいの」と、僕がにやり。

「それは夫婦でも許せない不埒な所業」

「ははあ、申し訳ありません。お代官様」と、僕が調子を合わせる。

「お待たせしました。ジーマミ豆腐になります」ホール係が半笑いでデザートを持ってきた。

「これが噂の沖縄定番絶品デザートですか、山寺博士?」妻は小さな器を見つめていった。

「うむ、よいところに気が付いたね。原材料はビーナッツと寒天みたいだから本州で言うビーナッツ豆腐とはちょっと違んじゃよ。それにこれにかかっているのは醤油系のアンじゃなくて、みたらしの雨だれみたいなものだという調査結果が出ておる」

「博士、百聞は一食にしかずです。さっそく試食テストして見ましょう」と、妻はまだふざけている。

「それを言うなら、百聞は一見に如かずでしょうが」と言いながら、僕はひとくちスプーンで掬って食べた。「驚いた。これ、おいしい。なかなか独創的だね。」

「どれどれ」と妻も食べると「美味しい!」と、飛び跳ねて大はしゃぎして、また店員さんに笑われた。

食事に満足してタクシーでペンションに帰ると、日ごろあまり飲まない妻はかなり酔っていた。玄関前の階段脇にいた子犬くらいの大きさのカエルに「ご苦労」と労いの言葉をかけていた。僕は部屋に入るとベッドに横になって心地よい満腹感と酔いを楽しんでいた。妻は着替えとタオルを持ってシャワー室に向かった。

「きゃー」という声が聞こえたので、慌てて僕は跳ね起き、シャワー室へ急行すると、「どうした」と聞くと、妻はにやりとして「覗くな」と手を振って僕を追い払った。何が何だかわからない。

仕方なく部屋で待っていると、帰ってきた妻はいたずらっ子のような表情で僕に着替えとタオルを渡して「行ってらっしゃい」と言った。

僕はシャワー室に行って服を脱いで、シャワーコックをひねると心地よい温度の水が出てきた。酔った肌に気持ち良かった。湯を馴染ませようと掌で腕や胸を撫でると違和感があった。油でも浴びているようにぬるりと滑るのだ。まるで落ちていない石鹸のようでもあり、ぬるぬるは止まらない。そこで初めてペンションの利用者のレビューを思い出した。「ここのシャワーは硬水を使っているので肌にぬめり感があります」と書いてあった。あり増すどころの話ではない。こんなにもぬるぬるするものなのかと驚いた。舎んぴーも、ボディソープも全く流した気がしない。妥協できる範囲で体をながして、用意してきた部屋義に着替えて戻ると、妻は既に寝ていた。少女のようにあどけない、幸せそうな寝顔がかわいいと思った。

僕は外の景色が見たくなり、音をさせないように部屋を出た。

これから僕はどうなっていくんだろう。店舗設計者になる夢は破れた。友人たちは『なくなったものだけが、夢じゃない。また別の夢を見つけろよ』とか『お前が将来できることは、他にあるんだ』とか言って、僕を勇気づけてくれた。

でも僕には友人の言葉が響いてこない。目が悪くなって一体何ができるというのだろう。左目の角膜も見えているのは五%だけだ。長時間の使用には耐えられない。好きな映画も動きが速すぎて何をしているかわからない。字幕も追いつかない。好きで見に行っていた舞台も、背景のセットに何が描いてあるのかわからない。

迷子のような気持になった僕は、玄関を出て階段を下りた。さっきのカエルがさっきとまったく、同じ格好で、同じエントランスの石の上にいた。

「おい」僕はカエルに話しかけようとしてやめた。空を見上げると薄い雲を通して月が出ていた。左目を瞑り右目で見ると月は二つ重なった瓢箪のような形になって滲んだ。その時になって自分が泣いていることに気が付いた。


翌朝妻に起こされて僕は目を覚ました。「皆さん、おはようございます。午前八時になりました」と沖縄テレビの朝のワイドショーのキャスターが伝えていた。

「ごめん。寝過ごしたかい」と妻に聞いた。

「大丈夫。必要なものは私が車に積み込んどいたから、朝ごはん食べに行こう」妻は今日も元気ハツラツだ。

僕が顔を洗うのを待って、近所のファミレスで朝食を取り今日の予定「宮古島海岸巡り」をスタートさせた。

五月の宮古島は初夏の気候だ。空は高く昨日とは違い雲ひとつない最高の天気だ。

ペンションのある辺りから、海沿いに南下する国道ルートをたどる計画だ。僕たちは車の窓をすべて開け放ちリゾートアイランドの風を全身で味わった。湿度の多い宮古島でも、この日空気は透き通ていた。

しかし、僕は昨夜の重い気分を引きずっている。そんな気持ちを僕は妻に悟られたくなかったので、ラジオに飽きた振りをして僕はスマホに用意してきたプレイリストを流した。

「ねえ、昨日はよく眠れたの」と妻が言った。

「気持ちよく眠れたよ。なんでそんなこと聞くのさ」と窓の景色を眺めながら答えた。

「夜中に水を飲もうと思って起きたら、ベッドにいなかったからね」妻は勘が鋭いのだ。

「ちょっと飲み過ぎたみたいだから夜風に当たってたんだよ」と言い訳をした。

「ならいいけど。私も仕事が決まったし、毎年旅行に行けるよね。」

「ああ、すまないね。職場が変わって給料も下がったから苦労を掛けるね」

「やだあ。自虐ギャグは似合わないわよ。目のことを気にしているなら、余計なこと考えないで。誰でも何かしら病気を持っているものだわ。それは人それぞれの個性だよ。それに夫婦は人勢も個性も補い合う世の中で唯一の存在よ」と妻が力強く言った。

「でも僕の病気は治らないんだぜ」と僕は語気を荒げた。

「治らない病気はあなただけが持っているわけじゃないわ。同じ病気で全盲の人もいるって先生が言っていたじゃない。あなたはまだ左目が見えているのよ。」

「その左目だって網膜は五%しか見えてないよ。いつ失明するかわからないんだ」

「でも見えてるのよ」妻は進行方向を見ながら真剣な顔をしていった。

ほどなくして最初の目的地である与那覇前浜というビーチの駐車場に着いた。

「さあ、着いたわ」妻は僕を助手席から引きずり出した。

駐車場からビーチの間には少し高い土手があり、そこには小さな海の家らしきものがあった。僕たちは土手に作られた階段とも呼べない段を上った。すると目の前には幅一.二キロメートル、全長七キロメートルにも及ぶ純白のビーチと『宮古ブルー』と言われる青い海が広がっていた。その白と青の間に遠浅のグラデーション、その沖には来間島が望める。来間島は緑豊かな姿を堂々と表していた。ビーチの左手から車島まで、海中から伸びた高い橋脚が幾本も連なり、長い来間大橋を支えている。その姿は、昔見た手塚治虫の未来都市のハイウエイのように真っすぐに空中を伸びていく。他には青空しかない。

色に鈍感な僕の左目にも鮮やかなパステル画のように飛び込んできた。

僕には口にする言葉もなかった。ただこの景色を忘れたくないと思っていた。

「すごいね」隣に立った妻が言う。「奇麗すぎて現実とは思えないよ。昔見たスタイリッシュなイラストみたいだよね」

「ああ、綺麗だな」

「ねえ、私はあなたの目が良くなることを祈ってるの。でも今は、あなたの左目にたくさん綺麗なものを見せたい。二人で、いろんなところに行ってさ。あなたの左目に私たちの記録映画を残したいのよ…。もちろんおいしいものもたくさん食べてね」

「あははは」僕の左目カメラは涙に歪んでいた。


<了>

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僕の左目に映った君との旅 矢部 傳二 @kumabeaG

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