第2話
学校に着いた。教室に向かう。忘れ物を取ってさっさと帰ろう。
ドアを開けると女の人。多分同じクラスの人。椅子に座っている。泣いている。
「え」
と、僕は言ったらしい。
名前は何と言ったかな。ええっと……お……。あ、思い出した。イツイだ。イツイさんだ。イツイさんか。
教室は赤い。椅子も机も。空気も。黒板ですら。で、多分また僕も。それならイツイもきっと。
どうしたの? という意味のことをどういう言い回しで言おうかためらっていると、
「ごめんなさいね」
と彼女は言った。
「何が?」
「存(い)て」
「……別に謝る事はな」
「『え』と言っておいて。わたしがいた瞬間に『え』、と言っておいて。ごめんなさいね。在(い)て」
え、と僕は言っただろうか? 言ったかも知れない。どうやら言ったらしい。え、と言ってはいけないのだろうか。え、には嫌だな、という思いが入っていただろうか。
僕は、黙って頬の裏を噛み、窓の方を眺める。夕焼け空にからすが、飛んでいる。
しばらくそうしているうちにイツイはいっそう激しく泣き出し、むせび泣きという感じだなあと僕は思い、でもどうしたらいいだろうと、惑う。どうしたの? という意味の事を言いたいがどういう言い回しで言ったら良いか難しい。
「どうしようか?」
と言ってみたら、
「何が?」
とイツイはこっちを見た。涙が顔に付いている。眉間に二本の縦筋。もの凄く感情的な顔つきに気おされそうになるが、眉間の縦筋については僕に向けられたものであるとしても、涙については僕とは全く関係なしに流されたものなのだから、その二つの相乗効果は差し引いて受け止めなければならない。
「いや……どうしようかなと思って」
「めんどくさいってこと?」
とイツイの唇は痙攣した。この唇の震えについて、これも僕に対する苛立ちが原因のように捉えそうになるが、違う。確かにある程度僕は彼女を苛立たせるような言動を取ったのかもしれないが唇を震わす程のことをしたかといえばしていない。実を言うと眉間の溝についても同じことが言え、結局彼女は僕には分からない、僕には全く無関係の何かに心を抓られているか、叩かれているか、僕は知らないからそんな抽象的な言い方になるが、とにかく感情的になっていて、僕はやつあたりをされていただけなのだ。真っ向からこの表情を受け止めるべきじゃない。と、頭では考えるが、どうしてもやはり自分がひどいことをしたような気にはなっていた。
「他には」
と僕は言う。
イツイの眉間に更に皺が寄って、他の可能性について考えている様子だ。が、やがて立ち上がり、今まで座っていた椅子を高々と掲げた。椅子で殴られるのかと思ったがそうではなく、そもそも僕とイツイは椅子で殴る・殴られるの関係にはなく、イツイは窓の方に歩いて行って、ガシャン、椅子を窓に投げつけた。ガラスは割れて、椅子も飛び出して行った。この教室は二階だから、もしも飛び出して行った椅子が下まで落ちてしまって、ちょうど落下地点に誰かがいたりしたら、大変なことにもなりかねなかったが、椅子はバルコニーというかベランダというかに転がった。イツイの肩までの髪の毛とスカートが何かに揺れた。揺れている、と思う間もなく、同じものが僕の両耳にも感じられた。風だ。それはイツイの割った窓から吹き込んで、僕が開けっ放しにしていた廊下側の戸へと吹き抜けて、そして、吹き通って、そして、その先はどうなのか知らない。
あまりに急なことで実は戸惑っていたが、僕は特に戸惑っていないことにして、意見を求める目つきのイツイを逆に見つめ返す。
僕が何も言わないこと、言えないのではなく言わないことが分かると、イツイは後ろを向いて、今自分が割った風穴から上半身を乗り出した。左手で体を支えて右手を伸ばし、転がっている椅子の足を掴んで持ち上げ、自分の机の所に戻す。割れたガラスに傷つかないように、一連の動作はおよびごしで、慎重だった。
「ヅレノ君の席はどれ」
「何で?」
「どれだっけ?」
「教えない。教えたら、僕の椅子を今度は投げるんだろ」
「この辺だったのは覚えてる」
と、イツイは廊下側の真ん中辺りをうろつく。確かに僕の席はその辺なので少し焦る。
「それはどうかな」
と不敵を装う。
「これだっけ?」
「違う」
正にそれは僕の席だったが。
「これ?」
と今度は一つ前、メジツの席をイツイは指差す。
僕は何も言わなかった。逆にそれが正解だから無言なのだという風を装った。
が、そんな策略にイツイは引っかからない。手当たり次第、そのエリアの椅子を窓に向けて投げつけ始めた。強引なやり方だと思う。
ウジツの椅子が投げられ、セウムの椅子が投げられ、窓が一枚ずつ割られて行く。メジツの椅子、シテルの椅子、もう大半の窓が割れて吹き込んで来る風の量が増す、何がしたい。風か。涙が乾くだけの風が必要か。そんなことなら外に立てばいい。いくらでも風なんか吹いている。なんだ、イツイよ、いったい何がしたいんだ、どうしてもここに風を求める必要なんかないんだ、
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