僕の左目に映った君との旅
矢部 傳二
第一章 遠くへ行きたい
僕と妻は『グランブルー』という古い映画を観た。
映画の舞台である美しい海に感動して、『こんな海に行きたい』と意見が一致。
「どうせ行くなら綺麗な海がいいけど、言葉が通じないのは不便だから、とりあえず国内でしょう?」という妻の提案を尊重して、調べていくうちに候補は三つに落ち着いた。
今年の正月休みに僕と妻はリビングのテーブルいっぱいに資料を広げて、お互いのお気に入りマグカップに、妻は紅茶のアールグレイを、僕はコーヒーのガテマラを準備して作戦会議を始めた。
最初の候補地は、静岡県伊豆地方。
伊豆の踊子号で有名なドル箱観光路線の終着駅が、伊豆急下田駅でここから中伊豆が始まり南下するにしたがって自然が豊富になっていく。この地は明治維新のきっかけになったペリー提督率いるアメリカ海軍が来航した場所でもある。 伊豆急下田駅からレンタカーで南下していくと海岸線には、美しいビーチが続いている。その中でもヒリゾ浜は透明度の高い海岸として人気になっていた。そこからさらに進むと『陸の孤島』と言われる西伊豆へと至る。海と山に囲まれた豊富な自然が特徴のリゾートだ。
「伊豆は近いから、いいよね」妻は目を輝かせて資料を眺めた。「東京駅から下田まで伊豆急一本で乗り換えなしだし、荷物は配送便でホテルに送れば手ぶらで行けるのもいいよね。」
「それに下田と言えば温泉も有名だから入りたいけど、浦賀港が見える展望台へのケーブルカーも乗ってみたいな。アメリカ黒船艦隊のペリー提督を見おろせるチャンスはめったにないからね」といいながら、語句は眼鏡をはずしてテレビの画面を見ながらリモコンでYouTubeの音楽番組の音量を絞った。ウチでは大型テレビとテレビ用スピーカーを買ってから音楽を聴くときにテレビを利用することが多くなった。
「伊豆は食べ物もおいしいから、楽しみだよね。のど黒やサザエも美味しいのよ」と妻は嬉しそうに読み上げた。若い頃の妻は鮮魚をあまり好んで食べなかった。だが四十歳になった今では海の幸の滋味に目覚めたようだ。「なにこれ、伊勢海老ラーメンだってよ」
「どれどれ」と僕は再び眼鏡をかけて伊豆の資料を覗き込んだ。
僕がかけている黒縁眼鏡の左目には普通のレンズが入っているが、右目はスリガラス状の目隠しシートが貼られている。
妻は資料を指しながら続けた。「この吉佐美大浜(きさみおおはま)っていうビーチはね、何度もテレビコマーシャルのロケで使われているのよ。ここで泳げればきっと楽しいよね。」
「ああ、あの浦島太郎の出てくるコマーシャルか」と僕が相槌を打つ。
「そうよ。乙姫様みたいな私を自慢してもいいのよ」と妻は胸を張った。
「はいはい」とスルーする僕に、妻は平手打ちをくり出すが、軽く避けながら続けた。「しかし伊豆はすごいな。下田駅から南端のヒリゾ浜までで、水質が最高ランクのAAのビーチが七つもあるとは恐れ入ったね。」
「こら、乙姫様を無視するなってば…」すねた様子もなく妻はツッコミを入れた。「伊豆の透明度は、世界中の海洋カメラマンがあこがれるほど凄いってよ。利用者のレビューに『遊覧船でのぞき込めば海面から海底の魚たちが見えます』って書いてあるよ。」
「へえ、すごいな」僕は感心した。「こんなに身近に世界有数のきれいな海があるなんて、行かない手はない気がしてきた。」
しかし残念ながら僕の目にはプリントアウトされた資料はセピア色にしか見えない。それを知っているが妻は写真を指さした。僕の脳で示された写真の記憶補完が行われて想像した景色はなんだか単調な色彩で古いアニメの中の海底のようだった。
次の候補は、東京都に属する八丈島。
戦国時代から江戸時代にかけて流刑地として利用されていた伊豆七島の南端の離島だ。今では釣りやスキューバダイビングのメッカとして有名な場所でもある。
「私、八丈島って行ったことないわ」と妻が言った。
「僕も行ったことがない。式根島へは高校の時に男三人で行ったっけなあ。自転車で一周二十分くらいの小さなところだったけど、面白いところがたくさんあって、なかでも楽しかったのは、温泉でさ。海の中に温泉が湧いていて、自分たちで海中の石を積み上げて湯舟を作って、友達と一緒にその湯船から夕日を眺めたことを覚えているよ」僕は話ながら思い出して、遠い目をした。「その時とまった民宿の朝食のおかずは、毎朝、島の名産だったのは拷問ものだったけどね。」
「わあ、素敵じゃないの。」と、瞳を星にして妻が言った。
「くさやだよ?」と、僕はにやり。
「げえ、遠慮しとく…」妻は、くさやの臭いが苦手だ。
「でも八丈島も有名な食べ物と言えば、くさやとアシタバくらいじゃないかな」と僕が畳みかけると
「そんなことはないよ。この資料によると美味しいお店がたくさんあるんだってよ。フレンチレストランに、ピザ屋さんに、焼肉屋さんも予約が取れないくらい人気だって言うわよ」妻はむきになって資料のページをペシペシとたたく。
「フレンチ、ピザ、焼き肉なら東京でも食べられるんじゃないか」と僕が言うと
「わかってないわねえ。東京で食べるのと、八丈島で食べるのではムードも味も違うでしょ?」
さらに言いつのる様子を見て、意地っ張りな妻がへそを曲げる前に、僕は話題を変えた。「八丈島の周りは岩がごつごつしているイメージだけど、泳げるのかい」
「大丈夫みたい。底土浜(そこどはま)っていう砂浜があるんだって、防波堤に囲まれていて波も穏やかで、ウミガメも波を避けるために入ってくるらしいよ」と妻は目を輝かせて言った。「ウミガメ!」
「好きだよね、ウミガメ。そういえば前に水族館巡りの時に大阪海遊館でカメのぬいぐるみ買ったっけなあ。」
「ああ、買った買った。確かクローゼットにあるよ」妻はさっと立ち上がってクローゼットからLサイズピザくらいの大きさのぬいぐるみを持ってきた。緑色のウミガメだ。「へへへ、みつけたよん。」
僕は資料を見ながら「それに温泉があるんだってさ。」
「ああ、いいねえ。海で泳いだ後の温泉は最高だよ」思い出したように笑顔で妻が言う。 「でも海からはちょっと離れているみたいだね。高台にあるみたいだ。」
「なんだ。がっかりだね。和歌山の白浜海岸みたいにビーチにあるといいのにね。」
最後の候補は、沖縄。
言うまでもない日本一のリゾート地だ。沖縄本島、石垣島、宮古島など魅力あるスポットがたくさんある。またマリンアクティビティも充実していて、水上スキー、バナナボート、シーウォーク、シュノーケリング、スキューバダイビング、サーフィン、ボディボードなど、あらゆるマリンアクティビティが用意されている。
「やっぱり海は沖縄県が観光地の王様だよね」と僕がため息をついた。気が付くと、バックグラウンドで流していたYouTubeではご贔屓のタレントが流行歌を熱唱していた。
「沖縄本島なら一度だけ行ったことがあるわ、私」と妻が言った。「まだゴルフ場に勤めていた時に社員旅行で行ったから、もうあんまり覚えていないなあ」
「僕も前の会社の社員旅行だったな。現地ではバスツアーで定番の観光スポットを見に行ったり、国際通りに買い物に行っただけだよ。しかもずっとビール飲みっぱなしだったんだ。ひめゆりの塔くらいしか覚えてないよ。そういえば首里城を見てないや」僕はその事実に気が付いて驚いた。
「私も観てないから首里城見学が含まれてないツアーだったか、酔っ払ってバスで寝てたんじゃないの」妻はカメのぬいぐるみをわきに置いてマグカップのアールグレーに口をつけた。妻はテーブルの上の資料を見ながら「ダイビングショップにも写真があったけど、慶良間諸島(けらましょとう)がいいんだよね。魚もいっぱいいるし、海の透明度の高いから綺麗だわ。」
「確か泊港からフェリーで阿嘉島へ行くか、ボートエントリーだね」シュノーケリングの入海方法には、砂浜から歩いて海に入るビーチエントリーと、船に乗ってシュノーケリング・ポイントへ移動して船から海に入るボートエントリーの二通りがある。まあ岩場から入るものをロックエントリーとは言わないのだが…
「クマノミにも会えるって書いてあるよ」妻がはしゃいだ。
アメリカの有名アニメ映画に出てくるカクレクマノミは、僕たち夫婦のアイドルになっている。
「ウミガメにも会えるらしいぞ」と妻が脇に置いていたウミガメのぬいぐるみを人差し指で突いた。
「虐めちゃダメでしょ」妻がさっとぬいぐるみを取り上げて、頬を膨らませた。
「うん、慶良間諸島もなかなか良さそうだね」左手のマグカップに残ったガテマラを飲んだ。「で、石垣島はどうかな」
「『石垣島は、川平湾(かびらわん)をはじめとして美しい海がたくさん楽しめる。フェリーの中継基地でもある、この港から竹富島、鳩間島、西表島(いりおもてじま)、波照間島(はてるまじま)などへも行ける』って書いてあるよ」妻が観光資料を読み上げた。
「波照間島ってテレビの医療ドラマでロケがあったところだろ。なんとかって言う俳優が主演したドラマだよな」以前見ていたテレビドラマを思い出して僕が言うと
妻はにやりと笑った。「気が付いた。一緒に見てた、あのドラマのロケ地に『聖地巡礼』に行くっていうのおつですよ、ご主人。オタク心をくすぐられるでしょ?」
「いいねえ、オタク結構。聖地巡礼、バンザイ!」思わず僕もつられて笑った。「そして最後の候補地は、宮古島だよね。」
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