6/14 懇願

 俄に死にたいと思うことが増えた。

 勿論、死にやしない。死にたいと私が思った理由は今この場所からうんともすんとも動けないということで、その解決策はもう既に知っている。

 書くことだ。

 呼吸をすることだ。そんなのはもうとっくに分かりきって躊躇うことすらくだらない。でもそれができないから私はこの場所で棒立ちになって困り果てて、しかし麻縄も探せずにいるのだ。

 かつての私は、文章を呼吸だと言った。なければ生きることが出来ないという意味にはない、生きている限り絶えず流れ続ける一束の旋律なのだと言っていた。だがしかしこのところ、その旋律は灰色の不協和音しか生み出さない。スランプと呼べば良いのだろうか、それとも盛りの終わりと呼べば良いのだろうか、私にはこれがどちらか見当もつかないが、この文章から透けて見えるように、今の私には光彩を放たぬ十月十日の間濡れたまま絵の具セットの奥に放置した浅黒い絵筆で描く程の世界しか写し取れない。かさついて束の分離した絵筆は歪に線を描き、幾ら洗ってもそのままの絵の具の色彩を映さずに暗く格式を落とす。

 潮時なのかもしれない、とは思わなくもなかった。幸いにして、この歳にして私にはもう既に盛りと呼べる時期があった。灰色の世界を土台に眩く輝く生命を強く描いた、描くことのできていた、あの時期だ。あの時は良くも悪くもまだ無知で、今読み返しても内容は荒削りの比ではない。だがしかし、あの頃の私は無知であったお陰で奔放に文士として物語の野を駆けることができていたし、烈しい光彩を持つ唯一無二でもあった。だがしかし私は時を経るにつれ、その光を喪った。かつてより私の脳味噌は遥かに多くの物事を学び、そして俗化して行った。美しいとは何たるか、良い文章とは何たるか。それに触れたが故に、私は自身の核を忘れ、心のどこかで世間評価の上での「良い文章」を書こうとするようになってしまったのだ。

 そんな私に、最早光はない。

 澱んでいる。醜い。嗚呼、救いようがない。

 ……かつての私が自身を唯一無二としたのも、それは無知故だったかもしれない。実際は似たようなことをする人間など、似たような文章を書く人間などごろごろ転がっている、と言われればそれまでだ。それでも、自分の中でだけでもそうで在れるのなら、私はきっと無知で良かった。無知蒙昧で何も知らず、箱庭の中で旋律を紡ぎ続けるだけの小鳥でよかった。きっとその方が、私には幸せだった。

 死のうかと考えている。

 現実の話ではない。私にはまだやり残したことがあって、固まった絵の具の残り滓のような才覚でも、私にはまだ、灰色でも呼吸ができている。だから私はまだきっと、辞められない。私は文章らしきものが紡げている限り、死ぬことはできない。けれど逃げてしまいたいのだ。信頼できるひとに託して、ぽんと逃げ出したい。何も追求させずにだ。あの俗世に染まった、電脳世界の私を殺してしまいたい。今の私には、まともな文章なんて書けやしない。誰かの評価を指標にした文章なんて私の文章じゃない。いや、そう言いながら、そう言うことで誰かに私が色褪せた責任を押し付けて、お前のせいだと圧死させてしまいたいのかもしれない。でも、そうだ。今の私はあの世界で、元来孤独であった癖に創作者という姿を一秒でも見せないでいて、爪弾きにされるのが怖くて「自分はまだ創作者だ」と言い訳をする為のその場凌ぎの創作をしている。元来私は私の為に小説を書いていて、それに救われるのは、一番の愛読者は私でなければならない筈なのに、私は他人に見せる為の創作をして、自身が色褪せたことを嘆いていた。私は違う種類の人間の為に創作ができない。誰かの為に書いた文章の為の才覚を発揮できない。だから私はきっと、この間色褪せ続けてきた。あの私をすっかり消して殺してしまえば、私はきっと自由になるだろう。それともそれは言い訳だっただけだろうか。もしそうであれば、私は私の筆を折らなければならないのかもしれない。しかしもしそうでないのだとすれば…………。

 私は反吐が出るほど独善的で、慈しむべきおろかなにんげんだろう。

 やはり私に孤独でないふりはできない。孤独から逃げようとする動作にはやはり、嘘が混じる。どうしようもない。死ぬべきかもしれない。それでも私は息をしていたい。

 だからどうか、ひとの姿をしていながらひとを慮ることのできない、繋がりを軽視して自己利益の一つだけを追い求めてやまない私を、許してやってくれないか。

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