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男が別の時空に消え、亜由美とサラだけが残る。
亜由美はサラのもとに駆け寄り、耳元で呼ぶ。
「サラ! 聞こえる?!」
声をかけながら、サラを観察する。自分のような、講習会でファーストエイドをかじった程度の人間に、ちゃんとした診察ができるはずもないが、何かしないわけにはいかない。
気道は確保されている。呼吸もある。脈も、素人にわかるくらいには触れる。呼びかけに対する反応は悪く、意識清明とはいえない。
「うう……」サラは顔を歪める。額が汗で濡れている。
額だけではない。腕も湿っているし、Tシャツもレギンスも、汗を吸って水びたしだ。
亜由美はまず、“力”の使い過ぎによる低血糖を考える。その可能性を除外するには、ブドウ糖を摂取させればいい。
スウェットのポケットに忍ばせていた袋からブドウ糖のタブレットを一粒取り出し、指で細かく潰すと、サラの口の中に擦り込む。ブドウ糖は吸収が早いから、少しすれば血糖値は上がり、意識も回復するはずだ――もし低血糖が原因だったなら。
サラの顔に、少しずつ生気が戻ってくる。
「私が誰かわかる?」
亜由美は質問する。
「……アユミ?」
サラが弱々しく答える。
返事が返ってきたことで、亜由美は安堵の息を漏らす。
「あいつは?」サラが訊く。「あの……大男は?」
「いなくなった」亜由美は答える。
「どこに?」
「だから」亜由美は繰り返す。「いなくなった」
「私……あいつに……」
サラが体を起こそうとするのを、亜由美が制止する。
「まだ横になってて。体を見せて。あいつに殴られたの? どこを?」
「ここを蹴られて」サラは左脇腹と右の側頭部に触れる。「ここを殴られた」
亜由美はサラのシャツを捲り、脇腹の傷を評価する。内出血していて、触れると痛みを訴えるが、肋骨は折れていなさそうだ。それから頭や顔に触れ、神経所見をとる。眼球運動や顔の筋肉、舌の運動を観察し、iPhoneのライトを使って対光反射をみる。殴られた右のこめかみが少し腫れている他は、今の時点では重大な症状は確認できなかった。身体の他の部分も触れてみるが、明らかな外傷はないように思える。
「怪我は、思ってたほど酷くはなさそう」亜由美はサラに言う。「超能力の使い過ぎで低血糖発作を起こして、それでグロッギーになったんだと思う」
「アユミ……お医者さんみたい」
「まだお医者さんじゃない。素人の診察だから当てにしないで。頭の怪我だと、後から症状が出てくることもある。出来ることならすぐに病院に行って、診察や検査を受けて」
サラは体を起こし、伏し目がちに亜由美を見る。
「ごめんなさい……私、勝手に“力”を使った」
「そうみたいだね」
「そしたらあいつが来て……あいつ、私を……」
サラは言葉を詰まらせる。身体がわなわなと震えている。
亜由美はサラの肩をそっと抱き寄せる。
「あなたが生きてて良かった」亜由美は言う。
サラは亜由美に寄りかかり、胸に顔を埋める。亜由美はサラの震える息を胸元で感じる。
サラを抱きしめ、背中をさすってやっていると、不意にさっきまでの記憶が蘇る。
悪夢で見たシーンと重なる。今まで数えきれないほど見た、あの悪夢だ。それを見るくらいなら眠れないまま死んだ方がマシだと本気で思っていた時期もあった。
自分のやったことの実感が遅れて襲ってくる――私は、また、人を殺したんだ。
亜由美は心の中で男に手を合わせる。こんな結果になったのは残念だ。でも、サラと私の命と生活を守るためには、死んでもらうしかなかった。
男の最期の言葉を思い出す。
――地獄で待ってるぞ、クソ女。
確かに、もしあの世があるのなら、私はきっと地獄であいつと再会することになるだろう。
「時間大丈夫?」
亜由美はサラを撫でながら聞く。
「大丈夫じゃないかも」
サラはスマートフォンを取り出す。メッセージや着信が来ているようだった。
「急いで帰ろう。家のそばまで送るから」
「ありがとう」
「家族に話して、なるべく早く病院を受診して。――もちろん、怪我した理由は別に考えてね。『超能力者に襲われた』なんて言ったら、精神科医を呼ばれるからね」
亜由美が冗談めかして言うと、サラはふふっと笑う。気づかない間に体の震えは止んでいた。
「じゃ、帰ろうか」
亜由美は立ち上がり、サラに手を貸す。サラは立ち上がった瞬間少しふらついたが、歩行は問題なくできた。
二人は広い道路まで歩いて、そこでタクシーを待つことにする。
亜由美はサラの背中に手を当てる。
ギリギリのところだったが、この子を守ることができた。そのことに亜由美は安堵する。
もう、失うのはごめんだ。
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