2 - 3
二人は近くの公園のベンチに腰を下ろし、道の途中で買った缶コーヒーを飲む。
亜由美は冷たい無糖のブラックコーヒーを喉に流し込むと、背筋を伸ばし、大きく深呼吸を繰り返す。そうしているうちに、少しずつ平常心が戻ってくる。
「落ち着いた?」恭太郎が亜由美に訊く。
「うん」
「ビビってたん?」恭太郎がからかうように言う。
「ビビってへんわ!」
亜由美はちょっとムキになって言い返す。
恭太郎が笑い、亜由美もそれに引っ張られて笑う。二人はどちらかが笑うと、もう一人も笑う。
「ほな」恭太郎が姿勢を正す。「何から話そうか。何から聞きたい?」
亜由美は何を聞きたいか考える。
正直、聞きたいことしかなかった。その中でどこから話を始めるべきか、しばし考える。
「さっきのさ」やがて亜由美は口を開く。「私の頭が変になったわけではないんやんな?」
「違う」恭太郎が答える。「俺も同じ体験をしてたからな。二人で全く同じ幻覚を見るなんてまずないやろ」
「じゃあ、さっきのは何なん?」
「順を追って話すで。分かってる範囲で」
恭太郎は一呼吸置いてから、話し始める。
「亜由美は宇宙論とか時空のこととかって分かる? 何となくでいいんやけど」
「兄ちゃんのブルーバックスで読んだくらいやけど、その程度なら」
「多次元の宇宙の話とか、分かる?」
「宇宙は十何次元で、粒子はひもや、とか膜や、みたいな?」
「そうそう、今はそれで十分」
恭太郎はコーヒーを一口飲む。
「今から話すんは仮説の話やねんけどな――さっき俺らが通ったのは、“別の高次元時空と接した空間”や」
亜由美は兄の言ったことを脳内で反芻する。別の高次元時空と接した空間。頭をフル回転させて兄の会話レベルに食らいつく。
「例えると」
兄は両手の指を広げ、体の正面で拍手をするようなポーズをとる。ただ、手のひら同士を触れるか触れないかくらいの距離に離している。
「あくまでイメージやけど――このそれぞれの手が、“時空”を表してると思って」
亜由美は兄の言いたいことを理解する。そして、同じような姿勢をとる――ただし、人差し指の先端同士だけ触れ合わせる。
「この人差し指のとこが、さっきウチらが通ったとこ?」
「そうそうそう、やるやん亜由美」
「うぇい」
二人はフィスト・バンプをする。亜由美は兄に褒められるのは嬉しかった。
「要は、通常では重なり合うことのない時空同士が、何かの拍子に触れてしまう現象が起こるっていうことやね」
恭太郎はそう言い、話を続ける。
「手を触れ合わせたとき、接するのは“面”やろ。肌と肌の表面やから。それが時空同士だと、接するのが面の代わりに“空間”になる、て感じ。イメージで話してるから、正確ではないけどな」
「じゃあ、さっき通ってきたのは、“異空間”やったってこと?」亜由美は話についていくよう努力する。
「異空間と、“こっち”の空間が、重なり合って生まれた空間やね。別の時空そのものは認識できんし、立ち入ることもできん。イメージとしては――それぞれの時空が
「呼び方はあるの?」
「研究の報告書とか読んでると……」
「待って、報告書出てんの?」
「アメリカの機密文書とかであるで」
「は?……え、何で持ってんの?」
「秘密や」
「まさかハッキング」
「秘密。それで、報告書とかだと、〈Space-time layer = 時空レイヤー〉って表現が多い気がする。で、普通に俺らが暮らしてる時空レイヤーがあるとするやろ。その近くにもう一つ別の
「リミナル・スペース……」
「元々リミナル・スペースっていうのは建築の用語で、ある場所から別の場所に繋がる場所、場所と場所を結びつける中間地帯を指すらしい。たとえば、廊下とか、空港とかな。でさ、俺らがさっき通った空間は、“こっち”の時空レイヤーと“あっち”の時空レイヤーが接する境界の空間なわけやから、〈
亜由美は次に何と言えばいいかわからなかった。兄の頭が良いのは知っていたが、まさか時空を超えてくるとは思ってなかった。マジで何を言ってるんだ。
「ていうか、亜由美、めっちゃ受け入れてるやん。普通に考えたら意味分からん話してんねんけどな」
恭太郎はそう言って面白がる。
確かに、何でこんな非常識な話を受け入れてるんだろう――亜由美自身も不思議だった。
実際に体験したからか。それもあるかもしれない。
それか、異常現象を前にした兄の態度や、兄の説明に説得力があったからなのかもしれない。
「まだ聞きたいことあんねんけど」
「あるやろうなぁ」恭太郎はまだ笑顔だ。
「あの、〈
「まぁ、そうやな」
「……どうやって?」
「超能力を使ったんよ」
「超能力!」
亜由美は思わず声が大きくなる。声は大きくなったが、正直、自分が驚いているのかどうかもよくわからない。それ以前に、実感が湧かない。
「えっと……兄ちゃん超能力者なん?」
「うん。引く?」
「いや。バリ格好良いやん」
「うぇい」
再度、フィスト・バンプをする。この二人は割といつもこんな感じだった。
亜由美は兄のぶっ飛んだ話に――依然として実感は湧かないが――ノリを合わせられるようになってきた。開き直ったといってもいいかもしれない。
「どんなことができるん?」
「一言では言われへん。色々や。その一つに、ああいう〈空間〉を閉じたりするのもある」
「〈
「そやなあ」恭太郎は考え込む。「理論的にはいけるんかもせんけど、俺には無理やろうな」
「それは、なんで?」
「ああいう〈空間〉が発生するには、強いエネルギーが必要やと考えられてる。それもめちゃめちゃ強いエネルギーが」
「どれくらい?」
「どれくらいかは、わからん。俺が操れる力を静電気くらいとすると、雷くらい必要かもしれん」
「そんなに要るんや」
「推測やけどな……それに」恭太郎は付け足す。「仮に〈
「兄ちゃんにも、できへんことがあるんやね」
「そらそうや。できへんことの方が圧倒的に多いよ」
恭太郎は遠くの空を見つめる。
「できへんことだらけよ」そう繰り返す。
亜由美はそんな兄の横顔を眺める。
そして、恭太郎の見つめる先には何があるのか想像しようとしたが、できなかった。その目に何を写しているのか知ろうとしたが、わからなかった。
それで、次の質問をすることにする。
「超能力の、メカニズムは?」
恭太郎はそれに答える。
「隣接する〈オルタナティブ・レイヤー〉から力を得ている、ていう仮説はある」
そう言うと兄はコーヒーを飲む。しかめ面をして、どう説明するか考えているようだ。
「空間の余剰次元っていう概念があるんやけどな」恭太郎はそう言うと、一度咳払いをする。「俺らが普通に生きて認識してる空間は、3次元の空間と、1次元の時間を合わせた4次元やん。で、物理学の理論では、物質を構成する粒子とか、色んな力――重力とか、電磁気力とか――を説明するために、4次元より高次の次元を想定したりするんよ。例えば超弦理論だと、10次元時空を必要とするし、11次元を必要とする理論もあったっけな」
「その高次の時空のどっかに〈オルタナティブ・レイヤー〉があるん?」
「仮説の一つやな。例えばブレーン宇宙論って理論があるんやけど――俺らがおる4次元時空は、もっと高次元の時空の中の“膜=ブレーン”みたいなものじゃないか、ていう理論やねんけど……わかる?」
「うーん、こんな感じ?」
亜由美は左手を広げ、掌を上に向ける。
「この公園が、その“もっと高次元の時空”やとするやろ。そんで、私たちがおる“ブレーン”が、この掌の表面で」
そして、右手の人差し指で、左の掌をなぞる。
「私たちはどんなに頑張っても、この表面のことしかわからんし、この面しか移動できない。こんな感じ?」
亜由美が話すのを聞いて、恭太郎は頷く。
「そんな感じ。で、俺らがいるブレーンとはまた別のブレーンがあって、それが〈オルタナティブ・レイヤー〉なんじゃないかって説がある」
「なるほどな。じゃあさ、名前、オルタナティブ・ブレーンでよくない?」
「超能力研究の領域では、〈レイヤー〉って呼ばれてるな。何でかは知らんけど。物理学用語と被るとややこしいからってのもあるやろうし、この仮説上の〈レイヤー〉がブレーン宇宙論のブレーンと同じものとする根拠もないしね」
「確かになあ。……じゃあ、こんな感じ?」
亜由美は広げた左手の上に、右手を広げてかざす。
「この右手が〈オルタナティブ・レイヤー〉で、左手と右手の間でエネルギーのやりとりができる、と」
「そんな感じ」恭太郎は微笑む。「ブレーン宇宙論では、重力だけが余剰次元の方向に伝わっていける、とされてるけど、他にもそういう力があって、それと超能力が関係してるんじゃないか、て言われてるんよ」
「なんかすごいけど、証拠はあるの?」
「ないな」
「何で人間がその力を使えんの?」
「全く、わからん」兄は笑い出す。
「逆に、何かはっきり分かってることはあるの?」
「俺が調べた範囲では、ぶっちゃけ何も分かってないに等しいんちゃうかな」
「仮説ばかりで、実験も何もできてない、てこと?」
「そうなんやろうね」
恭太郎は溜息をつく。
「まぁ、研究しようにもな……普通の人は〈
「へぇ……はあ!?」
亜由美は叫ぶ。
それから血の気が引いていくのを感じる。
入ったら死ぬ――そんな最重要事項を何で今になって放り込んできたのか。
「えっ……私死ぬの……?」
「いや、死ぬ時は入ってすぐ死ぬらしいから、大丈夫やろう」
恭太郎は冷静に答える。
「兄ちゃん、何で同じテンションでいられんの?」
「いや、最初亜由美を〈
そう言ってコーヒーを一口飲むと、話を続ける。
「怖がらしたくないし、黙っとこう思ってんけど、言うてもうたな……でも本当、亜由美が無事で良かったよ」
亜由美は何と言えばいいか悩んだ。そんな、生死に関わるような状況にいたという実感が全く湧かず、どう反応すべきか分からなかった。
そんな中、一つの疑問が生まれる。
「兄ちゃん」亜由美が言う。「私、あの中で大丈夫やったってことは、私も超能力者ってこと?」
「うーん」兄は首を傾げる。「そんな感じはせんけど……確かに何で大丈夫やったんかな」
「私も超能力使えるようになりたい」
亜由美は恭太郎の目を見て言う。
恭太郎は黙って亜由美を見つめ返す。
「せや!」亜由美は手を打つ。「ウチらもしようや、その、研究。一緒にその〈
「やめとこ」恭太郎は首を横に振る。
「何でなん?」亜由美は食い下がる。「私ももっと勉強するし、物理学とか。それで、報告書作って、海外で発表すんねん。偉い賞とかもらえたりするかもしらんやん」
恭太郎は、もう一度首を横に振る。
「危なすぎるわ。今回大丈夫でも、次何があるかも分からんし……そもそも、超能力を使うデメリットだって分かってないわけやし、危険かもしらんし、俺も極力使わんようにしてんねんで」
「……そっか」
亜由美は引き下がることにする。こういう時の兄は、絶対に考えを変えないことを知っているからだ。
「まぁ、一度限りの冒険を楽しんだことにしようや」
恭太郎はそう言って笑うと、亜由美の肩に手を置く。
「一度限りの冒険……」亜由美はその言葉を繰り返す。
「そう」
「わかった……最後に一つ聞いていい?」
「いいよ、何?」恭太郎は亜由美を見る。
「どうして超能力を手に入れたん?」
「秘密」
兄はそう言うと立ち上がる。
「帰ろか、亜由美」
二人は公園を後にし、家に帰る。
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