第一話 『スタンド・バイ・ミー』 その2/雪の記憶はさみしくて


 それは、とある家族を乗せた馬車。街道から斜面に向かって飛び出してしまったのだ。見事にひっくり返り、車輪はひとつだけしか残っていない。


 事故が起きたのは深夜だ。つまり、それはよくある貧しい農民の『夜逃げ』だった。新たな人生を求め、村の見張り番が居眠りしたすきをつき、一家そろって旅立ったらしい。「ドジな連中だ」。男爵はあわれみと悲しみと、「どうせ逃げるなら、上手くやらんか」。失敗に対しての怒りで、鼻息を荒くした。


 見つかったときには、全員が手遅れだった。


 積もった雪のあいだから、死んだ馬の脚が悲し気に天に伸びていた。そのすぐとなりに悲劇がある。くだけ散った家財道具といっしょに、父親と母親、三人の子供たちも雪の下だ。


 朝。すっかりと雪に埋まっていた彼らを、村人たちはスコップで掘り返していく。村から逃げ出して、あたたかな南へと向かったはずの彼らの旅は、一キロメートル足らずで冷たく終わっている。その下り坂のカーブは、もともと事故が多かったのに。


 夜逃げは重罪だった。


 ほとんどの領主が自分の所有する民が逃げ出すことに、大きな怒りと不満と、罰で応じる。「慈悲の足らないケチ野郎だ!」と罵倒された気持ちになるからだ。


 領主の罰を恐れるあまり判断力を失っていたのか、あるいは希望の見せた幻が魅力的すぎて、理性を忘れさせたのか。


 いずれにしても馬車はスピードを出しすぎたらしい。凍てついたカーブを曲がり切れずに、全員が固く凍った斜面に投げ出される。いきおいよく。すべてが壊れていった。


 悲しい事故だ。


 ケチで意地悪だとウワサされることに、なれてしまっている男爵閣下も、思わず許すほどの悲惨さだった。老男爵は自分の荷馬車を、死者たちの輸送のために提供したのだ。「祈ってやれ。領民ども」。彼も敬虔な祈りを捧げた。


 多くの者が彼らのために集まり、少女も祈りを捧げている。その祈りが呼んだ静寂を破ったのは、あまりに無邪気で楽しそうな声。


「キレイ!」


 馬車と遺体を片付けるためにやってきた大人たちは、村に子供を置いておく気にはなれなかったらしい。どこかで子供が死んだと聞けば、どこの親でもそうする。そんなときに我が子から離れていたいなどと、誰が思うものか。


 連れてこられた幼い子供たちではあるが、この痛ましい作業に参加することもない。くわしい事情を教えてもらえないまま、溶けかけの雪で遊んでいた。棒でつついたり、ブーツの先で蹴飛ばしたり。いつもの雪の日のように、子供たちの冒険は開始されたのだ。


 もちろん遺体はすでに片づけられていたけれど、亡くなった者たちの流した血は残る。馬車の残骸がころがった斜面の雪を、すべて片づける方法なんてない。


 遺体が掘り起こされた場所は他よりくぼんでいた。そこに朝の陽ざしが差し込めば、ゆっくりと雪が融けていく。地面にこびりついていた血が、その水に浮かんで混じり合い、作業のせいでかき混ぜられたのだ。


 その結果として、ピンク色の水たまりが生まれた。雪の白と太陽のかがやきのおかげで、とてもあざやかに見える。


 それを見つけた幼い子供たちが、「バラの色をしていてキレイ」だと言いながら笑っただけ。誰も、注意するために相応しい言葉を口にできなかった。


 白い色は。


 どこか不吉なものだ。この寒い北方において、危険と死の象徴みたいなものだから。


 ……春のくせに葉っぱをつけることのないこの森の枝たちには、生命の気配が足りなさすぎる。白く枯れた木々だけじゃない。歌う小鳥もいなければ、雑草のひとつも生えていないし、気まぐれに飛び交うミツバチだっていないのだ。


 ここは白すぎて、あまりに空虚である。


 まだ無邪気な笑い声があってくれたあの日よりも、ずっと……。


 静かだ。


 静かで、静かすぎた。聞き取れる場所が広がりすぎて、会話がつきれば、耳がキーンと痛くなってしまうほどに。


 あまりにも場所が悪い。これでは理由なんてなくても、不安になる。何かに、頼りたくなる。信仰だとか、あるいは気の利く友人だとか……いや、もっと、誰でもいいかもしれない。とにかく、そばにいて欲しくなってしまう。


 だから。


 ひとつだけ、忠告しておくことにする。


 この沈黙が誤解をまねかないように。冷たい風のなか、そばにいてくれる者に告げた。




「あなたを信じたわけじゃないのよ、『英雄』さん。私は用心深いの」


「かまわない。あさはかな従者をもつ気はないんだ」


「従者、ね」


 英雄と呼ばれた少年は、しばらく考えて聞き返す。


「パートナーの方がいいか?」


 必要のない感情が、少女の心のなかで動いていた。良かった。背中を向けているままの体勢で、周囲を確認するふりができる。てれることはない。パートナー? 過大に考え過ぎる必要はない。


「ううん……従者で、いいかな。顔のいい男には、用心した方がいいもの」


「それでいい。さすがはオレの『姪』だ。賢いよ」


「はあ。たった一才しか違わないんだから。年上ぶらないように!」


「善処する。出会ったばかりでは、親戚の絆はなかった」


「その通り。なれなれしく、しないでね。ルスラエク家にいい思い出はひとつもないの」


「知っているよ。オレも同じだから」



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