高台からの眺め
潮の香りが鼻孔をくすぐる。遠くに見える桟橋の先端にカモメが飛び交い、その直ぐ下で猫たちが寛いでいる。楓月は画材道具が入ったバッグを肩に掛けて、桟橋へと向かった。桟橋は港町から少し離れた場所にある。
夕日を見る度に思い出す。幼かった頃の記憶……。よく父と二人で夕日を眺めていた。
今日は父の命日。光が失われた日だ。
係留している数艘の漁船が波に逆らうことなく静かに揺れ、オレンジ色の淡い光を放っている。まるで夕日が漁船の一日を労い、明日を駆け抜けていくためのエネルギーを注ぎ込んでいるかのようだ。焦る必要はない。ゆっくりと動き出して行けば良い。そう自分に言い聞かせて、目に映る光景をそのままキャンバスへ写し取っていった。
◇
「ピーヒョロロー」
上空から甲高い声が聞こえる。
咲良は芝生に寝転んだまま、大きく羽を広げて優雅に空を旋回する鳶を、しばらく眺めた。見上げる空はどこまでも青い。
立ち上がって、服に付いた土埃や芝生のかけらを払い落とした。柔らかくて、さらりとした肌触りの生地の中に、チクチクした芝生の感触がする。
咲良は海の匂いに誘われるように歩いて行き、ベンチの上に勢いよく飛び乗った。
空の色に呼応するように海が青く澄み渡っている。雲や潮の流れは、とても緩やかであり、風で揺らぐ水面は光を乱反射している。海のキャンバスに皺をつけるように進んでいく小さな船たち……。この景色は誰かが描いた絵なのかもしれない。
咲良は空を見上げて、身体を包み込んでいる空の色を身体の中に取り込むように、両手を目一杯に広げた。海と草花の匂いが入り混じった空気が肺の隅々に行き渡って来る。
「うわっ!」
咲良はとっさに目を閉じ、顔を背けた。突如として吹き上がってきた暖かな風に、肩まで伸びた黒髪が砂埃と一緒に舞い上がる。そのまま風が吹き終わるのを待ってから、閉じた目をゆっくりと開けた。風に倒された草花が一様に同じ方向に首を傾げている。
このまま時間が止まってくれたら良いのに……。このひと時だけは、全てを忘れさせてくれる。咲良はベンチに腰掛けて景色を眺め続けた。
暖かな陽射しの中、咲良の瞼が次第に閉じられていった。
「ボー、ボー」
汽笛の音に、はっとして咲良は目を開けた。時々、クジラの鳴き声のような低い音が辺りにこだまする。
咲良は眠い目を擦りながら前方を見つめた。少しずつ焦点が合っていく。
瞼に映る絶景に思わず溜息が漏れた。丸みを帯びたオレンジ色の太陽が今まさに沈み込もうとしている瞬間だ。何度見ても飽きることはない。
ゆっくりと沈んでいく太陽を眺めている時、視界の端で景色の一部が動いた。高台の下方にある桟橋で絵を描いている男がいる。何度も訪れているのだ。その男の存在くらいは知っている。それに、この町を訪れたのは、この男に会う為でもある。気になったのは、男の背後にいる人物だ。
中年の女性が仔犬を連れて立っている。絵を見ようとしているのかもしれない。しかし、その姿は上から見ている咲良には少々奇妙な動きに見えた。
──あっ、何か転がった。
潮風に吹かれた小さな物体が男の足元から離れ、コロコロと転がっていった。小物は後方にいる中年女性の方に向かっている。咲良は女性が拾うものかと思って眺めていたが、女性は少しも気にする素振りを見せない。小物はそのまま女性の足元を通り過ぎていった。男はイーゼルを折りたたみ、帰り支度を始めている。転がった小物の存在には気づいていないようだ。
──急いで行けば間に合うかもしれない。彼に話しかけるきっかけにもなる。
咲良は階段を駆け降りた。階段は思いのほか段数が多く、次第に呼吸が荒くなっていった。周囲には樹々が立ち並んでおり、桟橋の方を見ても男の姿を確認することはできない。息が絶え絶えになりながら階段を駆け降りると、直ぐに男の姿を探した。
桟橋には誰もいない。数メートル先に先ほどの中年女性が立っているだけだ。咲良は女性の元に駆け寄った。
「あの、ここにいた人を知りません……」
中年の女性は咲良を無視して背を向けた。誰かと電話をしている。
「今から、そちらに向かいます。それでは計画通りということで」
そう言って、足早に去って行った。
──計画? 何のことだろう。
咲良は首を傾げた。
女性を訝しく思いながらも引き返して、小物を探した。壁に面した場所にそれはあった。後日、彼に手渡そう。あの人はいつもこの場所で絵を描いている。ここに来たら、また会えるはずだ。
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