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瞳は自分の身に起こったことが信じられなかった。
一瞬で勝負をつけるために、持てる全てを出して〈催眠〉を発動させたのに。
相手を飛び降りさせるように“命令”したのに――気づけば飛び降りていたのは自分だった。まるで自分の超能力が、そっくりそのまま跳ね返ってきたみたいだ。
まさか――それがあの、伊関とかいうやつの持つ“力”なのか。
顔を上げると、ちょうど伊関も地上に降りてきたところだった。音もなく着地すると、瞳の正面に立つ。構えも取らず、ただ直立している。
余裕の姿を見て、こいつには敵わないと瞳は悟った。自分の“力”は何一つ届かない。分が悪すぎる。
兄のことを考える。受け入れる準備はできていた――もう、兄ちゃんは生きてはいないということを。でも、せめて、兄ちゃんが死んだ場所には辿り着きたい。
伊関の方を見る。すると、その背後に二人の男が立っているのに気づく。
瞳は人質を取ることを決断する。一か八かだ。
二人のうち、手前にいる方の男に〈催眠〉をかけ、一瞬でその身体の自由を奪う。
同時に、その男の感覚も部分的に共有される。
瞳は、そいつが拳銃を持っていることに気づく。
石井はそれが、自分の意思による行動だと思っていた。
ホルスターから拳銃を抜いたのも、その安全装置を外したのも、危険に対する反射的な行動だと思っていた。
異変に気づいたのは、その拳銃を自分のこめかみに押し当てたときだった。
これは……俺が決めた行動じゃない!
武政だ。あいつが、俺の体を操っている!
一気に全身から汗が噴き出る。
銃口を頭から外したいのに、その行動が起こせない。少し手を動かすだけで済むのに、その意図が身体に伝わらない。
逆に、右手の人差し指にあと少し力が加われば、俺は頭に穴を開けられ、“二階級特進”する。それすら、自分ではコントロールができない。
石井はようやく伊関の警告の意味を悟る。
自問自答する。なぜ俺は、“いける”と思ったのか。なぜ素直に忠告に従わなかったのか。
だがもう遅い。自分の運命は、自分ではなく、二人の超能力者が握っている。
武政瞳。そして、伊関杏子。
警官の全身を掌握したことを確認してから、瞳は伊関との交渉を試みる。
「退かなかったらこいつの……」
いつの間にか、伊関は瞳の目の前にいた。
瞳が反応する前に、伊関は拳を軽く握って瞳の鳩尾を突く。
「ウッ」
呻き声をあげて瞳は崩れ落ちる。
身の置き所のない苦しさが内臓を苛み、息をすることもできない。すぐにでも兄のもとに走りたいのに、たった一発殴られただけなのに、動けない。
超能力も使えなくなった。人質の男との“接続”も、一瞬で切れた。もう“ケーブル”は伸ばせない。
肉体と精神が、苦痛に屈服させられたようだ。
「今のは看過できなかった」
伊関の声が遠くで聞こえた。
石井は体の強張りが止まらない。こめかみに拳銃を当てたまま、動かすことができない。
今までも肝を冷やすような体験は数多くしてきた。自慢じゃないが、修羅場を切り抜けたのも一度や二度じゃない。でも、これは――常軌を逸している。自分が自分のものじゃなくなる恐ろしさは、他と比べようがない。
「もう大丈夫です、今すぐに治しますから」
伊関の声が聞こえる。
右手を柔らかいタッチで触られるのを感じる。触られた箇所から、強張りが少しずつ消えていく。手から始まり、前腕、肘、二の腕、肩と緊張が解けていき、気がつけば全身を動かせるようになっていた。
人差し指を引き金から離し、拳銃をこめかみから外す。すぐに安全装置をかけ直し、ホルスターに戻す。
やっと周囲が現実味を帯びてくると、伊関の心配そうな顔が目に映る。その奥で、武政は地面に倒れ伏している。
「伊関さん……すまない」
石井の声が震える。心臓はさっき走っていた時よりも速く脈打っている。
「危ないところでしたよ」
伊関はそう言い、大きめのため息をつく。
瀬崎が言ってたのは、もしやこれのことか――石井は肩身が狭いような、恥ずかしいような気持ちになる。
「あいつ……武政はどうなった?」石井は伊関に訊く。
「もう大丈夫です。一発殴ったら大人しくなりました」
伊関があまりに事も無げに答えるので、石井は反応に困る。何を“叩いたらテレビが映るようになりました”みたいな調子で言ってるんだ? というか、俺が自分の頭を撃ち抜くかどうかの瀬戸際にいる間に、あの化け物を一撃で倒したのか? 互いに超能力を使う者同士でも、こんな呆気なく決着がつくのか?
「……あいつ、まだ生きてるよな?」
「はい、生かしてます」
「そうか」
「やっぱり、今回は――約束と違って申し訳ないのですが――ここからは私に任せてもらえませんか?」
伊関は石井の目を見る。
「わかった……任せるよ」
石井はそう答えるしかない。
「杏子、俺はちゃんと止めたんだぞ。なあ、石井?」
石井が振り向くと、瀬崎がいた。
「瀬崎、お前どこにいたんだ?」石井が訊く。
「どこって、後ろの方にいたよ」
瀬崎は笑って、自分が立っていたあたりを指差す。
「お前……俺を盾にしたのか?」
「まさか! お前が勝手に前に出たんだろ?」
石井と瀬崎は軽く言い合う。
「あの……」伊関が言う。「後は私がやるので、お二人は戻ってもらえますか?」
二人は伊関に従う。
「命拾いしたな」帰り道、瀬崎が石井に言う。「いや、マジで」
「ああ……」石井はため息をつく。
二人は探偵事務所に戻り、伊関の報告を待つことにする。
「なあ瀬崎」石井が言う。「お前には、あの超能力が一体何なのか分かるか?」
「ああ」瀬崎はにやりとする。「分からん、ということが分かるよ」
「お前もああいう術をかけられたことはあるのか?」
「一度、伊関にかけてもらったことはあるよ。あいつ嫌がったけど、渋々やってくれた」
「そうか」
石井は全身の汗が引いて、寒気を感じる。あの武政の超能力で全身の自由を奪われた後、冷や汗が止まらなかった。人知を超えた悪霊や死神に狙いを定められたようだった。
超能力の凄さは体験したつもりでいたが、自分は何も分かっていなかった。悪意を持った超能力者と対峙することが何を意味するか、一つも理解していなかった。
司法手続を守ることへのこだわりも、超能力者の前には何の意味もなさないことを、痛いほど実感した。
「瀬崎……お前、恐いと思わないか?」
石井は瀬崎に訊く。
「時と場合によるとしか言えない」瀬崎は答える。「今日のあいつ、武政瞳は恐かった。だから近づけなかった。でも伊関は恐くないだろ」
「まあ、確かに……たまに空恐ろしくなるけどな」
「まあな」瀬崎は笑い、話を続ける。「結局、状況に合わせて適度に反応するしかないんだよな。超能力者をただひたすら恐れて、目を背けて、視界に入らないようにしても、そいつらが消えるわけじゃない。彼らを社会から追放するのも、現実的に不可能だ。かといって、無警戒に好き放題させると、病院で人殺すような奴が出てくる。超能力者の存在を認めるのと同時に、そいつらが好き勝手しないように抑止力も効かせていかないと、すぐに社会が混乱する」
石井は瀬崎の話を聞きながら、この男がどういう経緯でその考えに至ったのか知りたくなった。存在を捉えられないような大きな力に対して、適切な距離を取るのは、決して簡単ではないはずだ。
「超能力者をコントロールできる奴――抑止力になれる奴は、俺の知ってる限り、伊関だけだ」
瀬崎は言う。
「伊関さんは、どうしてその役目を引き受けてるんだ?」
石井は訊く。
「どうしてだろうな」瀬崎は肩をすくめる。「少なくとも、趣味で“超能力者狩り”をやるような奴ではないだろうけどな」
「それは俺にもわかる」
「直接あいつに聞いたらどうだ」瀬崎はふっと笑う。「もっと仲良くなれば、教えてもらえるかもしれないぞ」
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