第二章 ターニングポイント
僕の目に症状が出始めたのは四年前で、当時は店舗デザインの会社で営業をしていた。企業や個人から依頼される飲食店などの設計やデザインを行い、照明、水回り、什器などを選び、既製品に無いものはオリジナルで作ることで、依頼者の希望に叶う店舗を提供する仕事だった。
その年の十月のある日、客先に社用車で向かっているときに、僕は追突事故を起こした。前方の車が止まったことに気が付かずに信号のある交差点でぶつかった。警察の現場検証の時も僕は相手の車のブレーキランプが見えなかったと証言したが、相手から嘘つきだと毒づかれた。「見えていないはずがない。昨日車検を終わったばかりなんだぞ。ちゃんとブレーキランプはついてた。」
興奮した相手を警官が間に割って入って抑えるほど険悪な空気になった。後で分かったことだが、その時私の網膜は半分以上が見えてない状態だったのだ。それでも目の障害に無自覚な僕は「見えなかったんです」と繰り返していた。今考えると申し訳ない事をしたと思う。
会社に報告すると総務部長から「山寺さんも四十三歳になったんだから、目のピントが合わなくなってきたんじゃないのか。一度診察を受けてみたらどうかね」と言われた。
業務中事故を起こした後ろめたさもあり、総務部長の忠告に従い、最寄りの総合病院の眼科を受診した。すると視力検査、眼圧検査などをして診察をうけると、担当医師から「ここでは診断がつかない」といわれて、大学病院を紹介された。同様の検査の他に、網膜の検査・撮影を行い、診断が下された。
僕の目は網膜色素変性症という病気だった。日本では八千人にい一人がかかる病気で、ある日突然発症し網膜が爛れて視野が狭くなるというのだ。僕の網膜は両目とも既に九十五%が侵されていた。
原因も治療法もわからない難病だと医師は言った。僕の場合、さらに悪いことに右眼球の奥にある視神経に損傷があって、右目で見える映像には割れた鏡のように亀裂が入って、二つの同じ画像が斜めに重なってみえていた。
僕の報告を聞いた時の社長は、とても落胆した表情で退職を勧めたのだ。
「君には会社の将来をけん引してもらえるものと思っていただけに残念だ」と社長は肩を落としていった。
「申し訳ありません」と、僕は頭を下げた。
店舗デザインは僕にとって天職と思っていた。いい店を作った時の依頼者の満足そうな顔や未来を夢見る顔はどんな苦労をした現場でも最高の記念碑となったし、この街の一角をすべて僕の手掛けた店で埋め尽くしたいと夢を見ていた。しかし目を患ってしまえばそれもかなわない。
顧客からの依頼書も、設計図面も、カラーデザインも、見積もりも、仕様書も、現場も、木材一つだって見えないのでは、仕事になるはずもない。当然退職するしかないと自分でもわかっていたが、仕事の師匠と仰ぐ社長からの退職勧奨はそのまま、死刑宣告と変わらなかった。ビデオゲームのようにリセットできないかと真剣に考えていた。
家に帰って妻に事情を説明すると、僕の胸には抑えていた不安が溢れてきた。堰を切ったように涙があふれ、体を支えっれずにダイニングテーブルに突っ伏して泣きながら、「すまない」「ごめんね」と何に謝っているのかわからない僕の頭を、妻は優しい目で見つめながら、泣いていた。翌日以降も妻は、何事もなかったように接してくれた。しかし僕の心には、大きな穴が開いてそのブラックホールに、すべてが落ちて消滅していた。何も考えられなかった。
店舗デザインはチームで取り組む仕事なので、引継ぎは一週間とかからずに終わった。
残りの時間を僕は放心状態で過ごした。事務所の皆も僕に近寄らなかった。
毎朝仕事に行くだけ。休日も仕事と妻に嘘をついて漫画喫茶で漫画も読まず、テレビも見ず、たまにネットを呆然と眺めるだけで時間を潰していた。僕が家にるときに気を使っている妻を見ていることが辛かった。毎日毎日無為に過ごす僕は、徐々に表情をなくしていった。そんな僕を妻は何も言わずに見守っていた。
最終出勤月である師走のある月曜日だった。会社に出て机につくと、事務員から「昨日奥様から電話ありましたよ」と聞かされた。その日も仕事だと言って家を出ていた。何か忘れものでもしたのかもしれない。事務員に礼を言った。
僕の心の中に溜まり溢れそうになった絶望は、既に収まり切れないほどの量になっていた。妻に嘘がばれた。それが大きなテキストで頭の中を飛び回っていた。妻にばれた。つらい。ばれた。もうだめだ。
帰りの秋葉原駅総武線ホームに立った時、下り方面に日が落ちる寸前の逢魔が刻。電車のライトがまるで巨大な怪物の目のように見えた。僕は白線の内側に立ってドキドキしていた。膝が震えて喉が渇いていた。このまま一歩踏み出せば…。楽になれる…。リセットできる…。呼吸ができない…。
「あなた。」
背後から声がして僕は叱られた子供のように身をすくめた。耳には電車の到着時の音が飛び込んできた。いままで視界を茜色に染めていた夕日が、一瞬でホワイトアウトしていく。次の瞬間、僕に日常の風景が戻ってきた。到着した総武線のドアが開き、迷惑そうに僕を押しのけながら乗客が下りてくる。振り向くと僕に向かって薄いベージュ色のコートを着た妻が、笑いながら駆けてくる。突然のことで反応できず、僕は大きく目を広げたまま固まってしまった。
「やっぱり。今日が何の日だか忘れてるでしょう」と妻が半笑いで言った。「あなたの誕生日よ」僕の後ろで車両のドアが閉まり、ホームには発車メロディが鳴っていた。
「あっ」喉の奥から、つかえていたものが飛び出すように、のどから声が漏れた。
「四十四歳おめでとう」妻は僕の左腕に飛びついた。僕の鼻孔に妻のシャンプーの香が届いた。
「本当だ。忘れてた」僕はなぜか意味もなく、汗でぬれた右の手のひらを見た。
「ねえ、『レッドクロ―』でお祝いしようよ。」
『レッドクロ―』は僕が初めて設計した神田駅にある店舗だった。妻は開店当時から店のファンでマスターの多聞さんとも顔見知りだ。
「あそこのビーフシチューでお祝いするの。私が予約を入れておいたから」と、妻が私を改札へ引っ張った。
「電車で神田に行った方が早いよ」と、小さな声で僕が行ったとき、妻は日の沈みかかって暗くなったホームを振り返っていった。
「今日は歩きたいの。それに今日の電車はなんだか怖いから、きらい」
僕を引きずるようにして駅を出て街に出た。神田駅前の『レッドクロ―』まで歩きながら、妻は僕に大好きな映画な話をし「次の休みに何を見ようか」と話しかけてくれた。
年が明けてすぐに知人の紹介で労働組合の職員として就職した。僕の左目は、パソコン画面で事務作業をするくらいには見えていたので、その労働組合が扱う福利厚生サービスの担当者として働くことになった。旅行、食事、レジャー、観劇など割引価格で利用できるように業者と交渉して提携を結んで運営していく仕事だ。新しい仕事は気分のリフレッシュになったが、目の影響で使い始めた白杖は僕を苦しめた。
見えていない自分を周りに認識してもらうために、必要だという妻のいうことを聞いて毎日白杖をついている。片手を独占されるためアタッシュケースを使うと、いざというときに使える手がなくなる不安から肩に下げるメッセンジャーバックに変えた。眼鏡にもサングラス風のアタッチメントをつけた。実際、左目は視野が狭くなっているとはいえ普通に見えているので複雑な気持ちだが、何もしていないと健常者と思われてしまう。
網膜色素変性症の専門医でも、患者がどんな視界で、視野認識で生活しているかはわからない。僕の見えている世界は、僕にしか認識できないのだ。僕の見えている世界を妻に伝えたいと考えて作り出した表現は、「健常者が五十インチの8Kテレビで見ている風景を、僕はカーナビの8インチ画面でみてるようなものだ」くらいしか思いつかなかった。
妻の進言をいれて白杖をついて通勤時にアピールしても、毎日誰かが正面からぶつかってくる。歩きスマホをする人や歩道を自転車走行する人もぶつかってきたが、歩道に置かれた看板やラバーコーンなどにも何度も躓いた。一番怖いのは地下鉄駅のエスカレーターで、駆け降りる人や駆け上る人に
ぶつかられたときだ。白杖で支えることができたから転倒しなかったが、もしものことを考えるとぞっとする。
障害を持って初めて思い至ったが、自分のことしか見えていない人のなんと多いことか。
電車一本乗り過ごしただけで重大事になることは稀だし、メールやニュースに階段途中で確認する重要事も頻繁には起こらないのに、健常者はそんなことは考えない。ドラマの主人公でもシートベルトもするし、スマホを見るときには道の脇に避けるのに、視聴者には伝わっていない。そういうストレスも自分の闇を考えないために役に立った。
しかし二年を過ぎたころに気がつくと、ぼ―っとしていることが多くなった。心の穴はまだふさがっていなかった。しかし絶望の淵からはかなり距離を持てていると思えるが、僕は何のために生きているのかを考えても答えは出ない。そんなことの繰り返しが心に澱のように積もっていった。
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