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 おかしい。“気配”が感じられない。

 焦りと恐怖で、瞳は叫び出しそうになる。

 兄ちゃん。兄ちゃん。どこなの?

 身体を〈強化〉し、ビルの上に登って周囲を見渡す。

 最後に“気配”のした方向を確認し、走り出そうとしたその瞬間、目の前に女が立ちはだかる。瞳と同じくらいの背格好の若い女だ。うまく隠しているが――こいつも超能力者だと見た瞬間にわかった。

「伊関杏子といいます。事件の捜査に協力してもらえませんか、武政瞳さん」

 その女はいきなりそう言った。

 不意打ちに一瞬頭が真っ白になる。なぜ私の名前を知ってる? それに事件って……どの事件だ?

「病院で今仲涼太を殺しましたね」

 瞳は咄嗟に声が出せない。

「それに、梶本典之の財産を奪い、殺そうとした。そうですね?」

「いきなり何意味不明なこと言ってるんですか」瞳は言い返す。「私急いでるんです」

「梶本にかかった〈催眠〉を私が解いた。あなたがしたことを教えてくれました。それに、あなた方の“商売”のことも調べはついてるんです」

「だから、意味が分からないんですけど。私行かないと」

「残念ですが、行かせるわけにはいかない」

 伊関と名乗る女は、瞳の前を動かない。

 くそっ――瞳は唇を噛む。本当に、急いでるのに。行かなきゃならないのに。

「退いてください」

 瞳は伊関を睨みつける。

 伊関は首を横に振る。

 仕方ない。“力”を使うしかない。超能力者同士で戦うのは避けたかったけど――やるとなったら、手加減なしだ。

 瞳は本気の〈催眠〉を発動する。

 両手を正面にかざす。そこから、五感で認識できない無数の“ケーブル”が伸びていき、敵の身体に絡みつく。一度“ケーブル”が相手を捉えたら、相手は操り人形も同然だ。最初は自分の意思に反して身体が動くように感じる。“ケーブル”が体内を侵食し、脳にまで達すると、意思そのものを操れる。相手は、“させられている”行動が、自分の意思によるものだと認識するようになる。

 瞳は“ケーブル”が伊関に触れるのを知覚すると、“命令”を下す。

「ここから飛び降りろ」





「おい、本当に行くのか?」瀬崎は石井を追いかけて走る。

「俺は行くぞ」石井は瀬崎の前を走りながら答える。

 二人は急に飛び出していった伊関を追っていた。

「待っとけって言われたろ?」瀬崎が言う。

「確かにあの子はそう言ったよ」石井が応じる。「でも俺は、自分の目で見届けないと気が済まない」

「……わかった」瀬崎は諦めたように言う。「でもどうやって追うんだ? あいつ、屋根の上なんかも平気で走れるんだぞ、それも猛スピードで」

「確証はないが、方向はわかる」石井は言う。「伊関さんが跳んでいく後ろ姿が一瞬見えた、そっちの方向だ」

「どうしてだ?」

「あの子はどこでも走れるからだ。急ぐとなると、絶対に目的地まで一直線に向かうはずだ、道なんか気にせずにな。だから、最初にあの子が飛び出した方向に何かがある」

 石井は走りながら説明する。体力的にはまだまだ余裕だ。走りとスタミナは若いやつにも負けない自信がある。瀬崎が付いてこれているのは、ちょっと意外だったが。


 どれくらい走っただろうか。数分か、数十分か。石井は空を見上げる。他の通行人は、手元の携帯を見ているか、他の人間を見ている。目線を上げて高所に注意を向けているのは石井と瀬崎だけだった。

「やっぱ難しいと思うぞ」瀬崎が言う。すこし息が上がっている。

「まだ分からないぞ」石井は言い返すが、内心では瀬崎と同じことを考え始めている。

 一度立ち止まって顔の汗を拭い、深呼吸する。

「帰ったら、俺ら二人とも伊関に怒られるな」瀬崎は笑う。

「あの子、怒ったりすんのか?」

「怒るといっても、ため息をつかれるくらいだよ」

「何だ、お前怒らせたことあるのか?」

 石井も笑う。

 何となく、追跡は諦めるしかないという空気になってきたその時、石井はビルとビルの間を黒い影が横切るのを目撃する。

「あっちだ。近いぞ」

 一気に緊張が高まる。自分達が追っていた凶悪犯が、すぐそばにいる。しかもそいつは、指先一つ使わずに人を殺せるときている。

 石井は左脇腹に手を当てる。ジャケットの下に装着したショルダーホルスターに吊るしてある、S&W M360J サクラの感触を確かめる。何か起こったとき、せめて自分の身くらいは自分で守れるように、携帯している拳銃だ。

 そんなものは気休め程度にしかならないかもしれない。それくらい危険なのはわかっている。でも、伊関の仕事をこの目で見ることにはそれだけの価値がある。

「行こう」

 石井は再び走り出す。

 そしてその数分後、石井は自分の行動を後悔することになる。



 影が見えたビルを目指して、狭い通路を駆け抜ける。

 角を曲がるにつれ、人通りは減っていき、やがて辺りに人がいなくなる。

 石井は道の真ん中で立ち止まり、建物を見上げて、方向を確かめる。

 走り出そうとした時――空から何かが降ってきて、目の前に路上駐車していた車のボンネットに衝突する。

「うわっ!」荒々しい衝撃音に思わず石井は声を上げ、飛び退く。

 ボンネットに叩きつけられたその“何か”は、地面に転がって落ちる。

 石井はそれが人間であることに気づく。

 息を殺し、落下した人間を観察していると――驚くべきことに――よろよろと体を起こし、立ち上がった。

 こいつ、何者なんだ。

 次の瞬間、石井は気づく。

 ――この女、防犯カメラで確認したやつだ。

 俺たちが追っていた、今仲を殺した超能力者だ。

 名前は伊関から聞いた。

 武政瞳。

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