素敵な二人きり

井ノ下功

This Man Does Not Exist

   *A Mere Gory Thief Cheats

 泥棒に入ったことに深い意味はなかった。そこにセキュリティの甘い豪邸があったから、とでも言おうか。ともあれ俺は、涙が一滴でも落ちればそれが呼び水となって雨になりそうな真夜中、その屋敷に忍び込んだのだった。

 恐ろしいほど静まり返っていた。靴下でかさかさと進む音すら響き渡っているような気がしてならない。人の気配がほとんどなかった。金持ちの別邸だろうか。それとも旅行中か。だとしたら現金は期待できないな。アクセサリーの類いも望み薄。せめて何か小さくて、売りやすいものでも持ち帰らせてもらおう。

 二階の奥、寝室と思われる扉を開ける。部屋には誰もいない。ベッドにはシーツすら掛かっていない。カーテンもなく、外灯の明かりが差し込むせいでうっすらと明るい。自分の影が薄く長く伸びていた。

 これは駄目だな、と思ったが、念のため部屋の中を物色した。壁の絵とか、置き時計とか、意外な金の卵を期待したわけだ。どれも期待外れだったわけだが。壁の絵はマグリットのジグソーパズルだったし、ベッド脇の置き時計は止まっていたし。

 次の部屋を見て、何もなければ出ていこう。そう決めて置き時計を置いた。そのときにふと、妙な直感が働いた。

 マグリットのジグソーパズルを見直す。明るい窓際へ目線を動かす。窓から外は裏庭。雲のせいで月は見えない。戻ってくる。もう一度、マグリット。

 口先だけで『これはパイプではない』と言うのは容易い。

 何の気なしに額を壁から外してみると、そこには穴が開いていて、金庫が収まっていた。普遍的な、鍵穴とダイヤルのついた、横長の小さな金庫。

 唇をなめて湿らせた。腕が鳴る。

 鍵のほうのピッキングはすぐに済んだ。技能が脳ではなく身体に染みつくものでよかった。ダイヤルに取りかかる。耳を澄まし、指先に神経を集中させて、遅すぎないスピードで回していく。これが俺の好きなことだ、と本能が告げていた。きりきり、きりきり。この指先で、かすかな違和感、わずかな引っかかりを捉えなくてはならない。実感こそないが、心は間違いなく躍っている。きりきり、きりきっ。見つけた。一つ目。次はどこだろう。きりきり、きりきり、きりきり。この精神の高ぶりを性的な恍惚に似ていると言ってしまうのは簡単だ。少し違う気がしてはいるものの、類義語であることは確かである。きりきっ。二つ目。次。きりきり、きりきり、きりきり、きりきり。類義語同士のわずかなニュアンスの違いを言語化できるほど精通してはいない。きりきり、きりきり。消息と音信。論理と理論。公平と公正。デマとガセ。きりきり、きりきり、きりきっ、がちん。開けゴマ。夜に息を潜めて絶頂に至るところは否定しようがないほどよく似ている。

 金庫は滑らかに口を開けた。

 中には――それを視認する前に、

「ねぇ、おじさま」

 悲鳴を上げなかったのは奇跡だ。跳ね上がった両肩が落ちてきて、その衝撃で、喉の奥に刺さった絶叫の破片が外れる。奇妙な音を立てて食道を滑り落ちていく。

 声のほう、右手側を見下ろすと、そこには少女がいた。白いワンピースが幽霊のように浮かび上がっている。

 少女は俺をじっと見上げていた。

「あたしを誘拐してくださらない?」

 ぽたり。涙が落ちた音。

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