*A Girl Saves You
少女を連れて出てきたのはやむを得ずの判断だ。だってこのガキ、「誘拐してくださらないなら今ここで騒ぐわ」「あたしが騒いだらひどいことになるわよ」「おじさまの靴はあたしが隠しちゃったわ。だって見つけたんだもの。きっと重要な証拠になるわね?」とうるさかったのだ。
がらがらのダイナーのボックス席に向かい合う。ソファの上に置き去りにされていたらしいニューヨークタイムズを、「猿が書く」と呟いて、少女がテーブルの隅に放った。
妙なことを知っているガキだな、と俺は思った。まぁ、New York TimesのアナグラムがMonkey Writesになる、なんていうのは、アナグラムの中でも有名なのかもしれないが。
「で、なんだってお前は誘拐なんかされたがったんだ」
「あたし、あのお屋敷に閉じ込められていたの。軟禁っていうのかしら、監禁っていうのかしら。まぁ、どちらでも構わないわよね。鳥籠の中にいても、家の中にいても、空を知らないのは同じだもの。それで、おじさまのお名前は?」
俺は頬杖をついたまま、胸ポケットから紙のタグを取り出した。空港で荷物に付けるような、赤い縁のあれだ。少女に向かって放る。
「Thomas Dixonne Testi」
鈴を鳴らすように少女は発音した。他人に読まれた名前は、よりいっそう自分のものでないような響きをまとっていた。
少女はうやうやしく、両手でタグを掲げ持つようにして、長々とその名前を眺めていたが、やがて「不思議なお名前」と呟くと、タグをテーブルの真ん中に置き直した。
俺はそいつを元通り胸ポケットにしまい込む。雨はいよいよ強くなり、ダイナーの窓を打っていた。けだるげなウェイターがカウンターの一席を占領して煙草を吸っているのが見えた。窓に反射したその姿はにじんでいる。
しばらくしてから少女は言った。
「あたしはグロリアよ、おじさま」
結露した窓ガラスに指を滑らせ、少女は器用に名前を綴った。
Gloria Eva Souty
あまり聞かない苗字だ。フランス系だろう。緑の瞳。金色の巻き髪。ブロンドは馬鹿という偏見は今や古いのだろうか。おそらく十歳を超えて二、三というくらいだと思われるが、よくわからない。八歳だと言われたらまったく疑わずに信じるぐらいに小柄で華奢だが、十五歳だと言われたら疑いつつも呑み込むほどに大人びた雰囲気をしている。いずれにしても、年齢に見合わない賢さと落ち着きを備えているように見えた。窓と雨と夜を通して見ているからかもしれない。白いワンピースだと思っていた服は実際には白いブラウスで、下は紺色のスカートで、どちらにもフリルだのレースだのがたくさんついていて高そうに見えた。
「ねぇ、おじさま。あたし、過去に戻れるのよ」
俺は夜から目を離した。
「なんだって?」
「時間を遡れるの。だからあたし、おじさまが泥棒に来るってこと、知ってたのよ」
「……へぇ」
俺があんまり気のない返事をしたからだろう。少女は頬を膨らませて、「本当なのよ」と主張した。
「あたしは過去に戻れるの。これを持っている限り」
少女の手の中には黒のポーンがある。あの金庫の中に入っていたものだ。普通のチェスの駒より二回りほど小さくて、少女の手のひらにすっぽりと収まっている。
「だから、よ」
「何が?」
「お屋敷に閉じ込められていたの。あのお屋敷はヘンマン氏のお屋敷よ。レナード・ハーバート・ヘンマン氏、ご存じ?」
ヘンマン氏。この辺りの裏社会のトップに堂々君臨している男。まるで未来を見通しているかのような立ち回りをすることから、悪魔を飼っていると噂されている。
「あたしはヘンマン氏に利用されていたの。未来で不都合なことが起きたら、過去へ戻って警告をしろ、って」
「ずいぶんと小さな悪魔がいたもんだ」
俺は窓ガラスに目を戻した。ガラスの上を流れていく雨粒が奇妙な紋様を作り出す。ウェイターがあくびをして、何本目かわからない煙草に火をつける。
「話は後にして、移動しましょう。おじさまのおうちでいいわ」
「何様のつもりだ」
「悪魔の言うことには従っておいたほうがいいわよ、おじさま」
面倒なことになった、と思ったが、抵抗するには
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