第3話
数日の間に起こったことはよく覚えていません。父は投げやりになり、明るい口調でとんでもないことを述べます。
「私たちに心配させてくれたっていいじゃないの!」
爆発しました。この頃だったかも定かでないのですが、母に向かって不吉なことを語る父の声が二階の自室に聞こえて、抑えきれず階段を駆け下りて怒鳴りました。
姉は自分の人脈も用いながら治験の情報や検査の可能性を地方病院含めて探っていました。その分野に関連の深い母も一緒に。
私には飛び出す専門用語もよく分からず見ているしかない。
「私は何かできないの」
母に問いました。
「桜はいつも通り、人の心の内を読んであげればいい」
表に出ないことを、という意味でしょう。私が叫んでぶちまけた後のことでした。
最も気丈だったのは父でした。
家族に対して激することのなかった彼は朗らかなままでした。いくら調べてもプラスの情報はない。それなのにほぼ常に笑っていました。
すまなそうな色が混じるのを見るのが辛かった。
その頃の私は、留学準備の真っ只中でした。
発病が分かる直前の晩秋、欧州に渡航して将来の指導教授となる先生と面会をし、指導許可を頂いたばかり。ただでさえ煩雑を極める通常の留学準備に加え、大学の制度ゆえに自ら英語で追加書類を大量に作成せねばならない状況でした。並行して奨学生試験のための準備。昼夜、留学準備作業に明け暮れていた頃です。
父のこの先は——でもその時期は、現在の医学的知見ではわからない。当然、次の問題が浮上します。
「ねえ、留学準備どうしよう」
「それは、するのよ」
母は強く言いました。理由の一つは——私の留学は秋。父はそこまで——。
遠方の病院まで連絡を取って調べましたが朗報は無かった。そして難病認定となってもケアを受けられるまでには幾つもの手続きが要され、必要な物資、人材、補助金が手に入るまでには時間がかかりそうでした。
しかし父が要介護になるのは明らかで、その前にも、体が元気であれど脳障害が出たら側に誰かついてあげなくては。
ただし私たち家族は父の病気について、最小限の例外を除き、親戚を含めて家の外には伝えませんでした。遺伝性などの心配はないのに偏見が生まれないように、という父の意向もあり、平常を装いました。
外では普通の生活を。姉は超激務、母は職場で重役、もとより時間のない人間です。最も時間に融通の効く人間は、大学院生で、しかも文系の私でした。
母は「本当に身動きが取れなくなる前に留学を」という主旨のことも言っていた気がします。ともかくも「もし」を抱えて私は留学準備を続けていました。
父にはまだ大きな変化がありませんでした。不確かさと予測される負担だけが目の前にありました。
一月半ばのことでした。
机に向かう私のところに母が来ました。この気の強い人には珍しい、気弱な微笑みを湛えて言いました。
「桜、来週から一週間、ヨーロッパに行っておいで」
それを聞いた途端、私の中でえも言われる何物かが破れて溢れて、息も苦しくなって、抑えようとも抑えられず、眼から水が溢れてきました。
母の言葉はすなわち、「留学を諦めろ」でした。
私が大学に入ったのは、学問をするためでした。私にとって大学という高等教育機関に入るとは、専門的学問の門を叩くということ。それなら院に行く。院に行って専門的能力を習得しないのであれば大学受験をせず、専門学校に行く。それが極端な私が考えた大学進学理由でした。
学部時代から院進学を目指して課外勉強をし、バイトで留学資金を貯め、卒業旅行で就職組の友人たちがこの機会だし贅沢を、と奮発する横で節約し、彼らがカフェを楽しむ際にはそのお金と時間を資料購入に充てさせてもらいました(理解あるいい友人たちです)。修士課程時はドイツの語学学校に長期休暇を使って通い、博士課程入学後は先述の通り、ひたすらに留学へ向けて進んでいました。
文学科の他専攻の先生の力を借りて何度も研究計画書等の文書をドイツ語で書き直し、やっと、やっと手に入れた教授からの留学切符。そして現在進行形で進めていた膨大な数の書類。
それらは全て、無駄になる。
そして同時に襲いかかる将来への不安に、目の前が真っ暗になったようでした。もうキャリアの終盤にいる母と、専門職へつきその道を進み始めた姉は、経済的にも職業的にも安定した道がある。反面、私は修士を出て就職したわけでもなく博士課程まで来てしまった。
日本にいたって博士論文は書けます。しかし少なくとも私の周りで、自己の専門は当時、留学は半ば当たり前のように見えました。
さらに私の研究課題は膨大な数の現地資料がどうしても必要で、現地滞在なしに遂行は無理に思えた。
博士課程を中退するのか。
博士課程中退、しかも文系でなんて実に中途半端に思えた。一体どんなキャリアがあるのか。
いまでこそ、しかもコロナも経たいまならば、可能性はあると思えます。細かい研究計画作成後で難しく感じても、テーマを別に捻出するとか方法はあります。しかし当時の未熟で偏狭な私の思考では、未来が閉ざされたような衝撃でした。
その一方で、こんなことを思った自分に対するとてつもない衝撃。
大事な父のこの状況で、なぜ自分のことを考えるのか。なぜ人の命が、という時に、愚かしく自分のことを考えるのか。
いまはお前のことなどどうでもいいだろう。
母の言葉に答えを発せられなかった。
家にいた父が私の部屋に来ました。
固まった私の顔を見て異変に気づいたのでしょう。どうしたのか、と問いました。何でもないという私に重ねて父は問いました。桜はこの後、どうするのか言ってみろ、と。
なぜ、きっぱり言えなかったのか。喉の奥から絞り出しました。「日本に残る」と。父の介護につきそう、という意味で。
「違うだろ」
父の言葉は強かった。
「桜はヨーロッパに行くんだろう。行って研究をするんだろう」
私が自ら父の言葉の内容を繰り返すよう促されました。向こうの教授の名を言い、その元で博士論文を書くのだと、そう言うように。
嗚咽でなかなか言葉が出ません。言ってはいけない文言です。涙が出て、声はちゃんとしてくれない。
どうしたんだと疑問を浮かべ途方に暮れる父と、喉を詰まらせる私とを見かねて、母が「違うの」と言葉を挟みました。自分が止めるよう言ったのだ、と。
「馬鹿だなあ。何を言っているんだ母さんは」
怒り顔を見せず憤慨を口にした父は、行け、と。「その代わり、何かあったら帰って来てくれるだろう」と、いつもと同じに笑って。
叶わなかったけれど、父も昔、留学したかったらしいと後から母に聞きました。
母は私に留まって欲しかった。すぐ後で「父さんのせいにしないで自分で決めなさい」と。
いざとなったら出発しないとして、私は準備を進めました。家族との約束通り、向こうの教授や現地滞在経験のある日本の教授には事情を言わず、御二方に奨学生の推薦書を貰い、書類審査と日独両言語での面接試験を受けました。面接は、極限の緊張状態の私に日本駐在大使手ずから紅茶を注いでくれる和やかなものでした。
奨学生試験の合格通知がありました。
「あの子は自分で
母が姉に言うのが聞こえました。
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