鉄槌

天丘照印

第1話

 つい最近までご飯のときは牛乳か麦茶を飲んでいたが、このところ熱いお茶も飲み始めた。





 部屋に植物でも置いてみたくなって、町の花屋でアロエを買って窓辺に置いた。ベランダに続く窓の足もとに置いた。床に。水をやると下から漏れてじゅうたんが汚れた。大き目の皿を持って来てその上に鉢を置くと今度は大丈夫だった。

 夕方になると夕日が射して、アロエのとげとげの影が鋭く落ちた。ふとんに座ってそれを見ていた。敷きっぱなしの。

 窓がオレンジ色。空と雲。透明なガラスはオレンジ色に透明な空を透き通してなお透明。

 僕もオレンジ色になっているのだろうか。

 手ごろなところで手を見てみた。おお、オレンジ色だ。

 顔を見るには鏡が必要で、それは少しめんどくさい。手で十分だ。でも夕日が顔を照らすのを感じるから顔もオレンジ色に違いない。

 オレンジ色の部屋の中で僕もオレンジ色になっていて、なるべく動かないようにしている。なじんでいる。静かに吸い、吐く。アロエを見つめている。

 アロエもじっとしている。こっちを見つめ返さない。じっとそこにいる。なるべく動かないようにしている僕に見つめられてアロエは微動だにしない。何も恐れるものがない。見返す必要がない。

 なに?

 とでも思っていそうだ。

 ただ、見てるだけです……。

 と僕は微動する。

 ……。

 いやきっと、なに? とすら思っていない。

 



 砂利道を歩く音が聞こえて、トイウの音だと思う。トイウと話したいので窓を開ける。ガラガラと音がしてトイウもこちらに気がついた。

「おお、ヅレノ」

 とトイウが言って、僕が、

「おお、トイウ」と言う。

「ちょっと見ててくれよ。今からだから」

 そう言ってトイウは左の方へ走っていく。

 背中には羽みたいなものがくくりつけられている。みたいなものではなく、羽、だ。なにしろトイウはそれで空を飛ぼうとしているのだから明らかに羽だ。

 トイウはいつものところに行き着いた。それは崖で結構高くて下は湖。

「行くよ」

「うん」 

 トイウは助走して思いっきり踏み切って頭から湖に突っ込んだ。

 僕は窓からそれを見ていた。視覚の問題で水面は見えない。ぼちゃんという音で想像する。

 湖に落ちたということは飛べなかったので失敗だ。

 その後の様子も見えないから、

 今頃彼は髪の毛をおでこに張り付かせて、ぶざまな格好で岸に上がる頃かな、という部分も想像するしかない。

 多分彼はこのまま家に帰るのだろうと思う。びしょびしょのままとぼとぼと。そしてその道も僕の窓からは見ることができない。だからさよならとかは言えない。

 いつもそうだ。

 二年くらい彼は飛ぼうとしている。一度も成功していない。二年間ずっと丘を登ってこの崖まで来て、湖に飛び込んで帰っていく。僕から見えないまま帰ってしまうので、さよならもじゃあねもまたねも言えない。尻切れトンボの感じがする。

 きっと二、三日したらまた僕の家の前の砂利道を通って挑戦しに来るだろう。僕が窓を開ければ二言三言交わす。開けなければ勝手に飛び込んで帰っていく。

 彼がなぜ飛びたいのか知らない。

 飛行機じゃだめなのと聞いたら、飛行機じゃだめだとトイウは答えた。

 五分くらいトイウが飛んだ崖の方を見ていた。どうせ見えないのだとしても、彼が湖に落ちてすぐに窓を閉めて自分の用事を始めるのはそっけない。何か余韻がないかと僕はその方向を見ている。ある筈だ、何かある筈だと。

 じゃあトイウの方ではしばらく崖の下で、僕のことを気にしているのだろうか。それとも彼は、僕に「見ててくれよ」と言ったことも忘れて、すたすた帰ってしまっているのだろうか。そのことを確かめ合う日は多分来ないだろう。

 窓を閉め、アロエをちらと見る。相変わらずとげとげだ。完全無欠にとげとげだ。影もとげとげ。

 



 さてこれから何をしよう。

 何もすることがない。

 考えて、思い出した、学校に忘れ物をしたのだ。何を忘れているのかは知らない。とにかく忘れている。完全無欠に忘れている。

 トイレで用を足し、学校に向かう。

 僕は丘の上に住んでいる。

 学校は丘の下にあるので行く時は下り、帰る時は上る。五百メートル程か。

 家を出て、学校とは反対の方向に五十メートルの所にトイウの崖がある。

 今は、学校に向かう。

 片頬が赤くなっている。夕日が横から射している。

 幼い時、下り坂で思いっきり走ってみるとどうなるのだろうと思いやってみた。自分の足やら、腕やら、そういったものがどこまで動きに耐えられるかとか、耐えられずどうにかなってしまうのかとか、そういう意味で、どうなるのだろうと思っていたのではなく、自分が下り坂を思いっきり走ることで、世界にどのような変化が起こるのか、という意味でどうなるのだろうと思っていた。結果的には、世界には何の変化もなく、あるいは、世界が変化する前に僕がこの実験を断念したというのがふさわしいのかも知れないが、とにかく怖くなってやめようと思っても止まらなくなってしまい、主に両耳にごうごうと速度を感じながら、心からごめんなさいと言った。十回以上謝りながら結局一番下まで行ってやっと止まり、両膝に手を置いて肩で息をしている僕に、それまで存在を認識していなかったおばさんが元気ね、と笑った。その時も夕日が横から射していた。

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