?/? 新年
理想の、話をしよう。
誰に宛てるでも目的を持ったものでもない、ただ冬の寒さに充てられた、凍り付く指で辿々しく画面をなぞっただけの……うまく喩えられはしないが、それこそ、世迷言で、どの話より限りなく真実で、そうしてこの世今生にて、最も価値を持たない書き散らしだ。チラシの裏の方がまだ価値がある。そんな話だ。
新年明けまして、これで十四日になるだろうか。私は年が明けてはまず、死のうと思った。死のうと思った数は片手でも両手でも足りず、更には年が明けてから経った日数にも勝る。……いや、「死のうと思った」では私の言い分とは合わない。正しくは、「消えたいと思った」「無くなってしまいたいと思った」のどちらかで、ニュアンスとして最も近いのは、後者の「無くなってしまいたいと思った」だろう。蜜柑の皮をぐりんと剥き取って白皮と分厚い表皮の繋がりを無惨にも断ち切るように暖かい橙色の身を奪い上げて、まるで妊婦が嘔吐するように表皮から吐き出された身を、我々は半分に割って、一欠片一欠片ひょいひょいと口に入れて酸味と甘味の奇妙な間柄を持つその味に舌鼓を打ち、喉へ流し込んで行く。小腹が空いて蜜柑に手を伸ばしたそんな時は、間違いなく、小ちゃな蜜柑一つでは腹を満たせない。あっという間に実一つ無くなって、「あ、無くなった」
私はそれになりたいのだ。蜜柑を食べた時私は、無くなったことを惜しまない。何故なら蜜柑というものは基本的に一個きりを買ってくるものではなくて、赤いネットの中にぎしりと詰め込まれていたり、それがはたまた箱だったり、とにかく代替品、というより同じものがすぐ近くに詰め込まれているものだ。惜しいと思うより先に、次の蜜柑に手を伸ばして、また無くなって、次の蜜柑を剥く。そうなると最初の蜜柑の味なんてもう忘れている。その最初の蜜柑で在りたいのだ。「無くなった」と思われて、「無くなった」ことすら忘れられている。後になって脱皮した後の表皮がそこにあることに気付いて「そういえばそんなのもいた」と思っても、それ以上の感傷など湧き上がってこない。
しかしそれがいい、とは思うものの、どういう訳か、私は死ななかった。恐らく私の脳味噌が弾き出すところの「そうなる」為の最適解はどう考えても自死で、それ以外の選択肢を見出すことすら馬鹿らしいくらいそれが正解に決まっていたが、私にはそれが選べなかった。
新年明けて十四日。私は一度たりとも小説を書いてはいない。いや、馬鹿らしいくらいの乱文で正気でない小説家の話を書いたり既にぐちゃぐちゃに紙ごと(尚デジタルデータなのでこの表現は比喩である)文字を包められてごみ箱に打ち捨てられた話なら四つほどあったり、物理的な話をすれば、書いていないこともない。だがどうしようもなくそれらは空虚だった。小説の体を成していなかった。私でない、小説を書いた経験の浅い人間が書いた文であればそれは小説として受け入れられなくもないだろう、くらいの形は持っていたが、私が私の書いたものとして言わせれば何のメッセージ性も物語性も持たない、伝播の能力を持たない「ゴミクズ」だった。平時より言っている「産廃」と同じだ。「小説」だと、「物を書いた」のだと、そう言い切れる確かな達成感はそれらを吐き捨てた後には欠片たりとも残らなかった。ここが限界点なのか、と悲観してみたりもした。そうしたら、それが本当であれば、私は信じられないほど容易に死ねただろう。だが私は死ななかった。それは単に、呆れ返るほど明快に、私に限界点など訪れていなかったからだ。
一つの創作がある。
半端に一部を世に出した、毎度読み返しては舌鼓を打つような、間違いなく、私の眼鏡を通して見ても深く色付いた、傑作だ。そして私の眼鏡を通して捉えた傑作は反応から見ても大体世間的にも、私の狭い世間的にも傑作であることが多い。つまりはそういうことだ。私は今この腹に、一つの逸物を、傑作を抱えている。その為に私は死ねないのだ。何度死のう死のう死ぬ為の行動に出ようと思っても、影の中からその一つの創作に対する衝動が湧き出て来て、「死んでもいいからこれを書き終えて、遺し終えてからにしろ」と強大な力が乗り越えようとする柵から手を千切り離させて元の場所へ引き摺り戻す。他に生きる必要がある事象は存在しない。だが、「あの小説」は生きていないと「書けない」。その為に私は生きなければならず、死ぬことは叶わない。改めて、私にとって創作は酸素であった。死を恐るる気持ちはない。どこでどうやって死ぬかももう決めて、毎日そうしようかどうしようかと窓から庭を眺めた。私の死ぬ場所は、庭先の道路だ。私の家の庭は一階ではあるが駐輪場の上に設置されており、地上からは二階相当、それより少し高いくらいの上背がある。柵の向こう、すぐそこだ。そこから真っ逆さまに落ちてしまえば恐らく死ねる。そしてその道路はここが塞がってしまうともう通り道がなくなる、という訳でもなく、もう一つ出口があって交通網的な被害は大迷惑、とまでは行かず恐らく迷惑程度に留まる。どうしてそこを死に場所に選ぶのかというとわざわざ外出して死に場所を選ぶような死を綺麗に着飾る気概が持てなかったことと最も身近だったから、であって何の風情もないが私にはそれが一番良いような気がした。私は五歳の頃、体育館の舞台上から頭から真っ逆さまに落ちて病院に運ばれた。その瞬間は痛い、とも何とも思わず、ゴチンと音がしてから意識がブラックアウトして、気付けば病院だった。そしてついここ最近最寄り駅に向かう途上の坂で葉っぱに足を取られて転倒し、更に下り坂だったことと背中に背負った重い荷物が後押ししてぐるんと半回転し、酷く頭を打った。しかし私は痛みの前に何が起こったのかさえ理解できず、コンクリートが頭を抉ったお陰でだらだらと目の上に赤い血を流しながら、十秒ほどが経って漸く「転んだのだ」と起こったことを理解して、それから痛みがやって来た。庭先から落ちることもそれらとそう変わりあるまい。硬い地面にぶつかった当初はきっと痛みはない。そう考えれば、上手く頭からやれば気も失えるだろう。もしくは気を失えないのが怖ければ睡眠薬でも流行りのオーバードーズというやつをして柵の上に跨がれば良い。ただ、今の私には睡眠薬の必要もない……それくらい穏やかで、死に対して私は酷く肯定的だった。自分でも予期しない時期に飛び降りそうなくらい、「二階では死ねないのではないか」とも思わないくらい、私は楽天的に死を求めては、またもや半端に書きかけて、完成すれば間違いなく傑作になるはずのそれに引き留められる。それが終わったら、もしくは生と死の芸術性を天秤にかけて創作性に於いて生より死が勝ったなら、私は死ぬかもしれない。付近に落下死体があったのなら、それに私の幻覚を見ると良い。
きっと、それが真実だ。
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