チャプター 2

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 2019年5月1日



 亜由美は昔から、動く景色を眺めるのが好きだった。車に乗っているときも、電車に乗っているときも、窓に張り付いて外の風景を見ていた。夜行バスに乗るときも、こっそりカーテンの外側に顔を出して、流れていく車の光や街の夜景を眺めていた。

 今は京都に向かう高速バスに乗っている。今回の帰省に昼行便を選んだのには深い理由はないが、普段使う夜行バスとはまた違う景色を見てみたくなった、というのはある。

 バスは海岸線に沿って走り、山間を抜け、トンネルを通る。小さい街、田園風景を横切る。天気が良ければ青空を背景にした富士山の勇姿を拝めるはずだが、この日はあまりよく見えなかった。


 バスの窓枠に頬杖をついて、外を眺めながら、旅について考える。

 そういえば、東京に住み始めてから旅行をしていなかった。その気になれば、新幹線で東北や北陸に行けるし、レンタカーを借りて北関東に温泉巡りにも行けるのに。東京23区内でも、行ったことのない場所がほとんどだ。

 別にわざわざ遠出をしなくても、よく通る道を歩くだけでも、細かい変化や気づきはあるものだ。でも、それらを感じることも忘れていた気がする。余裕がなくなってたのか? わからない。

 元々、亜由美は知らないところに行くのが好きだった。家族で旅行に行く機会はほとんどなかったが、気が向けば一人で、電車やバスや、免許を取ってからは原付で、あちこちに行っていた。

 日常の延長であると同時に、非日常でもあるような、二つが重なった感覚が好きだった。

 ふと、サラに言ったことを思い出す。

 一夜限りの冒険、てことで――。

 冒険か、と亜由美は心の中でつぶやく。

 冒険ね。


 高速バスは京都駅のバスターミナルに到着する。バスを降りた亜由美は、大きく身体を伸ばす。渋滞の影響で到着が遅れたので、日はすっかり暮れていた。

 人混みを縫うようにして、バスターミナルからJR京都駅に移動する。そこから電車に乗って、実家のある宇治市に向かう。

 六地蔵駅に着いた亜由美は、この日は実家に寄る前に、母の職場に顔を出すことにする。


「ごめんくださーい」

 そう言って引き戸を開けると、カウンターの奥から女将が現れる。

「おー、亜由美、おかえり。遅かったやん」

 この女将が亜由美の母、神前直美である。

「高速めっちゃ混んでてん。ライン送ってんけどな」

「ほんま?」

「うん。洗い物やるわ」

「ありがと」

 直美はここで《割烹居酒屋 NAO》という店をやっている。カウンターが8席と、テーブル席が一つの、こぢんまりとした居酒屋だ。

 店内はテーブル席と、カウンターが6席埋まっていた。カウンターの客のうち一人は常連の松井で、亜由美も面識があった。

「亜由美ちゃん、久しぶりやな!」

「松井さーん! めっちゃ久しぶりですやん!」

 軽く挨拶を交わした後、亜由美は店の手伝いに入る。松井は友人と二人で来ているらしく、その人との会話に戻った。


 忙しい時間帯が終わり、客は松井とその友人だけになった。亜由美は友人に自己紹介し、友人は渡辺と名乗った。

「亜由美ちゃん、大学どこか教えたってや」松井が言う。

「東大です」亜由美はさらっと答える。

「え、ホンマ!?」渡辺は目を丸くする。

「お医者さん目指してはんねん」

「えーっ、カシコやん!」

「つまり、俺の後輩みたいなもんや」松井がキメ顔をする。

「どこがやねん!」

 渡辺がツッコみ、全員が笑う。

「せや、亜由美ちゃんてもう二十歳なったん?」松井が訊く。

「はい、この4月に二十歳なったんですよ!」

 亜由美が答えると、お祝いに全員で乾杯することになった。亜由美も松井がボトルキープしていた焼酎でロックを作って飲んだ。

「亜由美さん渋いですねぇ」渡辺が笑う。「若い人って、梅酒とか飲んだりせえへんのです?」

「私、甘いお酒苦手なんですよ」亜由美も笑って答える。「ジーマとか、缶酎ハイとか、甘いし口ベトベトなるじゃないですか。一口飲んだだけで虫歯なるんちゃうか思いましたよ」

 また皆で笑う。亜由美はくだらない話で笑うのが好きだ。

 その後、2組ほど客が来たので、直美と亜由美はその接客もしながら、松井、渡辺との会話を続けた。

 直美は自分の店を持つ前から水商売をやってきていたので、客への応対が上手だ。話を引き出し、ときには自分でも盛り上げる。そうしているうちに客はどんどん飲み物を注文することになる。亜由美はたまに心の中で、母のことを“師匠”と呼んでいた。

 二人は亜由美にも色々と質問をしてきたので、適度にぼかしたり、ときに誇張したりしながら答える。東京を茶化したり――亜由美自身は東京は好きでも嫌いでもないが、東京を茶化すと盛り上がる――振った交際相手の話(結構“こすってる”やつ)をしたりして、笑いを取る。

 そして亜由美も二人から話を聞く――仕事の話、地元の話、知り合いの“すべらない”エピソード。本来、自分で喋るよりも聞く方が好きだった。

「しかし、亜由美ちゃんも将来安泰やなぁ」

 松井が嘆息混じりに言う。

「いやー、わかんないですよ、この先どうなるかなんて」

 謙遜しているが嫌味にならないニュアンスを出して、亜由美が答える。

「いつかこっちに戻って来んの?」

「ずっと東京にいることはないと思います」

「開業とかすんのん?」

「全く、わかんないです」

 事実、将来のことは具体的には何もわからない。

「えっ、あんた、この店継ぐんとちゃうの?」

 直美が冗談めかして言う。

「やろっかな、酒と割烹が出てくる診療所とか」亜由美も考えるそぶりをしながら冗談を返す。

「ほな会席料理とかも保険適応になるん?」松井が目を輝かせる。

「絶対レセプトで切られるやろ」

 渡辺が言い、みんなで笑う。そんな感じで馬鹿話を繰り広げる。


 日付が変わるくらいの時間に、すっかり出来上がった松井と渡辺をタクシーに詰め込んでから、亜由美と直美は手分けして店の締め作業をする。

 手早く片付け終わってから、少し歩いたところにあるラーメン屋に二人で入り、ラーメンと餃子を一人前ずつ頼む。

「今日はありがとうね」料理を待つ間、直美が言う。

「ううん。お店は順調?」

「何とか、ぼちぼちやな」

「連休中は混む?」

「うん。今日は空いてる方やったで」

 直美が自分で店を始めたのは2年前になる。新規開業した飲食店は1年で大半が潰れるというが、今のところ経営は順調にいっている。普段は直美一人で店を切り盛りしており、亜由美はそんな母が働き過ぎて身体を壊さないか心配になると同時に、店が上手くいっていることに安心し、嬉しくなる。

 母が最初に店を出すと聞いたとき、亜由美は正直かなり驚いた。まさか自分が大学受験を控える年に、母が自分よりも思い切ったことをするとは思っていなかったのだ。でも、その時母が言った「思い立ったが吉日や」というのはその通りだと思ったし、何より母の人生の選択なので、応援しつつ自分も頑張ろう、と考えるに至った。


「大学はどう?」直美が亜由美に訊く。

「順調。今は教養学部やから、あんまり医学を学んでる感じはせんけどな」

「教養学部で教養が身につくん?」

「教養の種類によるんちゃう。知らんけど」

「なんやのん、それ」

「他にも教養ってあるやん。客商売とかやらないと身につかない教養とか」

「そらそうや。あんたも医者になったからって殿様商売じゃあかんで」

 ラーメンと餃子が運ばれてきたので、二人で食べ始める。

「バイト先のさ」亜由美が餃子をつまみながら話す。「店長やねんけどな」

「ああ、言うてたバーの」

「一回仕事終わりに、ごはん食べに行ったんよ。それで仕事の話になって。あの店、たまにスタッフも交えてテキーラショットで乾杯したりするんやけど。で、ショットたくさん飲まされてしんどくなることもあるやん。それで店長が言ってたんがさ、『この一杯で、炭酸の瓶6本買えるなって思うと、頑張れる』って。それ聞いて、ああ、そういうところで戦ってるんや、自分で商売やるってそういうことなんやって、何か考えさせられた」

 直美はそれを聞いて何度も頷く。

「母さんも、自分で店を構えてから勉強することばっかよ」

 亜由美も母の話を頷きながら聞く。聞きながら、母も戦っているんだ、と思う。

 そして、自分のこれまでとこれからを思う。自分はたまたまテストで点を取るのが得意で、今の学校にいる。そして、よほどのことをしでかさない限り、安定した生活が待っているだろう。レールに乗っているから、どんな脇見運転をしてもゴールに辿り着けるようなものだ。

 でも――それでいいんだろうか。

 母は私の倍以上の年齢で、勝負に出た。長年の夢を叶えるために。

 私はもう、勝負しなくていいのか?

 亜由美は母のことを誇らしく思うと共に、眩しく感じていた。



「しっかりしていかなあかんね。まだまだ」

 母がぼそりとつぶやく。

 亜由美はそれを聞いて、はっと思い出す。

 ――前にも、こんなことがあった。

 兄が死んですぐの頃だ。確か母に誘われて、こうして二人で深夜にラーメンを食べた。

 その頃は今と違って、母とは衝突ばかりしていた。父はそのさらに前、両親が離婚してから交流はなかった。仲の良かった兄を失い、この世の全てを失ったと思っていたとき、母に誘われたのだ。

 亜由美は当時中学生で、深夜に外食なんてしたことがなかった。だから、夜中のラーメン屋のカウンターに母と隣同士で座ったとき、大人の仲間入りをしたような感じがして、誇らしいような、照れ臭いような、背筋が伸びるような気持ちになった。

 そのときにも、母は言っていた――しっかりしていかなあかんね、と。自分に言い聞かせるように言っていた。

 母だって、どれだけ辛かっただろう。私みたいに、この世の全てを失ったと思っただろうか。でも、母は前を向こうとしていた――私と一緒に。母の言葉は、私宛てというより、独り言のようだった。それでも、私は、それを聞いて自分がまだ独りじゃないと気づかされた。

 人生で最後に号泣したのは、そのときだった。


「ありがとうね」

 亜由美はつぶやく。目頭が熱くなっているのを母に悟られたくないので、目は合わせない。

「あんたよくそれ言うなあ」

「別にええやん」

「ええけど」

 深い理由はない。強いて言えば――母か自分の身に何かあったとき、あのとき言っておけばよかったと後悔したくないから、なのかもしれない。


「話変わるけど、あんたやっぱ酒強いなあ」直美が言う。

「強いよ。完全に母さんの遺伝ちゃうかな」

「覚えてる? ユウちゃんとこの結婚式で……」

「覚えてる」亜由美が笑う。「“シャンパン事件”な。いつの話引っ張り出すねん」

「あんときもケロッとしてたもんな」

「あれ、やろうって言い出したの兄ちゃんやってんで」

 兄との思い出も、少しずつ、笑って話せるようになってきた。

 母の知らないところで、もっと色々なことがあったのだが――秘密にしている。家族に秘密はつきものだ。

 亜由美は自分の“力”のことを母に話していない。

 兄との秘密。

 振るった暴力。

 犯した過ち。

 どれも、母には話していない。

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