飴細工の景色
桟橋を離れた後、楓月は港町を歩いた。レンガ造りの建物が点在している。遠くに目をやると、ちょうど跳ね橋が上がっていくところだった。人の流れが跳ね橋の手前で止まり、淀み始めている。
高校生の頃、同じクラスの海斗と、よく港町に遊びに来ては二人で海を眺めていた。
「いつ来ても最高だよな。楓月」
海斗への第一印象はあまり良くなかった。踏み込んで欲しくはない領域にズカズカと入り込んでくる海斗の無神経さが癇に障ったのだ。海斗は周囲の目を気にしない自由奔放なところがあった。しばらくの間は口を利く気にもなれなかったが、話をしてみると、僕らの価値観は共通していた。
「腹へったー。何か食べようぜ」
海斗は何かと言いながらも、必ず決まった店に向かった。とにかく手ごろな値段でお腹が満たされたら、それで良いようだった。
「じゃあ、僕は、あれにするよ」
「またクレープかよ」
「色んな種類があるから飽きないんだ。全種類制覇しようかと思ってさ」
一度食べた物には興味が湧かない。僕は食欲より好奇心の方が勝っている。
「よう分からんな」
海斗は目尻に皺を寄せて笑った。笑顔が板についている。僕は海斗のように自然に笑うことはできない。
僕らは近くのベンチに腰掛けた。背もたれにペンギンの絵が描かれている。掻き込むように食べる海斗をよそに、僕は正面にある跳ね橋を眺めながら、時間を掛けてゆっくりと味わった。束の間の幸せなひと時だ。
「最近さ、猿回し多くないか」
遠くからカップルや家族連れの笑う声が聞こえてくる。いつ来ても賑やかな街だ。
「若い人のなり手が増えたからじゃないの?」
「あれを見てるとさ、俺も触発されるんだよな。何かやらなきゃいけないって。学校を卒業したら、俺も行動に移そうかと思ってんだ」
「海斗は大学には行かないの?」
「行かない。行く理由なんかねえし。自分のやりたいことをやらない人生なんてさ。そんなの、つまらないだろ。楓月はどうするんだ?」
「僕は取り敢えず行っとくよ」
「そうか。俺と違って頭良いもんな」
線が引かれているわけでもないのに、観客と猿との間は、どこも一定の距離が保たれている。猿が芸を披露する度に歓声が上がり、そして拍手が沸き起こった。温かみのある歓声が辺りを包み込んでいく。だけど僕の心は満たされることはない。所詮は他人から与えられた偽物の充足感だ。僕は観客を楽しませている当事者でもなければ、観客でもない。あの集団の外側にいる何もない人間だ。この先何がやりたいのか、自分でも分かっていない。
高校を卒業して、海斗は直ぐに街を出て行った。それに比べ、僕は一体、ここで何をしているというのか。同じ場所に留まったまま一歩も外に出ていない。
大学時代は殆ど思い出せないほど、自分の身に何も起きなかった。自由に過ごせると思っていた社会人生活も同様だ。想像以上につまらない。
人格を無視して接してくる上司や同僚たちとのせめぎ合いの中で、少しずつ心が疲弊していった。僕には、同僚たちが何の為に生きているのか、そして誰の為に生きているのか、全く理解することができなかった。
「黙って従っていれば良いんだよ。余計なことを考えずにさ」
同僚たちの言葉が頭の中を駆け巡る。まるで口裏を合わせたかのように、全員が同じことを口にした。おかしなことに自分の意思を断ち切って生きていても辛くはないようだった。これでは学生の頃と何も変わらない。だけど、あの頃はまだ未来への希望があった分だけ、まだ救いがあったように思える。学校さえ卒業すれば、あとは自由に生きていける。そう信じることで何とか自我を保つことができていた。しかし今は逃げ道が見つからない。
「無理をせずに、しばらく休養したらどうか」
掛かりつけの心療内科の医師にそう言われた。朝方まで眠ることができず、目が虚ろな状態が続いていたからだろう。当時の僕は世間と繋がっていたとは言え、明らかに隔絶された世界にいた。あのまま会社に通い続けていたら、僕は壊れていたはずだ。僕はあの箱の中で過ごすことはできない。
陰鬱な気持ちを振り払うように、人混みを掻き分けていった。この道を通るのが駐輪場への一番の近道だ。しかし、どうも気が乗らない。
夏で日は長く、夕暮れ時でもイベントが行われている。至る所からカップルや家族連れの拍手喝采が聞こえる。耳に飛び込んでくる耳障りな音を遮断する為、イヤホンを付けて音楽を鳴らした。
カンカンカンカン……
踏切の手前で立ち止まり、駅のホームに目を遣った。艶やかな浴衣姿をした女性たちが、乗客に笑顔を振り撒いている。この港町を盛り上げようとしているボランティアの人たちだ。しばらく廃線だった線路が使われるようになって以降、益々、街は活気づいている。
歓声と共にトロッコ列車が走り去って行く。僕とあの人たちとの間には大きな隔たりがある。僕は向こう側には行けない人間だ。一抹の寂しさを抱えながら、足早に駐輪場へと向かった。
駐輪場では、直ぐに自分の自転車を見つけることができた。一目見て気に入った若葉色の自転車だ。大量生産されたような有り触れた物は好きにはなれない。
自転車を駐輪場から出している時、小型の白い船が跳ね橋に向かって来ているのが見えた。急いで自転車に跨ってペダルを踏み込む。跳ね橋が上がる前に橋を渡らなければならない。
ぐんぐんと自転車の速度を上げていき、跳ね橋を一気に駆け抜けた。人が瞬く間に小さくなっていく。ホッと一息つく安堵感と開放感を覚える瞬間だ。人が離れて行くのと、自らの意志で離れて行くのとでは大きく異なる。
趣のある建物の間をすり抜けていく。この辺りは明治・大正時代の古びたビルが建ち並んでおり、建物の中には週末だけオープンする雑貨店や様々な国旗を掲げた飲食店が入っている。新旧入り混じった異国情緒の溢れる街だ。
目の前の景色が目まぐるしく映り変わっていく。少し先までは原型を留めていたはずの景色が、飴細工のように、ぐにゃりと形を変えて後方へ流れて行った。溶けて行く景色を眺めていると、目に映る景色は単なる影像であり、最初からそこに何も存在しなかったのではないかとさえ思えてくる。
イタリア料理店の前に差し掛かった時、視線を右に移した。ビルの隙間から見えた海を目に焼き付けて、再び前方へ視線を戻す。夕日が沈みかけ、海に暗い影を落としていた。この付近にまで来ると店の数は疎らになり、人の数も少なくなる。早く家に帰らなければ。自転車の速度を上げていく。この先は上り坂だ。
頂上に差し掛かった時、携帯電話を手にしたスーツ姿の男を目にした。この男は道の真ん中で一体、何をしているのだろうか。男を横目に捉えながら、左へ旋回し、今度は下り坂へと入って行った。
加速度的に自転車の速度が増していく。景色が流れていく中、一か所だけ何かが動いていることに気付いた。二階の窓から身を乗り出した女性が、こちらに向けて手を振り、何か叫んでいる。僕は斜め上にいる女性を注視した。
「うわ!」
驚きのあまり、身体が一瞬で硬直した。眼前に車が迫っている。
──衝突する!
急ブレーキを掛けて減速を試みるが、スピードに乗った自転車は簡単には止まってくれない。甲高いブレーキ音が辺りに響き渡る。楓月は咄嗟にハンドルを左に切って、衝突を避けた。車の側面を自転車が滑るようにすり抜けていく。自転車は縁石に乗り上げた後、そのまま壁に激突した。
ガシャン!
身体を壁に打ち付けると、そのまま石畳に自転車ごと倒れ込んだ。全身を激痛が駆け巡る。
──誰がこんなことを……
僕を轢こうとした車は何事もなかったかのように、坂の上に向かって行った。激痛の中、まるで映画のワンシーンのようだと、走り去っていく車の後ろ姿を平坦な心で眺め続けた。
この状況でも何の感情も湧き起こらないなんて……。本当に僕は生きているのだろうか。
辺りは静さに包まれ、車輪の空回りする音だけが虚しく聞こえている。
痛みで立ち上がることができず、座ったまま壁に寄り掛かっていると、誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
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