第2話 中年ゆえの腰の重さ


 帰り道を進むうちに、高まった気持ちが萎んでいった。

 チャリで旅に出る? アホらしい。住んでいるアパートに着くと、私はリビングのソファに寝転がった。そのまま、ダラダラと過ごす。ちなみに部屋は二LDKだ。一人暮らしの男にとっては少し広い。

 寝転んだまま、スマホをいじり続ける。ただ、頭の中ではケンコーの言葉が反芻していた。

「昔のお主なら迷わんかったじゃろ?」

 何に対してか。もちろん、"自らの足跡を辿る旅"だ。

 正直に言うと「やってみようか」と考えたことはあった。こちらへ転勤して自転車での移動がメインになってからのことだ。自分の出身地、さらに慣れ親しんだスピナッチへ行ってみてはどうか。状況も、移動手段も揃っている。

 だが、すっかり仕事人間になっていた私は"大いなる無駄"に楽しみを見出せなかった。何が悲しくて、中年の男がわざわざそんなことをやるのか。

 旅に出なかったとして、ケンコーはどう思うだろうか。呆れられるだろうか。それとも、あれは冗談だった、と流してくれるか。

 馬鹿らしい、と思った。あの老人のために行動してどうするのだ。逆にケンコーに言われたからやる、というのはよろしくない。自分がやりたいのかどうかだ。

 とはいえ、私の心は葛藤していた。その証拠に視線はスマホの画面に向いていても、意識は昔の光景や思い出に埋没していた。

 もっとも、二十年前のことなどほとんど思い出せない。ただ、今と比べたらわけもなく明るかったし、将来も楽観的に捉えていた。何より、自分の好きなもの、興味があるものが明確で、情熱を注ぐことが出来た。

 あの頃、遠方にあるレンタル店まで、何故通い続けられたのか。それは道を辿ったとしても分からないだろうな、と思った。他にするべきことがなかったのだろうか。

 結局、思索に耽って昼過ぎになった。再び出かけるのは億劫と思いつつ、重い腰をあげる。そもそもコンビニに寄ったのは昼食を買うためでもあったのに、老人と遭遇して忘れてしまったのだった。

 遅い昼食は家から自転車で五分ほどのファーストフード店ですませた。

 今ではポテトの油が気になる年代になってしまったが、若い頃からこのチェーン店はよく利用していた。

 平日の昼間だというのに、テーブル席には何故か制服を着た男の子たちがにぎやかにしていた。私もあんな風だったな、と思う。

 そういえば、私があのぐらい頃には価格破壊があった。今では考えられないが、ハンバーガーが百円以下で買えたのだ。

 とにかく、どこの店も先を争うかのように積極的に値下げをしていた。あれは何だったのだろうか。

 

 若さ、ということを思い続けたからだろうか。帰宅した私は、お気に入りのDVDを再生していた。「狂い咲きサンダーロード」というタイトルの映画だ。

 暴走族を描いた作品だが、暴走族ですら変化からは逃れられない、という話だ。

 外圧によって周りが変化していき、主人公の周辺もそれからは免れられなかった。が、主人公だけは変化を嫌って反抗する。そして、大きな代償を支払うことになる、というストーリーだ。

 改めて見ると、周りを顧みずに暴れる主人公は「無敵の人」に見える。同時に、「成長することが正しいのか?」という、アンチテーゼを内包した人物にも見える。

 人は誰でも変わっていく。むしろ、変化しないでいる方が難しい。成長とは、変化とは一体何なのか。

 ふと、初めてこの作品を見た時はどう思ったのだろう、と考えた。

 興奮したことは覚えている。たしかビデオを返しに行く前にもう一度見たのではないか──。

 そこで気付いた。

 そうだ。この作品はスピナッチで借りて、初めて見たのだ。その後も見る機会はあったと思うが、他のレンタル店などではあまり見かけないこともあって、思い切ってDVDを購入したのだった。

 私は書斎にしている部屋へ移動した。窓際にパソコンデスクを置き、その両脇に棚を二つ置いていた。収納しているのは書籍、CD、DVD等だ。

 厳選しているとはいえDVDが多く、二百枚ぐらいはあるだろう。

 リビングにも小さい棚はあるが、景観を損ねるので大きな棚はこの書斎に設置していた。なので、映画を見ようとすると居間から書斎への移動が起こる。これが中々面倒くさい。

 私はDVDの棚に歩み寄った。そこには当然のように、私のお気に入りの作品が並んでいる。それらを初めて見たのはどこでだっただろうかと思いを馳せると、スピナッチでのレンタルがそうだった、という作品が幾つもあった。

 今敏の「パーフェクト・ブルー」もそうだし、雨宮慶太の「ゼイラム」もそうだった。ロメロの「ゾンビ」も、デ・パルマの「ミッドナイトクロス」もだ。

 じんわりとした喜びが胸に広がっていくのが分かった。私とスピナッチとの繋がりが、未だにあることを確かめられたからだ。

 流石に初見がスピナッチでのレンタルだった作品全てを見返すことは出来ない。が、ジャケットを見ながら内容を思い返したり、気に入った劇中のシーンを想起したりした。まるで、レンタル店で作品を選んでいる時のようだ。

 そのうち、CD棚の方にも目がいった。スピナッチではCDも取り扱っていたので、私ももちろんレンタルしていた。レンタルしたCDをMDに録音して、プレイヤーで聴いていた。

 MDというのは当時の記録媒体のことだ。ミニディスクの略で、掌に収まるサイズのものだった。

 ところがその後は容量の多いMP3が主流となり、MDは廃れてしまった。

 高校時代、音源を大量に録音したMDは再生できるものがなくなって処分してしまった。

 その当時、MDでよく聴いていたアーティストのアルバムなどは、社会人になってからCDを買い直したりしていた。だが、仕事に忙殺されそれらをちゃんと聞き返すことは出来ていなかった。

 私はラックの中の一枚を抜き取り、デスクへ向かった。PCを立ち上げてから、CDを挿入する。

 初めの一音で、若い時の感情が蘇ったような気がした。

 挿入したCDはアジアンカンフージェネレーションの「ソルファ」。流れているのは一曲目の「振動覚」。始まりにふさわしい、疾走感のあるナンバーだ。

 初期衝動を叩き付けたような曲だからか、聴いているこちらも否応なくテンションが上がる。

 そのまま数曲が流れ続け、私は居ても立ってもいられなくなってきた。

 気付くと日は暮れて、部屋は真っ暗になっていた。私はその中を右往左往する。

 子供に戻ったような気分だった。したいことがあるはずのに、自分でもそれが何か分からない。

 そして、私はあるものを見つけた。棚の上にある、小さく白い箱。私は背伸びをして、それを取り出す。ホコリをかぶっているが、それほど古びていない。

 CDウォークマンだった。今時、買う人間も使う人間も希少だろう。

 五年ほど前にも聴けていないCD群とどう向き合うべきか、迷っていた。そんな時、電気店でこのウォークマンを見つけた。これがあれば直にCDが聴ける。そこまで値段も高くないと思い、深く考えずに私はレジに持って行ってしまった。

 その帰りに、よく考えると「CDを再生するならDVDプレイヤーで充分じゃないか」という致命的なことに気付いた。そのショックで塞ぎ込み、このウォークマンはほとんど使われることなく、私の棚の上で箱に収まったままだった。

 私はウォークマンを箱から取り出した。水色の機械はCDの形に合わせ、綺麗な円形をしていた。

 本来なら充電する必要があるが、付属の黒い円筒形のパーツを付けると、単三電池が使えるようになる。電池を探して入れてみると、動作音がしたので私は安堵した。

 PCからアジカンのCDを抜き取り、ウォークマンに入れる。中央のスピンドルにしっかり押し込まないと、ディスクがはまらない。もどかしくも、懐かしい感覚だった。

 寝室へ移動し、少し早いかなと思ったが、クローゼットから取り出したカーキ色のMA-1ブルゾンを羽織った。ポケットが大きいので、かさばるウォークマンも入った。

 イヤホンを耳に押し込み、さらに鍵と財布を持って私は外に出た。外気は確かに冷たいが厚着するほどではなく、何を着ていくか悩むような気温だった。

 行き先は特に決めずにそのまま歩き続けた。好きな音楽にに身を浸すのが目的なのだ。私は歩きながら、時々リモコンをいじった。特に好きな曲はリピートして何度も聴いてみたり、落ち着きのない子供のようにウォークマンを使った。

 音に浸るうち、昔見た風景がおぼろげながら、蘇ってきた。

 延々と続く田んぼの中に浮かぶように立つする校舎。晴れの日には西に富士山の勇猛な姿のある通学路。いつ潰れてもおかしくないぐらいボロい個人経営の書店。割安の料金で見れるスクリーンの汚い映画館。もう、思い出の中にしかないものばかりだ。

 そういえば、昔もこんな風に散歩しながら曲を聞いた。というか、どこでも音楽を聞いていた。高校の昼休みも、移動中も、帰宅してからも、塾の前の待ち時間も、音楽は常に側にあった記憶がある。

 何時からそうでなくなったのだろう。多分使い込んだMDウォークマンが壊れてからだ。正月のお年玉で買った紺色のものだった。

 その後にも大容量のプレイヤーを買ったが、音楽に浸る機会はぐっと減った。書店よりも先にCDショップがバタバタ閉店していった影響もあるかもしれない。それは私が進学を機に上京し、スピナッチへ通うこともなくなった時期と一致する。

 大学生活は勉強に、バイトに、サークル活動にとそれなりに充実していた。だが、今考えると地元に色々置いてきてしまい、自分の内側が虚ろになっていることを自覚していたように思う。

 音楽をお供にした昔の夜の散歩は習慣のようなものだった。だが、今日のは発作のようなものだ。久しぶりに聞いた曲や、思い出に感化されてしまい、じっとしていられなくなったのだ。

 そしてもう、私自身は気付いていた。"自身の足跡を辿る旅"。それに出てしまいたくて堪らなくなっていることに。

 無駄に疲れるだけだということも、途中で心が折れそうになる場面もあるだろうことは想像はついた。だが、やるべきだと心が決まってしまった。

 多分、この機会にやらなければ一生やらないだろうし、一生それを引きずる、ということを予感していた。

「しんどいよなあ……」

 ぼやきつつ、私は笑った。

 とにかく腹は決まった。あとは準備をするだけだ。

 ちょうど公園にさしかかったところだった。ベンチに座り、スマホでサイクリングについて検索しようとしたところで、何とスマホを置いてきたことに気付いた。それだけ思い出と音楽に夢中だったらしい。

 まあ、いいかと私は思った。スマホなら帰宅してからでも触れる。今はじっくり思い出に浸ろう。

 音楽を聴きながら、思い出に浸りながら、私は歩を進めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る