*Seventieth Fishy Opium
俺の住処だと思われる古いアパートは、繁華街のへりに埋もれるようにして建っている。エレベーターなどというしゃれたものはなく、冷ややかなコンクリートの階段を三階まで上っていく。
部屋に入るなり、少女は遠慮なくソファに座って、ぐるりと室内を見回した。
「こういうお部屋のことを殺風景って言うのね。あたし、初めてだわ。クッションのひとつもないなんて」
生意気な口をききやがって。これが男だったら殴っているところだ。俺は黙って用を足しに行った。
殺風景なのは当然だ。部屋と人生はよく似ているのだから。俺の人生はつい三日前から始まった。三日よりも前のことは思い出せなかった。だから俺の世界は三日前に創造されたも同然だった。三日、といったその数字だって正しいのかどうかわからないぐらいだ。世界五分前仮説を思い出す。俺の世界はまさしくそれだった。
おそらく記憶喪失というやつだろう。不思議と、思い出せないのは“俺”という存在に関することばかりで、生活に支障は出ていなかった。錨を失った船で、どことも知れぬ大海原を漂っているが、倉庫には尽きぬ食料がある。たとえるならそういうような感覚。
記憶がないのだから、無論、なぜ喪失したかは不明だ。心当たりもない。体に傷の類いはなかったから、事故に遭ったとかそういうことではなさそうだった。名前は、部屋にあったタグをそのまま利用することにした。自分の名前だという感覚がないのはそのせいだ。眠っていた部屋も、果たして本当に俺の部屋なのかわからない。わからないが、三日過ごしても誰にも文句を言われなかったので、そのまま使うことにしている。部屋も、名前も。己の年齢すら定かでない。鏡に映るこの顔が自分のものだという感覚も薄い。疲れ切った表情をした男。二十は間違いなく超えていると言えるが、三十を超えているかどうかは判断しがたく、誰かに「お前は四十だ」と言われたらそれでも納得できそうな顔。瞳は黒く、目頭から目尻へ直線を引くと少し下向きに傾く。いつ見ても眠そうなまぶたをしていた。もう少し覇気のある表情になれないものか、と他人事のように思う。髪の毛も黒く、全体に少しうねりながら、前髪は顎の辺りまで、後ろのほうはもう少し先まで伸びている。三日前から放置している髭はだらしなく中途半端だ。人種としては白人だが、それにどれほどの意味があろう。港湾労働者のような特徴的な日焼けはなく、銀行員のような生真面目な白さもなく、日々を怠惰に過ごしてきた男らしいことがうかがえた。たるんだ腹回りがそのことを裏付けている。
洗面所を出てくると、少女は大人しくソファの上に座っていた。俺が目を離す前とまったく同じ姿勢で、きちんと膝をそろえて座っていた。
俺はデスクの椅子に座った。尻のポケットに入れっぱなしだったスマートフォンと財布が邪魔くさくて、それらを取り出しているうちに少女が話し出す。
「あたし、ヘンマン氏に追われてるわ」
「だろうな、お前の話が本当なら」
「失礼な人ね、全部本当よ。それに、本当にのんきな人ね。相手はギャングの親玉なのよ。捕まったらあなた、殺されるわ」
殺される、と少女は断言した。妙に真に迫った声音。阿呆らしい、と思いながら、なんとなく聞き流せないでいるのを自覚する。
「焦るとか怒るとか、そういうことはしないのね」
「して状況が変わるならするんだが」
「達観しているのか諦観しているのか、どっちかしら。まぁどっちだっていいわよね、
少女の話し方は蝶のように勝手気ままだった。俺は黙って耳を傾ける。
「今ヘンマン氏と敵対している、クラウディー氏のところへ、あたしを連れていってくださらない? クラウディー氏だったら、あたしもあなたもきっと保護してくださるわ」
「……クラウディー氏?」
「ええ、そうよ。ザカライア・クラウディー。ご存じないかしら」
俺はその名前に奇妙な聞き覚えがあるような気がした。ここ三日以内に新聞で読んだか、ラジオで聞いたか、そんな程度の聞き覚え。ふとデスクの上を見ると、古ぼけた新聞が置かれていて、隅の小さな記事に『ヘンマン氏の事務所で銃の乱射事件が発生。敵対するクラウディー氏による犯行か?』と載っていた。なるほど、どうやら俺はここで見たらしい。三日より昔のことだけでなく三日間の記憶すらあやふやとは、なんとも情けないものだ。
「そんなに上手くいくか?」
「いかなかったら戻ってくるだけよ」
少女は誇らしげに黒のポーンを掲げ上げた。
「おじさまはゲームってなさる?」
「存在はわかるけど」
「最近のゲームって、どれもこれもオートセーブ機能がついているのよ。何もしなくても、メモリーカードに自動的にそこまでの記録を書き込んでくれて、それで、あたしたちはいつでもそのデータをロードできる。そういう仕組みになっているのね」
一体何の話が始まったのか、欠片も理解できなかった俺は、頷きもしなかった。
「それで、あたしの
と、少女が黒のポーンを両手に包み込む。
「そのメモリーカードなの。あたしの人生は全部、オートセーブされているのよ。それで、このメモリーカードにセーブされた地点であれば、いつでも、どこでも、ロードできるっていうわけ。でもね、スロットは一つだけなの。だから、一度ロードしてしまったら、そこまでの進行状況はリセットされるのよ。それに、メモリーカードなんだから当然なのだけれど、これを手放している間はセーブもロードもできないの。――理解できないって顔ね。仕方ないわ、その気持ちは想像できる」
少女はいっぱしの大人のように言って、ソファの背に軽くもたれかかった。
「ここでしばらくゆっくりしても大丈夫かしら。それとも、すぐに動くべきかしら。おじさまはどうお考え?」
考えも何も、俺は、俺もお前も麻薬に漬けられた人間のようだなと思っていたところだ。
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