第4話
夏海は、その少年の名前を知らない。だからAと定義づけた。人間が機械にそうするように。
Aの名前を知らない。声を聞いたこともない。年齢は、顔つきからして、六歳くらい。
靴の大きさは分からない。そもそも、下半身があるのかすら知れない。液晶に映るのは、Aの顔から首までだからだ。
だが、顔だけで充分だ。人間の表情は、彼ら彼女らを映し出す鏡に等しい。足を見ずとも、その人間を理解することは容易だ。少なくとも、夏海にとっては。
その夏海が、唯一興味を示した人物。それこそが、かの少年Aだった。
日曜日の午後一時。画面の向こうでは、家族連れや、小中学生たちが歩いている。そのうち数人は足を止めて、夏海を一瞥した。だがそれだけだ。すぐに立ち去ってしまう。
暇だ。手持ち無沙汰だ。夏海は仰向けになり、両手を頭の後ろで組む。これなら、硬貨目当ての男性に罵倒されていた方が、まだ愉快でいられた。退屈ではないからだ。
倦怠感が全身を縛りつける。次第に苛立つ。早く機関砲を持って暴れ回りたい。規定された休息は、かえって身体の不調を招く。退屈とは命の浪費である。
そのときだ。硬貨を投下された。Aだった。
夏海が跳ね起きた。機関砲を手に取った。退屈からの解放と、Aの来訪。二つの恍惚は、彼女を一人前の道化師にした。幸せだった。突き抜ける青空。
実のところ、Aは硬貨の投下が下手だった。狙い通りの場所には、まず落ちない。見当違いの方向に行ったり、変な場所に山積みになったりして、目も当てられない。だから、当たりや大当たりの抽選さえ行えずに、硬貨が尽きてしまうことさえあった。
夏海が制御するのは、当たりの抽選確率のみ。その抽選を行うか否かの段階で苦戦を強いられては、干渉する余地がない。
それでも、Aは硬貨を入れる。入れ続ける。彼の手で築かれた硬貨の山は、やがて形を崩して、また彼の手元に帰ってくる。短い旅を終えた硬貨は、また筐体の中へと吸い込まれていく。
硬貨を押しては引く土台。その中央には、赤い光が垣間見える。硬貨が通過したかどうかを確かめる感知器だ。それが作動すれば、機関砲が発射される。銃弾が動物を貫けば、当たりの抽選が始まる。大当たりの抽選は、敵――人間を撃ち抜いたときに発生する。
子供への悪影響を恐れてか、機関砲は水鉄砲、という設定になっている。銃弾も水で作られているのだとか。もっとも、当の夏海自身は、その設定を意識したことなどない。今握っている機関砲は本物の銃だと思い込んでいる。
闘牛のごとく、機関砲が四方八方に乱射する。暴れ回る。硬貨が落ちて、銃が唸る。
今、その一発が、鹿の足に当たった。
水しぶきが飛ぶ。当たりの抽選が始まる。
嬉々とした表情で、Aが夏海を見つめる。彼女が知る限り、自分目当てで「機関砲の夏」を遊ぶのは、Aただ一人だった。
だから興味が湧いた。もしも当たりが出たとしたら、自分と硬貨、どちらを選ぶのか。
機関砲を持ち上げながら、夏海は、基板の制御設定を解除した。本来の抽選確率になる。当たるか外れるかは、筐体の内部設定が決める。そこに夏海の意思はない。
本当なら、確率を制御して、確実な当たりを提供したかった。だが叶わなかった。基板のどこに干渉すれば当たりの確率が上昇するのか、分からなかったのだ。
確率制御は不可能。ならば、本来の確率で当たりを出すまでだ。機関砲を強く握る。
機関砲が音を鳴らす。鹿に向けて、めいっぱいの銃弾を放つ。だが当たらない。予定調和のご都合主義が、鹿への銃弾を逸らしてくる。
もっと上手く当てられるのに、と夏海は歯ぎしりをする。機関砲を握る手に、血管が浮き出る。Aが自分を見ているのだ。不格好な自分を見せたくなかった。
そのとき、夏海の頭に文字が浮かんだ。「外れ」だ。所詮は役者に過ぎない夏海は、Aよりも先に抽選結果を知り、外れの演技を披露する必要があった。
意を決した。夏海は、あえて機関砲を手放した。持ち主が離れても、なお砲身を回転させる機関砲。発射の反動からか、機関砲は予測のつかない暴れ方をする。
夏海が、もたもたとした動きで、機関砲を掴もうとする。だが上手く握れない。そのうち、足を滑らせて転んでしまう。
起き上がったときには、もう、鹿の姿はない。
それとなく空を見上げる。Aの顔が見える。口角を下げて、今にも泣き出しそうな表情。夏海を見て、なにやら口を動かしている。何を言わんとしているか、夏海には知れない。顔と仕草からして、自分を心配していることは伝わった。
ただ、胸が痛かった。Aの期待外れの結果を演じることが、夏海には拷問だった。それまで必死に硬貨を入れていたAを知っているから、なおさら耐えられなかった。
液晶に表示される、「外れ」の文字。画面が暗転する。
底が見えない暗闇の向こうから、目を伏せるAを眺めている。
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