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二人は近くにある学校の屋上に場所を移す。
「ここなら広いし、人目につかないし、いいでしょ」
亜由美はそう言って周囲を見渡す。敷地が広いため、近隣の建物とは距離がある。それに、周りに高いビルも少ない。中庭やグラウンドを見下ろしても、人影は見えない。
屋上には照明はついていない。それでも地上の街灯やビルの窓から漏れる光のおかげで、暗闇に慣れた目なら何とか周囲を認識できる。
サラは屋上の柵のそばに立って、夜の街を眺める。風に揺らされ、目にかかった髪を払い除ける。
「こういう場所で練習してたの?」
サラにそう訊かれて、亜由美は記憶が呼び起こされるのを感じる。
兄・恭太郎は、亜由美が超能力の世界に近づくことには慎重だった。亜由美は折に触れて兄に質問したり、“力”を披露するよう頼んだりしたが、躱されたり煙にまかれたりするのが常だった。
それでも――根負けしたのか、兄の気まぐれか――何回か超能力を見せてくれた。そういうときは決まって、夜、近所の高校に忍び込んでやっていた。
亜由美自身が“力”に目覚めてからも、夜の校舎で練習することが多かった。他にも適した場所はあったのかもしれないが、亜由美にはそこがお決まりの練習場になっていた。
その時の風景が今と重なり、懐かしい感情が蘇る。兄に感じた親密感や頼もしさ。共犯関係にあるという緊張感や背徳感。この世界の常識を超えた現象を目の当たりにしたときの、興奮と畏怖。それらが強く心を揺さぶり、のぼせるような、地に足がつかないような感覚に襲われたことを思い出す。
「……昔はね」
亜由美はサラにそう答えて微笑む。目の前の少女が、過去の自分と重なる。
「最初に教えて欲しいんだけど」サラは亜由美に向かい合う。「超能力ってそもそも何?」
「その正体は、正直私にも分からない。今から話すのは仮説になるけど――」
亜由美はそう前置きした上で、説明を始める。高次元の宇宙について、〈オルタナティブ・レイヤー〉について、〈
サラは飲み込みが早かった。一度の説明で、仮説について把握したようだった。
「――じゃあつまり、私たちの“力”の源が、その〈オルタナティブ・レイヤー〉にあるかもってことね」
「仮説では、そういうことになる」
「分からないところだらけだ」サラは腕を組む。「私たちがどうやってその“力”の源にアクセスしてるのか。どうしてそれを、意図するように制御できるのか。そこが一番不思議に感じる」
「そうね」亜由美は同意する。「もしかしたら、今はもっと良い仮説があるのかもしれないけどね」
「知りたくならないの?」
サラは首をかしげる。
亜由美は思い出す――研究をしようと兄に言った日のことを。
あそこで兄が「ええやん、やろうや」と言っていたら、別の人生を歩んだだろうか。医学部じゃなくて理学部に入って、理論物理学とか量子力学とかを学んで、それと並行して〈
でももうそれは起こり得ない。無意味な空想はやめにする。
「もう、知りたくならないな」亜由美はそう答える。「好奇心は猫をも殺す、って言うしね」
「そうかな」
サラはそうつぶやくと、屋上の外に視線を向ける。
亜由美も何となく、同じ方向に目をやる。
少しの沈黙の後、サラが言う。「じゃあ、次はどうやって力を使いこなすか教えてよ」
「そうね……そうする約束だったね」
亜由美はそう言いながら、軽く肩を回して腕を伸ばす。少し気恥ずかしい感じがした。自分のためではなく、他人に説明するために“力”を使うのは初めてだ。
「簡単に説明すると、超能力は“自分を拡張する技術”ってことになる」
「それは……知覚の話? 運動の話?」
「両方。例えば知覚が拡張することで、生身の人間には認識できないものが認識できるようになる。身体的能力も拡張できるし、自分の肉体以外のものも、身体の延長みたいに動かしたりできる。例えば……」
亜由美は右手を正面に突き出す。掌と平行になる面の上を、まるでアルコールの液面に火をつけたように、淡く青白い光がゆらゆらと明滅しながら動き――“盾”が〈生成〉される。
「私の場合、周囲の電子をこんなふうに操れる」
「嘘……」サラが目を丸くする。
「電子の“盾”だよ。押してごらん」亜由美はサラに促す。
「いいの?」
「うん。びくともしないから」
「本当? じゃあ……」
サラが思いきり“盾”を押すと――バチッという音が響く。
「痛ったあ!?」サラは悲鳴と共に飛び上がる。
亜由美は“盾”の表面を帯電させ、触れると静電気が流れるようにしておいたのだ。ちょっとした悪戯だ。
サラはその場で飛び跳ねながら手を振り回す。期待通りのリアクションに、亜由美は笑いを堪えられない。
「最低」サラは手をさすりながら恨めしそうに亜由美を睨む。
「最高」亜由美は肩を揺らして笑う。
亜由美も同じような悪戯を兄にされたことがあった。その時は「触ったらあかんで。いや、フリちゃうで」と言われたっけ。その時点で何かあると察したが――そう言われて触らない人はいない。
「まあ、冗談はこれくらいにして」
亜由美は呼吸を整えて、話を戻す。
「こんなふうに、色んなものに働きかけられる。自分自身の身体に働きかけたら、身体能力を強化できるし、電子機器に働きかけて操作することもできる。他の人間に働きかけて操作することもできるし、それに対抗することもできる」
「私にも、できるようになるかな?」
サラが言う。
「なるかもね。何ができるようになるか――何に働きかけやすいかは、個人個人によって違うみたいだけど」
「でも……どうやってるの?」
そうサラに訊かれた亜由美は、しばらく黙り考える。
「瞑想したり、精神統一したり?」
サラが重ねて訊く。
「いや」亜由美は首を横に振る。「それは違う。そんなんじゃない。もっと……身体的で、双方向的なものだと思う」
サラの目つきが鋭くなる。集中して考えているのが伝わる。
「身体的なのは、わかる。……双方向的っていうのは、ちょっと理解が追いつかない」
「そうねえ、例えば……」
亜由美はどう説明するか思い巡らせる。
簡単なことではない。超能力を使う感覚を直接的に表す言葉は、地球上にはおそらく存在しないだろう。なぜなら、超能力を持たない人々が言語をつくってきたからだ。五感とは別の感覚を伝えるには、何らかの形で比喩表現が必要になる。だが、どう例えればいいだろうか。
「待って、分かったかも」
サラが目を見開く。
「私、パルクールが好きなんだ。新しい技ができるようになったときとか、これまで跳び越せなかったものが越えられるようになったときとか、世界の見え方が変わる感じがして。……今まではただの障害物だったものが、“跳べるもの”として自分の前に現れる。今まではただの街の風景だったところに、“ルート”が見えるようになるんだ。まるで、街に教えてもらってるみたいに。――双方向的って、そういうことでしょ?」
「そうそう!」亜由美は思わず笑みをこぼす。
サラの話を聞きながら、亜由美は胸の高鳴りを抑えられなくなってきていた。自分が何とかして伝えたいと思っていたのは、まさにそういう感覚だった。
そんな感性を持っているのは、この世で自分だけじゃなかったんだ。そう思うと、感動すら覚えた。
「サラの理解の仕方は、多分私のとすごく近いよ。超能力もそのパルクールと一緒で、大事なのは、環境が教えてくれる“意味”だと私は思ってる」
「環境が教える“意味”?」
「そう。あなたが街を駆けるときみたいに、超能力で何ができるかも、環境が教えてくれる。超能力は知覚も拡張するから、より多くのことを教えてもらえる。それを捉えていくのが、超能力を使う最初のステップだと思う」
亜由美は自分がいつになく熱く語っていることに気づく。本当は、こんなふうに超能力について誰かと語りたい――そう心のどこかでずっと思っていたのかもしれない。
「私も、捉えられるようになるかな?」
サラはそう言って目を閉じる。
「こうやって目を閉じると……見なくても周りのことが感じられるんだ」
それを聞いて亜由美は思い出す。今仲を倒した時、サラは目を瞑っていた。
「それがサラの“力”なんだね」
「そうみたい。まだぼんやりしてるけど……続けてたら、この“感覚”が何か教えてくれるようになるかな?」
「やってみなきゃ分からないけど、そうかもね。大事なのは、色々試すことだよ」
「何かコツはあるの?」
「コツねえ……」亜由美は腕を組む。「難しいな。人によって全然できることが違うし、感覚も違うだろうし。……実際のところ、“力”を使ってる時に何が起きてるかは、感じられない、ブラックボックスな部分も大きいからね」
「どういうこと?」
「例えば……カップを取ろうと手を伸ばすことを考えてみて。そのとき、どの運動ニューロンがどれくらい興奮してるか、なんて意識できないじゃない。意識できるのは腕の位置や形、カップとの距離くらいで、その情報をもとに、微修正しながら行為を達成する」
「超能力を使うときも、試しながら調整していく感じ?」
「最初はそう。慣れたら自然にできるようになってくる。どれくらい難しいことをするかにもよるけどね。カップを掴むのは自然にできるけど、リストの『ラ・カンパネラ』は自然には弾けないでしょ」
「そんなものかなあ」
「最初はイメージが湧かないかもしれないけど……大事なことは、感覚が教えてくれるよ。ちょっとずつ練習していけばいい」
そう言い終わってから、亜由美はあっと声を上げる。
「やば、大事なこと忘れてた。超能力を使う上でのリスクについて説明しないと」
「リスク?」
「一番大事な話だよ」
「どんなリスク?」
「一つ」亜由美は人差し指を立てる。「さっきも言ったけど――超能力を使うと、他の超能力者に察知される。わかるでしょ?」
「うん」サラは頷く。「私、それで今仲の居場所を辿ったことがある」
「もっと感覚が鋭くなると、超能力を使った“痕跡”から辿っていくこともできる。裏を返せば、自分も“力”を使えば辿られる可能性がある。見つかりたくなければ、“力”を使わないのが一番」
「わかった。……あ、そういえば」サラは質問を思い出す。「あの連中がお店を見張ってた時も“気配”を感じたんだけど……あの時もあいつ、超能力を使ってたのかな?」
「多分だけど、緊張してたんでしょ。これも大事なことだけど――緊張下や興奮状態にあるとき、無意識のうちに超能力が“オン”になることがある」
「あいつ、ビビリっぽかったもんな」
「サラも“オン”になってたよ」
「えっ……本当?」
「本当。自分の超能力が“オン”か“オフ”か、常にセルフモニタリングできるようにならないといけないよ」
サラは少し気まずそうに頷く。
亜由美は二つ目の説明に入る。
「超能力を使うと、体力を消耗する――普通の運動の時以上に。理由は分からないけど、特にブドウ糖の消費が多いから、一時的に低血糖発作が出て、最悪意識を失う危険もある。“力”を使い過ぎて動けなくなったところで敵の超能力者に追いつかれたら、命はないよ」
亜由美はサラの目を見つめて、脅すくらいのつもりで言う。サラは神妙な面持ちで聞いている。
「わかったよ」
「そもそも、“力”を使わなければ心配しなくて済むんだけどね」
「でも、使いたくなったら?」
亜由美はため息をつく。
「……私を呼んで。一人では使わないで。危ないから」
サラは不満げに亜由美を見る。
「……わかった?」
亜由美が訊くと、サラは返事をする。
「わかりましたよ、先生」
「まあそんな感じで……今日はこれくらいにしようか」
亜由美はiPhoneで時間を確認する。
「これくらいって……ほとんどアユミが喋ってただけじゃん」
サラは物足りなさそうだ。
「初回だし。次からは色々考えるよ」亜由美はサラを宥める。「じゃあ……それまでの間、超能力で周囲を捉える練習をしてみて」
「さっき一人で使ったら駄目って言ってなかった?」
「知覚するだけなら“気配”は――ゼロとは言わないけど――ほとんど感じられないから、大丈夫」
「わかった。……宿題を出されるとは」
「宿題をちゃんとやる子が伸びるんだよ」
二人は侵入した経路を辿り、学校を後にする。
亜由美とサラはこっそり学校を抜け出し、広い通りに出る。歩行者はまばらだが、車通りは絶えない。道端の自動販売機で、亜由美は二人分の飲み物を買う。サラはミネラルウォーター、自分は缶コーヒー。それを飲みながら、途中まで帰り道を一緒に歩く。
「アユミはさ、その“力”で何がしたいの?」
何気ない風にサラが尋ねる。
「特に何も」亜由美も何気ない風に答える。「自分の身を守るくらい。サラは?」
「私は……自分だけじゃなくて、他の人も守りたいよ」
亜由美は黙ってサラの話を聞く。
「アユミは笑うかもしれないけど」
「別に笑わないよ」
「本当? 弱いくせに何言ってるんだ、とか思ってない?」
「思ってないよ。……私にどう思われるかって、そんなに重要?」
「いや、その……」サラはうつむく。
「自分が正しいと思うならそれで良いじゃない。……ただ、自警団をやるようなら、私はあなたにこれ以上何も教えない」
サラは黙り込む。
亜由美は缶コーヒーを口にする。別に飲みたくなったわけではない。ただ沈黙の時間を埋める行為が必要だった。
「最初会った日のこと、覚えてる?」少し経ってからサラが口を開く。「私が見たのは、あなたと今仲が向かい合うところだった。もしあなたが“力”を持ってなかったら、どうだったか考えてよ。私が飛び出さなかったら、あなたは痛めつけられてた。“できる”ことを“しなかった”ために、人が傷つくことだってあるんだよ?」
サラは亜由美の正面に回り込み、顔を見る。
「あの時」亜由美が応じる。「超能力を使ってたのはあいつじゃない。私だった」
サラは視線を逸らさない。ただその顔に動揺が浮かんだのを亜由美は見逃さなかった。
「言わなかったっけ、あのとき〈催眠〉を“かけ返してた”って。つまり、
サラの表情が僅かに歪む。亜由美はこれ以上追い詰めるべきではないと判断する。
「サラ、人を守りたいっていうあなたの想いは美徳だよ」
亜由美はサラの肩に手を置く。
「他人にない“力”を使えば、他人にできないような素晴らしいこともできるかもね。でも……間違えたときのリスクも、より大きくなる」
「それくらい、わかってる」サラは俯いたまま答える。
「だから、まずは“力”を安全に、賢く、上手に使えるように練習すること。あなたが一人前になったら、“力”をどう使おうと私に口出しする権限はない。でも私に教わってる間は、私の言うことを聞いて。私のいないところでは、“力”を使わないで」
「はーい、先生」
「拗ねてんの?」亜由美は笑ってからかう。
「うるさいな」サラはむくれる。
二人は帰る方向が違うので、途中で別れることになる。
別れ際にサラが訊く。
「アユミもさ、昔は超能力の練習をしてたんでしょ?」
「……昔はね」
「何のために練習してたの?」
「さあ、覚えてない」亜由美は肩をすくめる。
「その時は、“力”を使ってやりたいことがあったの?」
「別に。……ただ遊んでただけだよ」
答えながら、亜由美は心拍数が上がるのを感じる。これ以上過去や内面に踏み込まれるのを、身体が拒絶しているようだ。
「まあ、楽しいもんね」サラはそう言ってふっと笑う。「今日はありがとう。じゃあね」
手を振るサラに、亜由美も手を振る。
「くれぐれも気をつけて」
「わかってるって」
亜由美は一度振り返り、サラの後ろ姿を見る。本当はまだ訊きたいことがたくさんあったに違いないと思う。でも彼女は“引き際”を見定めた。直情的で強引なとこもあるけど……本質は思慮深くて、優しい子なんだろう。何となくそんな感じがする。
逆に、そんな彼女を突き動かすのは何なのか、気にならないわけではない。でもそれは向こうの問題だし、口を出す筋合いもない。
ただ、サラが“力”のせいで傷つくのは、防いであげたいと思う。間違えて、失ったものの大きさに気づいてからでは遅すぎる。
それで、先生役を買って出たわけなのだが……本当にこれで良かったのか、自分でも自信が持てないでいる。
「あーあ」
ため息混じりに独り言を漏らす。
「あの子、無茶せんかったらええんやけど」
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