第5話
私は精神的に壊れました。
父の状況を前に留学の希望が消えなかった己が赦せなかった。あいつは父を捨てたという冷えた眼も辛かった(後の会話で母はそう思っていたと思われます)。家族は私が出立する前提で動いてくれました。その状況で「あなたはいないんだから」と繰り返し言われながら、自分への怒り、消せない感情が耐えられない(母を責めてはいけない、当然の意見なのに、当時は母姉の応対も葛藤の原因でした)。
ロボットになれればいいと何度も思いました。何も感じず介護をして、要務をこなすロボットになりたい。感情なんて無くしたかった。
でも人の心に訴える作品を扱う文学部の私の研究対象は、感情が無かったら向き合えません。
今思うと極めて愚かで利己的な葛藤。自分が倫理的に清らかでいられなかったがゆえの感情など、自己愛の塊で愚の骨頂でしかない。自分勝手以外の何だと言うのか。
良心の呵責と自己嫌悪と葛藤で私は自傷行為に走ってしまいました。リストカット等の深刻な手に出なかっただけ理性は残っていたようですが、自分の頭を殴打したりして、心療内科に罹りました。
叫び出したいのは父のはずなのに、私が異常になったことに、さらに自責の念が募る。こんな迷惑しかかけず、介護の手伝いにもならずに留学へ歩を進めている。何でこんな人間が生きているのか。
父の仕事は人を救う仕事でした。役立たずで害悪になっている私ではなくて父が生きればいいのに。何度思ったか。
虚学の軽視に強い憤りを覚える自分が、虚学の無力さに直面している。虚学が精神的に救いにはなる、力がある。それは今でもはっきり言えます。しかし肉体は救ってくれない。
何で神様は私でなくて父をこんな運命にしたのか。無宗教でも思わずにはいられない。
救いの神なんていない。
いたら父を救ってくれているはずだ。
荒れる神はいても、慈悲の神はいない。
強くそう思うのに、それでも教会に行けば願ってしまう。
まだ平常なうちに父は退職することになりました。体は元気でも脳障害で仕事の判断が鈍ったら一大事です。退職準備に職場へ行かねばなりませんが、脳の異常に警戒し、職場との往復は付き添いが必要です。ただし朝、母と姉は出勤しなければならない。
文系院生は決して暇ではありませんが、実験などは無いので時間に融通が効きます。幸い私の大学は父の職場から電車で一本でした。
朝は私が付き添い、その足で大学へ。帰りは母が迎えに行きました。父の車で職場に向かうこともありました。
後で母から聞きました。
私を助手席に乗せていれば、父は絶対にハンドルをきったりしないと。
家庭内は冷えた緊張のまま、私は精神が不安定なまま、入学は許可されます。不幸中の幸い、父の介護はヘルパーの親戚や従姉が手伝ってくれることになり、在宅で行う手筈となりました。感謝しかありません。
父は認知症と同じ症状が出て、身体は健康ながらもどんどん記憶力と判断能力が低下していきました。
そして、私の渡航日が来ます。
父から名前を呼ばれた記憶はありません。
以降、何度も途中帰国しましたが、私は一度も父から名前を呼ばれていません。
娘の名前も、父はわからなくなっていました。
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