第6話
多くの客が並んだ。日曜日の午後――稼働最終日のことだった。
「機関砲の夏」の撤去が正式に発表されると、常連はむしろ筐体に通い詰めるようになった。当たらないものを当てようとしたのだ。
自己満足か、名誉か、あるいは愛着か。その日は客が殺到して、大量の硬貨を筐体に投下した。夏海はお腹いっぱいだった。焼肉を食べた翌朝のような胃もたれが襲ってきた。
機関砲は、依然として、照準が定まっていなかった。動物や人間には当たるものの、「大当たり」はもちろん、「当たり」の字さえ表示されない。
やれ確率だの、やれ店側の操作だの、頓珍漢な憎まれ口が聞こえてくる。当選するか否かは、夏海の気分に委ねられているというのに。
数にして、八千枚の硬貨が呑み込まれた。しかし当たらない。しびれを切らした客の一人が、店員を呼び出した。そして筐体の点検をさせる。異常はない。客は信じない。
困り果てた店員は、客にも内部の設定を開示した。そして「機関砲の夏」の説明書を取り出して、規定通りに設定したのだと、自らの潔白を訴えた。
それなら、どうして当たらないのか。店にも客にも知れない。
硬貨が尽きたからか、客が次々と筐体から離れていく。日が傾き始める。寿命――稼働終了まで、あと六時間。事実上の余命宣告だった。
液晶越しに見えるのは、「機関砲の夏」の撤去を知らせる貼り紙。夏海は仰向けになる。この退屈さえも、今となっては愛おしい。
右手を空に掲げる。次は、何に転生するのだろうか。四肢を持った生物なら、ちょっぴり嬉しい。恐竜なら及第点。魚は、もうごめんだ。
だけど、本音を話すとしたら、二度と覚めない夢が見たい。そう願う。願ってしまう。
また生まれ変わったとき、Aの表情や仕草を忘れられるだろうか。彼の幻影に囚われて、掴めないものを掴もうと躍起になるのではないか。
Aと離れ離れになること。それだけが心残りだ。
今はただ、永い眠りにつきたい。Aとの思い出を両手に抱きかかえて、永遠のまま消失したい。夏の日差しに照らされながら、蝉時雨の降る森の中で。
祈るように、彼女が目を閉じる。静寂の包む草原。
突然、機関砲が鳴った。硬貨が投入されたのだ。
目を開けると、Aの顔が見えた。
きっと最後の仕事になる。第六感で感じ取る。
飛び起きて、機関砲を手に取る。両手で暴れるその重火器を、腕力で制御する。これが水鉄砲だなんて、都合の良い嘘だとしか思えない。夏海は顔をしかめる。
Aはというと、相変わらず、硬貨を見当違いの場所に落としていた。彼自身の腕前もあるだろうが、実際は、ずっと夏海を見つめているからに他ならなかった。
Aには、夏海が生きているように思えて仕方がなかった。六歳の想像力が、この瞬間だけは、大人をも超越した。
だが、当たってほしいから夏海を見ていたわけでもない。単純な話、夏海に惹かれたのだ。彼の初恋だった。
好意を向けられていると、夏海はなんとなく悟っていた。嬉しかった。悪い気はしなかった。二十回目の命、誰かに意識されることは初めてだった。
やがて、機関砲の放った銃弾が、何かに当たる。Aは目を凝らした。動物なら当たりの抽選、人間なら大当たりの抽選だ。息を呑む。息を止める。手を握って、瞬きさえも忘れる。
機関砲が貫いたのは、人間だった。Aが歓声を上げた。
夏海は、初めて彼の声を聞いた。無邪気で純粋で、温かみがあった。心臓の拍動が激しくなる。顔が熱くなる。機関砲を落としてしまう。液晶から咄嗟に背を向けて、夏海は口に手を当てた。
演劇のように、画面が徐々に暗転する。大当たりの抽選が始まる。
時間にして十数秒。幕が上がる。Aが深呼吸をする。息の音が、夏海にも聞こえる。
見渡す限り、一面の荒野。空は黒い。太陽が見えない。
夏海は、その背丈に到底合わない機関砲を、ゆっくりと持ち上げた。六本の砲身が黒光りする。風が吹き荒れる。口角は上がらない。
目の前には、同じく機関砲を携えた男。己の筋肉を誇示するかのように、袖のない服を着ている。夏海を見下ろす。睨みつける。
息を呑む。息を止める。心臓の拍動が、荒野に響く。
回転草が、夏海と男の間を縫うようにして、ころりころりと軽快に転がっていく。一つ、二つ。少し間をおいて、三つ。
夏海の長い髪が揺れる。東の方向になびく。雲が急ぐように流れる。ほんの一瞬だけ、太陽が足元を照らす。黒い軍靴が光を湛える。
前触れもなく、風が止んだ。
機関砲が鳴いた。喚いた。反動が夏海に伝わった。この振動、衝撃。Aの期待を背負って、自分は劇を演じる。夏海を演じる。
こんなもの、八百長だ。演出だ。全ては内部設定が掌握している。だから祈る。演技に全力を尽くす。口角を上げる。機関砲が唸る。夏海が吼える。男が怯む。彼女の前世は恐竜なのだ。
手に力を入れながら、ちらりとAに顔を向ける。光を湛えた瞳。破顔。自分が愛した彼の表情。負けやしない。負けられない。勝ちたい。その一心。
すると、Aの後ろに、人が集まってきた。観客だ。大当たりを見に来たらしい。心なしか、Aが不安そうな表情を浮かべる。知らない大人に囲まれて怯えているのだ。
夏海の頬が引きつった。なぜ邪魔をするのか。Aと自分の世界に、土足で上がりやがって。撃ってやりたい。撃てやしない。
これは演劇だ。役者と観客の間には、透明な幕が下りているのだ。いくら観客が野次を飛ばしたって、舞台の上から反撃することは不可能だった。
だから、ほんの少しだけ、外れてしまえと思ってしまった。
彼女の思考は、無意識のうちに、回路を掌握した。当選確率が変動する。外れに傾く。三十、十五、七、三、一。次第に、天文学的確率へ。
回路が抽選を始める。液晶に「大当たり」と「外れ」が交互に映し出される。大人の歓声が、夏海には耳障りだ。機関砲を掴む手が、次第に緩んでいく。
夏海の頭に、文字が浮かぶ。それを認識するか否か、逡巡する。当たってほしい。外れてほしい。Aを一瞥してから、目を閉じる。そして目を開ける。合格発表の心地。
浮かんだ文字は、「外れ」。
これから演じるのは、外れの劇。
苦しかった。心臓に刃物が刺さった気分だった。Aの悲しむ表情は見たくない。しかも「機関砲の夏」は今日が稼働最終日。大当たりの機会を逃したAが、また大当たりの抽選に辿り着く保証はできない。
これで、最後かもしれないのに。
Aが目を輝かせている。後ろの大人が、汚い声で愚痴を吐く。どうせ当たらないと高を括る。子供の前で、夢を壊そうとしている。
現実が夢に負ける。そんなの、望んじゃいない。
機関砲を握る手を、いっそう強める。
十秒、二十秒、三十秒。液晶には、依然として「大当たり」と「外れ」の文字。未だに終わらない抽選に、大人は違和感を覚える。
夏海は、もう一度だけ、Aを見た。目が合った。その希望に満ちた表情が、大好きだった。自分は彼を、その表情を、愛していた。肉体があれば、慰めの抱擁ができたかもしれない。できやしない。自分は電脳生命体。
覚悟を決めた。腹をくくった。どうせ、数時間で潰える命なのだから。
機関砲を持つ、その腕を、ぐいと回した。男の銃弾が、夏海に全てぶち当たる。だが動じない。所詮は水鉄砲。倒れない。倒れやしない。倒れてやらない。全身ずぶ濡れだ。
夏海の機関砲は、液晶に照準を定めた。そして放った。躊躇なく。
確かにこれは水鉄砲だ。殺傷能力は皆無に等しい。だが、精密機械なら話は別だ。水滴の一つで、偽りの世界は簡単に瓦解するのだ。
壊れてしまえ、こんな世界。
筐体が泣き叫ぶ。警告音が鳴る。荒野が赤く染まる。狂ったように笑う、機関砲の男。雑音混じりに消えていく。夏海は一人きり。機関砲を抱きかかえて、うずくまる。恐怖に怯える。「大当たり」とか「外れ」とか、それどころではない。
荒野が消えて、辺りは真っ暗になる。液晶には何も映らない。筐体を照らす青色の照明も、いつしか消えている。
底が見えない暗闇の向こうから、Aを眺めている。
底が見えない暗闇に消えた、夏海の姿を捜している。
店員がやってきたが、復旧は叶わないとのこと。原因不明の機能不全。Aは、何か別の筐体で遊ぶように言われる。しかしAは譲らない。まだ遊ぶのだと駄々をこねる。
夏海は、液晶に向けて手を伸ばした。指先を伸ばした。肩を前に出して、少しでも彼に近づこうとした。
自分のために涙を流すAの姿は、店員に貼られた「不具合発生」の紙によって遮られた。外の世界を見ることは、もう二度と叶わない。
意識が朦朧とする。四肢の感覚が失せる。転生が始まろうとしている。何も見えない。何もできない。結局、自分はAを悲しませてしまっただけだ。
それでも、何か。何か一つでも、Aに施せるものがあるとするなら。
夏海は、基板に干渉した。既に制御機能を失った基板は、乗っ取る工程さえ必要ない。夏海が望むままに、思うがままに動いてくれる。
そこで、基板の記憶媒体に収録された「大当たりの曲」に接続した。
筐体から、愉快な音楽が流れ出す。音楽が流れる。ただそれだけ。一万枚の硬貨が吐き出されることもなければ、液晶が息を吹き返すこともない。本当に、ただそれだけ。
闇の中からAに捧げる、最初で最後の贈り物。
ふいに「不具合発生」の紙が舞った。暗闇に顔を向けて、笑顔を浮かべるAの姿が見えた。
やっと、何かを残せた気がした。
もはや視界さえままならない。眠るように、運命を受け入れるように、目を閉じる。
今はただ、永遠の別れを惜しむ。時間が解決するかは知れない。なんなら、二度と意識が戻らないように、と願っている。煌めく流れ星、紺色の夜空。
愉快な音楽。美しい音色に、心躍る曲調。恍惚としたAの表情が、頭に浮かんだ。無意識に微笑んだ。幸せだった。目が潤むような、脆弱な感情に支配された。
天国と紛う微睡み。夢見心地。遠く離れた一等星に、大きく手を振った。
さようなら。またいつか。
精霊の回路 阿部狐 @Siro-i
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