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 2019年5月9日



 武政瞳はネオンの光をくぐり独り歩く。

 ここは渋谷区、円山町。江戸時代から宿場町として栄え、明治時代になってからは花街として夜を彩った。その後、この地で妾として囲われた女たちが、与えられた家の部屋をカップルらに時間単位で貸すことで生活の糧にするようになった。そしてそれは時代の流れと共に、ラブホテルとよばれる施設に変わっていった。

 今は料亭や芸妓屋は廃れ、花街の名残はほとんどない。それらは商業ビルやクラブ、ライブハウスなどに建て替えられ、形を変えて人々を引き寄せ続けている。

 時代が変わっても、人間の本質は変わらない。美味しい料理や酒が好きで、音楽が好きで、性愛を欲している。

 瞳は人間の欲が好きだ。金になるから。



 十字路の角地に一軒のラブホテルが建っている。くたびれた無機質なコンクリート製の壁を何とか見栄え良くしようと、紫に光るネオン管で飾り付けている。

 瞳はその中に入っていく。

 フロントは無人で動くものはない。瞳は“力”で防犯カメラを止めながら、建物の奥に入っていく。

 部屋の一つの前に立ち止まり、部屋番号をもう一度確認すると、ドアをノックする。

 内側からドアが開き、スーツ姿の日焼けした男が二人現れる。瞳の下で働くスタッフだ。

「お客さんは?」瞳は訊く。

「あそこです」スーツの男の片方が奥のベッドを手で示す。

 下着姿の男と女が、ベッドの上に座っている。

 男は正座をしたまま俯いている。

 女は涙と血で顔を汚している。瞳を見ると、一層泣きそうな顔になる。

 彼女は客の男性に暴力を振るわれ、店のスタッフに助けを求めた。そして駆けつけたスタッフから、瞳に連絡があったのだ。

「帰っていいよ。お疲れ様」瞳はスーツ姿の二人に声をかける。

 二人の男は礼をして、すぐに部屋を去る。

 瞳は部屋の奥に歩を進めながら、男を観察する。

 年齢は40代くらいか。酒に酔っているのか、顔が赤い。戸惑ったような表情を浮かべている。強面の男たちが帰り、その代わりに線の細い女子が来たから、意外に思ったのだろうか。

 可哀想に。恐いお兄さんに絞られた方がどれだけ良かっただろう。

「いや、これには訳があって……こっちにも言い分ってものが」

「黙れ」

 瞳は男の言い訳を〈催眠〉で遮り、女に事情を尋ねる。

 彼女はフウカという源氏名で瞳の元で働いている。今日もいつものように依頼を受け、ホテルを訪れて仕事を始めたところ、酔った客がクレームをつけ始め、口論になった結果、突き飛ばされて顔を叩かれた、ということらしい。

 顔を見たところ、鼻血が出ている他は目立った怪我はない。

「怖かったですね。今日は上がっていいですよ、お疲れ様」

 瞳は泣きじゃくるフウカをさすってやる。

 少しして落ち着いたフウカは服を着て荷物をまとめる。彼女の去り際に、瞳は自分の財布から一万円札をいくらか掴んで渡してやる。傷病手当代わりだ。どうせどっかのホストクラブのヴーヴ・クリコか何かに化けるんだろうけど。

 彼女も確か、今仲に斡旋させた“商品”だ。“商品”に情けをかけるつもりはないが、ちゃんと仕事をしている子はそれなりにケアするようにしている。

 そして、“商品”を傷物にした人間には代償を払ってもらう。

 瞳は男に目をやる。〈催眠〉をかけられた男は半裸でベッドに座ったまま動かない。

「あの子の話が本当か、正直に言え」

 瞳は男に訊く。

「はい」男は正直に答える。

「服を着ろ」

「はい」男は服を着始める。

 瞳は男に質問し、情報を集める。

 男の名前は梶本典之。愛知県在住。大手広告代理店の支社に勤務。妻とは離婚調停中。中学生の子供が二人。出張で東京に来たついでに羽目を外そうとしたようだ。その結果がこのザマだ。

 瞳は男の運命を決める。絞れるだけ絞って、ポイだ。


 梶本は〈催眠〉をかけられたまま、ホテルを出る。その少し後から瞳も出る。

 瞳の操り人形と化した彼は、渋谷中を歩きながら現金を作る。

 まずはATMを回り、口座の預金を下ろせるだけ下ろす。それから審査の緩い消費者金融の無人契約機を回り、借りられるだけ金を借りる。それから闇金融業者――瞳たちがバックに付いているところ以外――からも融資を受ける。

 瞳は目立たないところから梶本に付いて回り、時折近づいて指示を出す。〈催眠〉は便利だ。「金を借りろ」と命令すれば、細かい教示をしなくとも、自分で頭を働かせて達成しようとする。手続きも全部一人でやるし、金融業者とのやりとりも――嘘やごまかしも交えながら――自力でやってのける。

 現金がある程度まで貯まると、瞳は多目的トイレの中でそれを受け取る。それから彼の時計と財布、スマートフォンを取り上げ、現金二万円だけ返す。

 そして最後の“命令”を下す。

「私のことは忘れろ。渋谷駅で電車に乗って、どこか遠くまで行け。誰にも見つからないようなところを探して、そこで自殺しろ」

 絞れるだけ絞って、ポイ。



 梶本はJR渋谷駅のホームを歩きながら、自分はどこに向かうべきか考える。

 切符はとりあえず一番安いものを買った。どこで降りるかまだ決まっていないが、まずは改札を通って電車に乗るのが先だ。降りる駅で乗り越し精算をすればいい。

 行き先として真っ先に思いついたのは、富士山の麓にある青木ヶ原樹海だ。東京から離れているし、自殺した遺体が発見されるという話も聞く。そこなら見つからずに死ねそうだ。しかし、行き方が分からない。携帯がないから調べられないし、人に尋ねて怪しまれても困る。路線図を見てみたが、樹海のある山梨県まではカバーしていないようだった。

 それならば、海はどうだ。例えば、千葉とか。品川駅で乗り換えて、千葉駅まで出て、そこから房総半島の先端まで行っても良し、千葉県を横断して九十九里浜に出ても良しだ。手持ちの残金なら、千葉駅からタクシーに乗っても不足することはないだろう。

 怪しまれないように、ホテルかコンビニの前で降ろしてもらい、そこからは徒歩で移動する。海岸に着いたら、あとは体力が尽きるまで沖に向かって泳ぐだけだ。

 梶本は自殺のプランを決めた。

 ちょうどその時、山手線の電車が到着する。

 梶本は乗車位置の列の最後尾に並ぶ。

 電車のドアが開き、ぞろぞろと人が降りる。それから並んでいた客の列が少しずつ車内に吸い込まれていく。

 最後尾にいた梶本も、電車に乗り込む。

 ドアの内側に片足を踏み入れたその時――背後から腕を掴まれる。

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