2 - 2

 夜中の2時を回る頃に、直美と亜由美は自宅に戻る。

 店にも最寄駅にも歩いて行けるくらいのところにあるマンションの一室で、間取りは2LDK。家族が2人になったときに引っ越してきた。LDKと、母の部屋が一つ、亜由美の部屋が一つ。

 リビングの一角に、小さな仏壇が置いてある。無垢材で作られていて、洋室にも合うようなモダンなデザインのものだ。

 その内側に写真が飾ってある。

 神前恭太郎。亜由美の兄だ。

 二人は線香をあげ、手を合わせる。心が安らぐと同時に姿勢を正したくなるような、独特な香りが部屋を満たす。

 亜由美は自分の部屋の明かりをつける。置いてあるのはベッドと、机、本棚、電子ピアノだけだ。亜由美は持ち物を極力増やしたくない主義だった。

 本棚にあるのはほとんど、兄が生前持っていた本だ。兄は読書家で、ジャンルを問わず幅広く読んだ。量子力学や宇宙物理学、神経科学の大学専門課程レベルの教科書が並んでいる他、モーリス・メルロ=ポンティ、龍樹、フランシスコ・ヴァレラ、コリン・ウィルソンなど、哲学や宗教学、オカルトに至るまで、ぎっしりと本棚に詰まっていた。亜由美の本はほとんどない。よく兄の持っている本を勝手に読んではいたが、自分では買わなかった。大学受験で使った本は、ほとんど譲るか、売るか、捨ててしまっていた。

 本棚に入りきらなかった本は机のうえに積まれており、結果として机は物置と化していた。亜由美は机の一番下の引き出しを開け、古い雑誌を取り出す。その下に、大学ノートの束がある。

 神前恭太郎の、研究ノートだ。

 研究テーマは、超能力。

 亜由美はその一冊を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。他人に見られた場合のことを考えてか、“これはSF小説の設定です”と言い訳できる余地を残した書き方をしているが、亜由美にはこれが兄の研究と思索の成果だとわかる。所々に英語で書かれた文書(一体どこから入手してきたのか?)を印刷したものが挟まっていて、それに几帳面な字でコメントが書き足されている。そこに、兄の生きた証を感じる。

「亜由美ー」

 部屋の外から母の声が聞こえ、一瞬どきりとする。母は超能力のことを知らない。それは、兄と亜由美だけが共有する秘密だった。

「お風呂入らんの?」

 母が亜由美に訊く。

「私ちょっと酔い覚ましに散歩するし、先入って寝といてー」

 亜由美はそう返事をする。それからノートを元の場所に戻し、その上に雑誌を乗せ、引き出しを閉める。

「わかった。気いつけや」母は寛いだ様子で言う。

「ん、いってきまーす」

 亜由美は家の外に出る。



 亜由美は歩きながら思い出す。

 初めて兄の“力”に触れたのも、こんな感じの真夜中だった。

 その日、亜由美は誰に起こされるでもなく、深夜に自然と目が覚めた。そんなことは年に数回あるくらいだったが、途中で目が覚めたとしても横になっていればすぐまた寝つけた。

 横になったまま眠くなるのを待っていると、廊下で足音がした。当時は一軒家に暮らしていて、二階が兄と亜由美の部屋だったので、足音の主は兄だろうと思った。

 それから階段を下りる音がして、家の鍵を開け、外に出て、鍵を閉める音が後に続いた。

 ときどきそうやって兄が深夜に外出していることは知っていた。ふらっと出て行っては、朝までに戻ってくる。行く前と後で何ら変わった様子もない。理由を訊くと決まって「散歩」と答えが返ってくる。

 兄のことは気にせずに寝直してもよかった。でもその日は、何の気まぐれか、兄の後をつけてみようと考えたのだった。家の鍵と、財布と携帯だけ手に取って、パジャマ代わりのジャージのまま家を出た。


 その頃に住んでいたのは伏見区の向島で、家から少し歩いたところに宇治川が流れていた。兄らしき人影をこっそりとつけていくと、どうやら川の方に向かっているらしかった。

 大和街道を歩いていく兄の後ろ姿が見えたので、20メートルほど後方から忍び足でついていく。ばれて困ることは何もないのだが、こっそり気づかれないように尾行するのはゲームみたいだったし、ちょっとした背徳感も相まってワクワクした。

 やがて兄は宇治川にかかる観月橋の歩道を渡り始める。亜由美もその後を追い、橋に足を踏み入れる。

 そこで亜由美は、人生初の超常現象を経験する。


 亜由美が異変に気づいたのは、橋の真ん中に差し掛かったときだった。

 何かの存在に気づいたのではない――むしろ、在るはずのものの“不在”が、変化に気づくきっかけだった。

 音が聞こえなくなったのだ。

 さっきまで聞こえていた車の走る音が聞こえない。それだけなら、たまたま車が通っていないだけかもしれない――でも、川の流れる音が聞こえなくなるのは明らかに異常だ。

 反射的に耳抜きをしたり、咳払いをしたりする。そういった、自分の立てる音は、普段と変わらずに聞こえる。

「何、これ……?」

 正面を見た亜由美は動揺する。さっきまで視界に捉えていた兄の姿が、ない。

 周囲を見回す。特に変わったことはなさそうに見える。ただ、目がひどく霞んで、視界が悪い。

 何度も瞬きをしたり、目を細めたり、目を擦ったりするが、見え方は変わらない。そこで気づく――自分の手や足は、霞まずに見えている。

 もう一度周囲を見て、理解する。自分の目が霞んでいるのではない。周りのもの――歩道、欄干、柵、川の水面――それら全てが、一箇所に定まらずに、ぼやけた状態で存在しているように“見えている”のだ。

 そうなってくると――亜由美は考えを捻り出す――世界が壊れたか、私の脳みそが壊れたか、どっちかだ。

「病院行かな……」

 当然先に後者を考え、独り言を呟く。

「てかまず家に帰らな……」

 元来た道を引き返そうとする。

 視界に映るものは、自分の身体の部分以外は全てぼやけていて、亜由美は目眩を覚える。

 よろめいて、思わず欄干を掴む――すると、はっきり掴んだ感触がある。まるで、実際に触れることで、一点に場所が定まったようだ。

 手すりをつたいながら、ゆっくりと歩く。少しずつ目が慣れてきたのか、カメラのピントが合っていくように、見え方が安定してくる。

 車が走り去る音にはっとする。いつの間にか、音が聞こえるようになっている。

 感覚が戻ってきたことに安堵する。まだ違和感は残る――この世界が、これまで自分がいた世界とどこか違うような感じだ――けど、このまま進んでいけば、多分大丈夫だ――。


「亜由美、そっちちゃうぞ」

 突然声をかけられ、思わず悲鳴が出る。

 声の主は、兄、恭太郎だった。

「兄ちゃん!? さっきまでどこに……」

「俺はずっとおったよ。大丈夫か?」

「大丈夫って……何が?」

「体調とか」

「さっきまで、目も耳もおかしかった……。今もちょっと違和感あるけど、マシになってる」

「よかった。俺についといで。ここから抜け出すで」

「抜け出す……?」

「後で話す。行くで」

 恭太郎は亜由美の手を取り、さっきまでと反対の方向に歩き始める。

「いや、来た方向はそっちじゃ……」亜由美は兄に声をかける。

「もう一度よく見てみ」

 兄に言われ、さっきまで進んでいた方向に目を向けた亜由美は言葉を失う。

 その先は、道路も、橋も、形をとどめていなかった。断裂して、混ざり合い、ギザギザの波のようになって大きく振動していた。

 どのタイミングかわからないが、異変が起きた時点で、空間の感覚が狂わされていたのだ。それで、逆の方向――進んではいけない方向に、帰ろうとしていたのだ。

 兄が来なければ、私はどこに行ってしまっていたんだろう?

 そう思うと亜由美は恐ろしくなり、兄の手を強く握る。

 兄ちゃんからは、違和感を感じない――恭太郎の背中を見ながら、亜由美は思う。でもそれ以外は、やっぱりどこか変に感じる。まるで、兄と亜由美だけが“こっち側”で、それ以外の世界全てが"あっち側”みたいな感覚だった。見え方や聞こえ方がおかしいのは、まだ治ってなかったらしい。

 恭太郎は亜由美の手を引きながら、何事もないように歩き続ける。今、兄ちゃんには世界がどう映ってるんだろうかと亜由美は思う。私と同じように、違和感を感じているんだろうか。


 少し歩いたところで――それは思ったほど遠くなかった――亜由美は“あっち側”と“こっち側”の〈境界面〉を認識する。

 それ自体が見えるわけではない。ただ、その手前側と奥側とで見え方が違うから、そこにあるのだと認識できる。ちょうど、透明な水面のように。

 恭太郎は歩くペースを一切変えずに進んでいく。先に〈境界面〉を越える時も、何一つ動じなかった。

 一方亜由美は、〈境界面〉を通り抜ける時、思わず兄の手を強く握った。まさか中学生にもなって、兄の手に縋りたくなるなんて思ってもいなかった。

 兄と繋いだ手が、〈境界面〉を越える。

 腕が、顔が、足が、〈境界面〉を越える。

 水中から顔を出したように、見え方が、聞こえ方が、変わる。

 見慣れた信号機。見慣れた電線。踏切。高架。トラックのエンジン音。

 元の世界に戻ってきたようだ。めちゃくちゃ緊張した割に、大して何も起こらなかった。

「ほな」恭太郎が踵を返す。「これをちょっと“閉じる”わ」

 そう言うと、恭太郎は歩いてきた方向に手をかざす。

 亜由美はその様子を見守る。目が慣れてきたのか〈境界面〉がさっきよりもはっきり分かる。

 兄が手をかざし、動かすと、〈境界面〉は波打ち、乱れ始める。

 それから後退し、縮小し、シャボン玉のようになって――消滅する。

「はぁーっ」恭太郎が大きく溜息をつく。「びっくりしたわ」

「こっちが言いたいわ」

 亜由美が返す。気づけば全身に汗をかいている。階段を百段くらい走って上った後のように、膝が笑っている。

「ほな、帰ろか」恭太郎が言う。

「ちょ、待ってや」

「ん?」

「いや……今の、スルーなん?」

「知りたい?」

「知りたいよ。てか後で話すって言うたやん」

 恭太郎は目を細め、腕を組む。先の先まで読んだ上で、どうするのが最善か考えているようだった。

「うん、わかった」

 恭太郎は頷く。

「話せる範囲で話すわ。信じるか信じないかは亜由美次第やけどな」

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